7月 16 2006
三重の球体
ヌース理論は結局のところ、どのような世界イメージを提供しようとしているのか——今日は、それについて、半ばオカルト的に簡単にメモしておこう。
存在世界には秘沈している三重の球体がある。それを見い出せ。ということである。三重の球体とは、普通の言葉で言えば「体(body)・魂(mind)・霊(spirit)」のことだ。ここでいう「体」とはモノ全般、「魂」とは空間、「霊」とは魂としての空間が球体に見えるようなもう一つ高次の球体空間、と考えるといいだろう。イデアは、つまるところ、この三重の球体構造をベースとして、それら相互に様々な幾何学的観念を張り巡らし、世界の創造をマニピュレートしていく。その意味で言えば、ヌース理論とはタマの思想である。玉(タマ)と魂(タマ)と霊(タマ)。これら三つの球体を知覚するセンサーを作り出すことさえできれば、創造の秘密を解く鍵が手に入る。
noosの力自体は、この三重の球体構造の間をちょうど糸でかがり縫いしていくように、何度も何度も周回していく知性として出現する。noosがどのようにしてこうした旋回舞踏を始めることができたのか——それは、霊がモノへと舞い降りてくる現場を目撃したからだろうと思う。霊は自らをモノとして表現する。いわゆるペンテコスタ(聖霊降臨)の風景だ。世界中のモノというモノに霊が舞い降りてくる。それらはやがて雪のように降り積もり、モノをボガ・マテリア(神の物質)へと変えて行く。と言っても、それは決してファンタジー映画のように淡い色彩で生起するのではなく、明晰な知性のもとに、ありありとした現実として描き出されていく出来事になるだろうと思う。
霊がモノへと降り立つ現場とは、いつも言ってるように4次元からの射影点である。この射影点は、対象を凝視する一点に、自らの魂のすべてが凝縮されているという意味を持つ。今、君が見ている風景が君にしか見えないという事実。このことについてじっくりと考えてみるといい。君のアイデンティティーが見ることその一点にあるのも、元はと言えば、その一点に、君の見るもの、触るもの、聞くもののすべてが再帰してくるような仕組みが、この空間にセットされているからなのだ。
モノは見るもの=魂によって支えられている。無数の魂によって、モノが支えられているということにもっと敏感になること。モノをかたどっているその皮膜に魂の集合体としての霊そのものの息吹を感じ取ること。そうした感受性が研ぎすまされたときに、聖霊降臨という奇跡は起こる。
いずれにせよ、この出来事が生起してくるためには、プライマル・ガイスト(原初霊)が形成される必要があるのかもしれない。これは、現存する魂のすべてを集合させた巨大なタマのようなものだ。死者たちが待機する場所——この場所には一定の容積があり、時期が到来すれば、このタマは弾け、一斉にプライマル・ガイストとして活動を開始し始める。死者の復活だ。しかし、勘違いしないよう。それは肉体としてゾンビのように墓から這い出てくるのではなく、ボカ・マテリアを支える一個の魂として活動を再開するのだ。僕らが今、見ている自然は、そうした、死からの復活を遂げた無数の魂たちの共同体として見なされるべきである。世界が尊厳に値するのもそのためなのだ。
ちょっと宗教臭くなってしまった。パス。ここに挙げた三重の球体を、物理学のように、スカラー空間、ベクトル空間、スピノール空間と呼ぶもよし、オカルティストのように、体、魂、霊と呼ぶもよし、哲学者のように、客観、主観、もの自体と呼んでも構わない。それらに一体何の違いがあるだろう。重要なことは、科学的思考が持った物質的同一性と、宗教や哲学的思考が持った観念的同一性を、互いにつなぐ架け橋を見いだすことだ。その架け橋こそが、絶対的差異存在、つまり、あらゆるものの調停者たるイデアなのである。
7月 18 2006
内面振動と外面振動
アンダラセンさんからヌース会議室の方にe^iθ回転についての書き込みがあった。この際だから、e^iθ回転に関する目下のところのヌース解釈を取りまとめて書いておこうと思う。
e^iθ回転とは有名なオイラーの公式e^iθ=cos(θ)+I sin(θ)が表す円軌道のことだ。これは、複素平面上では、原点Oを中心とする半径1の円として表される。
さて、このe^iθ回転だが、ヌースの解釈では、これは人間の意識における内面位置と外面位置の相互補完的な関係を表している。虚軸方向の振動(sin振動/上図ブルー)が外面位置ψ3領域の振動で、実軸方向の振動(cos振動/上図レッド)が内面位置ψ4領域の振動である。量子論ではこれらが運動量pの確率振幅と位置r(x,y,z)の確率振幅として解釈される(ヌースでは運動量次元=ψ3、位置次元=ψ4と解釈している)。
内面振動とは何かというと、それは、自他においては、空間の3次元方向への膨張と収縮のイメージとして現れる。意識には空間の延長を想像する能力が備わっている。「直径30cmのバスケットボールを想像して下さい」と言われれば、意識は即座にそのイメージを作り出すことができる。それが直径約12742kmの地球という球体の場合であれ同じだろう。意識はそれを思い描くことができる。意識は空間の広がりや縮まりを、スケールに縛られることなく、自由に飛び回って想像する力を持っているわけである。そこで振動している力がここで内面振動と言っているものと考えていい。
一方、外面振動とは何かというと、それは、そうした内面振動をノエマ(意識対象)として想像しているノエシス(意識主体)側の働きである。言い換えれば、つねに延長としての球体を外部から観察できる意識の位置と言っていいだろう。ここにも実は振動が存在している。極端な話、宇宙の半径が137億光年と言われれば、僕らはとてつもなく巨大な空間の玉を想像する。この想像はある意味、内面振動における膨張の極限のようなものである。しかし、そこに直径なにがしという球体の象り(かたどり)が想像されている限り、意識はそれを外部側(外面)から捉えているということにもなる。もちろん、この場合の位置は、外部側の極限でもあるわけだが。こうした外面の位置も内面振動とともに表裏一体で振動していると考えるわけだ。
このように、意識を空間そのものに内属する性質と考えれば、内面が縮めば縮むほど外面は膨張していくし、一方、外面が縮めば縮むほど内面は膨張していく。この反復の様子は容易に君の意識にも「想像」できることだろう。そして、そうした想像力の在り方は、実際には、君と僕の間では互いに反転している。というのも、君を取り囲む球体を僕は外部から認識できるからだ。もちろん、その逆もアリである。
僕らの空間認識では、こうした自他間の「内・外」の相互反転関係が見えておらず、内=内*、外=外*というように、それらを互いに同一視してしまっている。この同一視が、結果として、数学上では複素共役関係の積として表されることになる。量子論的に言えば、客観空間で一つの特定の位置r(x,y,z)や運動量pの確率を決定するには、このψψ*という掛け算がどうしても必要になるということだ。
さて、こうした解釈を総合して、このe^iθという円環上の座標点の運動が何をなぞっているのかについて考えると、答えはすぐに出てくる。それは、意識における空間上の球形の「象り」である。この象りの振動は、別の言い方をすれば、自他間での意識の相補的な呼吸であるとも言える。光と闇を相互に交換し合いながら、それらのバランスを常に量ろうとする精神の確固たる中立性、このe^iθ回転にはそうした意思が現れているのである。e^iθ回転の場とは物理的に言えば電磁場でもあるのだが、ヌース的には、電磁力における力のやり取りとは、自他間における空間認識の交換場所としてイメージされてくることになる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: 内面と外面, 量子論