7月 20 2016
生成の音楽を聞き取るために
空間をすべて奥行きで見る思考とは「なるものとしての思考」と言えます。僕らはまだ空間を幅で見る思考しか知らないので「あるものとしての思考」しかできていません。世界を対象としてしか見れていないんですね。こうした思考とは死んだ思考です。「ある」という結果の中に思考が埋葬されている。
誰しもときに「わたし自身が世界である」という直感に触れることがあります。しかし、そのとき、「ある」世界に自分のイメージを重ね合わせても「なる」の世界には届きません。「なる」に思考が届くためには眼差し自身を自らの持続的身体に変える必要があるのです。
「あること」を成らせているもの。その最初の力が実は光子なのです。
光は「あること」の中で彷徨っています。光が自らの素性に気づいたとき、光は縮みます。この縮んだ光が光子(γ線)と呼ばれているものです。時空を満たしていた「光あれ!」としてのタルムード的光が、自分の役目は終えたとばかりに身を縮めて世界から撤退していくこと。こうした神学的事件のことをカバリストたちはツィムツーム(収縮)と呼びました。
素粒子は「あるもの」ではありません。光子に始まる素粒子のスピンの本性は奥行きを通した内的空間の拡張が収縮の中に見てとられているものです。「あること」から思考が解放されてくれば、それらがすべて自らの内在性を拡張していっている精神の運動だということが分かってきます。
この「なる」という運動の看取は「ある」世界に対する内破力と呼んでもいいものでしょう。霊的参入はこうしたイメージで捉えられなければいけません。このことは同時に霊的世界を霊感や神秘体験の中に見る時代も終わりを告げるということを意味します。霊とは対象ではなく、自身の中に眠る生きた思考の力そのものだということ。これを忘れないようにすることが大事です。
少しずつでも構いません。意識の重心を「幅」から「奥行き」へと、そして「流れる時間」から「流れていない時間」の方へと遷移させていきましょう。そして、そこから「ある」世界がどのようにして「成って」きたのか、その未知の内的空間の深みにイメージを膨らませていきましょう。
扉はすでに開いています。
7月 27 2016
ほんとうのグローカル―「位置の等化」の顕在化が確実化したかも
学会で相互了解が取れたかどうかは未確認なのだけど、これが本当だとすればヌーソロジー的にはかなり美味しいニュースです。
「光の常識がくつがえる? 物理学者が新しい光の形態を発見!!」
http://www.gizmodo.jp/2016/05/post_664651.html
記事の内容は「スピン1/2を持つ光子が発見された」ということになるのでしょうが、これは物理学の常識からすればトンデもない話です。光子はスピン1に決まってる(笑)。もし本当だったら、ドミノ式に今までの物理学を考え直す必要が出てくるかもしれません。
で、この発見のヌーソロジー的解釈ですが、これは人間の意識が局所認識と非局所認識を等化した、といったような意味合いを持つと思われます。ここでもずっと言ってきた「観点の球面化」の顕在化の意味ですね。
ヌーソロジーでは光子は局所認識のためのタマです。これはスピン1という角運動量を持つと考えて下さい。しかし、今回のニュースはそれがスピン1/2だったと言っているわけです。スピン1/2とは本来、クォークや電子などの物質粒子が持っているスピンです。
ヌーソロジーが考えるスピン1粒子(ボゾン)とスピン1/2粒子(フェルミオン)の違いは局所認識のタマか非局所認識のタマか、というところにあります。
ですから、今回のニュースは今まで局所認識しかできていなかった光子が非局所認識を手に入れた、という解釈になるわけです。この「非局所認識」のタマというのが、いつも言っている「観点の球面化」のことなんですね。
「観点の球面化」は人間の観点を無限遠点と仮定したときに生起する幾何学的必然性のようなものです。それによって、時空の広がりと見なされていた外部は内に反転し畳み込まれ、散在していた無数の局所は一点に重なり合います。このとき奥行きを虚軸と見なせば、この球体は物質粒子(フェルミオン)のカタチを持ちます。
この球体の回転は
ψ’=e^(iθ)・ψ
つまり、大局的位相変換(グローバル・ゲージ変換)としてのU(1)変換というものに当たります。ヌーソロジーからの解釈としては、これは意識が経験している諸々の位置の記憶を常に目の前の持続空間に固定するための運動の意味を持ちます〔下図参照〕。
この球体は時間と空間をそのまま巻き込んでいます。その巻き込みの状態を数学的形式として表現すると、
Ψ’=e^{iθ(r,t)}Ψ(r=x,y,z)
となります。これはこの球体の回転の位相θが直線的時間や空間の位置を糸巻きのようにグルグルと巻き取っている状態を意味しています。
ですから、当然、この球体が回転すると時間と空間の位置がズレていきます。ズレてしまうと局所は局所の認識を固定できず、この持続のタマの中で記憶全体の中に溶け込んでしまいます。それを防ぐためにそのズレを是正する逆変換性が働いています。それが局所的位相変換(ローカル・ゲージ)としてのU(1)変換と呼ばれているものではないかと考えられます。物理学的には粒子のラグランジアン(エネルギーのようなもの)の保存の意味を持ちます。粒子の運動方程式のカタチを変えないということです。時間と空間の位置がズレたら、方程式が意味をなくしますから。
ヌーソロジーはこのU(1)変換を人間の意識の成り立ちの意味として考えます。つまり、大局的変換で非局所を記憶として携える一方で、それをそのときどきの局所認識にも反映させる必要があるということです。これが局所的U(1)変換における対称性の意味になります。この対称性が保存されているから、人間は局所的認識と非局所的認識を同時に持つことが可能となっている、と考えるわけです。
このU(1)変換は観点の球面化に対して観点自体の自転の空間として人間の意識に反映されています。自分の周りに空間があると思っている方の空間認識ですね。そこでは確かに位置がバラバラに局所化されているのが分かります。
そのいずれかの方向を見れば、ポツンと対象があり、そこに局所認識が成立しています。このとき、対象の周りをグルグル回っている持続空間が光子です。
で、もう一度、記事の話ですが、この光子が物質粒子のスピンを持つということは、大局的位相変換を可能にするということですから、人間が局所認識の空間の上に重なり合うようにしてある無数の他の対象(非局所的記憶のことです)を認識し始めた、ということになります。「中今」の覚知です。タイトルにある「位置の等化」の顕在化のことですね。
もし今回の発見が事実だとすれば、こうした人間の意識的変化が物理的に反映されたのだと言えるかもしれません。観点の球面化の力が確実なものとなった、ということですね。
物理学の知識がない人にとっては、今日も難しい記事になったかもしれません。でも、言いたいことは、物理の知識は自分と無関係なものではなく、むしろ、ある意味では宗教や哲学なんかより、生きている自分と密接に関係したものだということなんですね。
素粒子構造を意識の構造に変容させる、という作業はホント骨の折れる地道な作業なのだげど、この世界から「物質」という概念を消滅させるためには絶対に通らなくてはいけない道だと思っています。これは理性が理性を超えていくための唯一の手段です。人間は理性の変容によって非人間的な生、人間を超えた生も持てるはずなんです。素粒子とはその証です。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: 位置の等化, 光子, 素粒子, 顕在化