7月 7 2006
光のサルベージ
前々回、「アクアフラット、再び」のところで例に出した”奥行きの一点同一化”について引き続き書いてみる。
そこでは無限遠が無限小と一致していることが素朴ながらも直観的に見てとれた。その描像からは点と直線は全く区別がつかないということが分かるだろう。僕らが広大な広がりとして概念化している3次元空間にしても大して事情は変わらない。嘘だと思うならば、対象の中心点を想定して、そこを中心にその0点が常に見えるように君も回転してみるといい。中心点0の背後に想定される無限遠は常に0点と同一視されることがすぐに分かるはずだ。内面意識に慣れ親しんだ僕らには即座には理解しがたいことかもしれないが、このことは、僕らの知覚に映し出されている無限遠の球面の内壁は無限小の球面の内壁に相等しいということを意味している。つまり、光そのものへと変身した外面知覚においては、「モノの外部も内部も同じ場所」なのである。ここに現れるのがヌース流4次元知覚である。
無限大=無限小、無限小=無限大、こうした領域の抉り出しのことを僕は「微分化」と呼んでみたい。かのドゥルーズも知覚の強度が生起している場所のことを〈微分化-差異化〉と呼んでいたが、これは全く正しい。ヌースの考え方からすれば、知覚は網膜でも視覚中枢でもなく、光子や電子という微粒子領域そのもので起こっているのだ。アンカーヘッドを切除して光に変身するということは、知覚野をミクロ世界へと接続させるにことよって、真の主体の位置を対象の中心点に移動させるということであり、そのとき、三次元意識の中でモノを挟んで向かい合っていると想像されていた自己と他者との位置関係は一気に反転し、互いに背中合わせの自他となって、モノの内部へと移動するということなのである。こうした主体の認識の変更をヌースでは「位置の等化=ψ5」という。つまり、天球面が対象の内壁と全く同じものに見えてくれば、位置の等化は完了となる。ドゥルーズの〈微分化-差異化〉の概念は、ベルクソンが唱えた差異、すなわち純粋持続の概念から来ているが、実際、当のベルクソンも次のように言っている。
「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。」(『思想と動くもの』)
ただ、ベルクソンは唐突にそう書いているだけで、その理由をつまびらかにはしていない。ドゥルーズにしても同じだ。差異化の位置は確かにミクロの微粒子にあるとは書いているが、明確なロジックがあるわけではない。外面知覚がこうして幾何学的に描像されてくれば、それは知覚的事実としてイメージされてくる。このように無限大=無限小が、知覚から実際に抽出され概念化されてくることが、ヌースが「人間の外面の顕在化」と呼ぶ出来事なのである。哲学は潜在的な外面の位置を生の現場や、実在、実存という言葉で語ってはきたが、それがどこにあるか、その場所をはっきりとは示しきれなかった。それは、モノの中の無限小領域にある。世界は素粒子世界の内部にあるのだ。
さて、恣意的に話を進めよう。僕が観測者の視線とは虚軸である、と言ったことを思い出して欲しい。この微分の考察に視線虚軸説を加味すると、面白い接続が想像されてくる。外面の獲得を位置の微分化δ/δxと考え、モノの背後の奥行き方向に想像された線分を「− i」とすると、前々回、「水」の字形で示したアクアフラット上のx,yzという座標系は、それぞれ(- i・δ/δx、- i・δ/δy、- i・δ/δz)と表記できることになる。
はて、これは何かに似ていないか?そう、実は、物理学が量子力学において使用する量子化された運動量と極めて似てくるのだ。量子の世界では位置や運動量といった物理量は演算子に置き換えられ、演算子は量子状態を記述する波動関数に作用することによって、具体的な物理量となる。それらを正しく列挙すれば、次のようになる。
px⇒ – i(h/2π)・δ/δx
py⇒ – i(h/2π)・δ/δy
pz⇒ – i(h/2π)・δ/δz
違いは定数(h/2π)だけだ。僕は前に物理学が扱うベクトルとは対象から観測者へと向けられた力の方向性だと言った。これは、物理世界の諸力は、モノの力に起源があるのではなく、モノが知覚や認識という観測者の実存に向かって変換されているために起こっている力だという意味である。その意味で粒子の運動量ベクトルもまた観測者の存在と深く関係している。ここに挙げた粒子におけるx、y、z方向の運動量の量子化とは、対象から観測者に対して放たれたx、y、z方向への知覚の強度の表現形式であると言っていいのかもしれない。例えば、ビルを正面から見た像(px)、側面から見た像(py)、真上から見た像(pz)、そして、それらを総合して得られるビルという像。。これはおなじみ設計図の様式である。これによって、建築家は建物の全体像を意識にイメージする。ここに生まれる建物全体のイメージとは何か——それはまさに反転した光と呼んでいいものである。時空に発散している光ではなく、観測者に焦点化された光。それが外面の光というものなのだ。その光は、決して形になることのないビルの三次元像であるpx、py、pzを、統合された像の強度1/2m・(px)^2+(py)^2+(pz)^2として送り出す。1/2mの正体は何かまだ分からないが、この式は自由電子のエネルギー演算子と呼ばれるものである。
OCOTは「電子とは光の抽出」と言っていたが、僕から言わせてもらえば、電子とは光の救出(サルベージ)である。半導体開発も宇宙開発も悪いとは言わないが、水面下に深く潜ってしまったアインシュタインの光を、シュレディンガーの光へと変えていくこと。それが、21世紀という時代の物理学の努めではないのか?
7月 13 2006
タブラ・ラサからの出発
最近、ヌース理論の難解さに拍車がかかって、とてもついて行けないという噂をあちこちで聞く。
う〜む。これは少しリセットするべきか。。
哲学や物理学の話を多用するのは、別にヌースを高尚な思想に仕立て上げたいからではない。長年温めてきているヌースの構造イメージを、より広範囲に様々なジャンルと連結させたいがためのわたしなりの格闘である。わたしの身勝手な直感から言えば、科学も哲学も宗教もオカルトも精神世界も、すべて、ある特異点で等化されると思っている。その特異点を巡る思考様式というものがあって、その中心に幾何学やトポロジーが位置すべきではないか、と思っているだけなのだ。もちろん、その思考は表象としての思考であってはならない。表象としての幾何学ならば、それは単にモデルの範疇を出ないからだ。イデアはモデルではない。例えば太陽のイデアなるものがあるとして、そのイデアを抉り出したものは、太陽そのものを作り出す。それがイデアを巡る創造的思考というものだ。
神が創造の始めにおいて行うことは、世界をタブラ・ラサに戻すことである。そして、そこから、最初の思考が一本の線を引く。いや、線を引く前に点を打つ。では、神にとってのその「点」とは何か?そうしたことが問題となるのが、イデアの思考である。わたしはそのヒントをプラトンに得た。
点とは見ることてである。そして、それは始まりのイデアである。
プラトンはそう言っている。そうやって、そこから見ることとしての点がどのような発展を遂げて行くのか——それを、類推し、あーでもない、こーでもないと試行錯誤しているのがヌースだ。
その格闘は見方によっては無様かもしれないし、初期のヌースの弾けるような初々しさを消し去っているのかもしれない。しかし、わたし個人の内部では、極めて観念的だった構造が、自らの身体知覚の中に統合され、しっかりと「概念化」されていきつつあることをしっかりと感じ取っている。ここでいう「概念化」とは、conceptの語源通り、「孕む」ということである。思考が何かを孕む、というのは、悟性と感性の一致においてしかあり得ない。悟性と感性が奇跡的な一点で融合すること。そこに概念の受胎がある。このとき、概念と事物は別物ではなくなる。何かをモデルとして思考するのではなく、その思考の線、運動、そのものが、生成の深部、基体と結合する。今の僕はそのことにしか興味がない。それが傍目には無味乾燥と思えても、それでいい。
前期ヌース(過去のヌース本三冊までの内容)は、まだ、モデルの段階にすぎなかった。例えば、顕著な例が、「主体の位置は無限遠点」にあるといったような内容を考えてみるといい。主体の位置が無限遠にある、と仮定して、意識のあり方を空間構造を通してモデル化することはできる。NCでも、何でもいいが、そこに点をポンと打って、∞の印をつけ、そこに反転した中心としての無限遠点を措定すれば、事足りることだ。主体はその位置から3次元を見ている。。。もっとも純化された観察の幾何学的な定義を「直交」というように仮定すれば、それはそれで筋が通るし、理屈の運びとしてはそれほど的外れなものでもないだろう。事実、前期ヌースの時期は、その無限遠は事実としてどこか?という問題にはあまり突っ込まず、ひたすら、モデル内部で派生してくる様々な位置の関係性にばかりこだわっていた。しかし、実態のないマーキングをいくつ施したところで、そうした理屈は、それなりの面白さはあるが、あまり意味があるように思えなくなっていった。3次元空間上の無限遠の位置を探すことが4次元認識の構築のために必要不可欠なことであれば、その実態を感官にとって何として現れているのかを指し示す必要がある。それがなければ、科学が描く原子モデルや構造主義が描く無意識構造のモデルと大した違いはない。
構造を外部から指し示すのではなく、自らが構造体へと変身すること。これがヌースの根本的立ち位置である。その意味で、最近は、無限遠(ψ3の位置)とは視野空間そのものである——と言い始めた。こうした言い回しはたぶん難解きわまりないのかもしれない。しかし、今のところ、それに変わる表現はみつからない。
絶対的な差異を持つ思考は、タブラ・ラサ(白紙)からしか始まらない。それは跳躍であり、離脱である。と言って、今までの主体がこの世界から離脱していくわけではない。今までの主体は自己同一性の中に閉じたままで別にかまわないのだ。絶対的な差異の思考は周回軌道を外れて行く衛星のように、たった一つで無限の創造空間にコースを変えて行く。それは、この世界とは別の領域で静かに脈動し出す新種の生命のようなものだ。僕らは、ついつい、今の社会的現実に役立つもの、今の生活的現実の問題を解決するもの、今の人間的現実の苦悩を解決できる方途が何かないものか、そこに興味の中心を持って考え続ける。しかし、創造的思考はおそらく、そういうものとは全く距離を置いたところで、独自にその領野を拡大していくはずである。それは諸問題を解決する方途なのではなく、結果的に、解決するものとなるだけなのだ。目的は創造、それのみ。一人の人間としてしかと大地に足をつけて生き、また、一人の天使として天空を駆け巡る。それでいいのだ。そこに一つも矛盾はない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: プラトン, 無限遠