9月 4 2006
ツイスターの思い出
僕には苦い思い出がある。その記憶は今でも鮮烈だ。その経験のせいでヌースのようなことをやり続けているんじゃないか、と思う事もある。
小学校に入学したばかりの頃だった。最初に「右」と「左」という方向のことを習ったときのことだ。先生は教壇に立って言う。「こちらが右手です。」僕は先生が挙げた方と同じ手を挙げて思う。「こっちが右手か。。。」そしたら、先生がいきなり、教壇から降りてきて、「違いますよ、ひろのぶくん、こっちです。」と反対の手を挙げさせた。
文字通り右も左も分からなかった僕は、何がなんだか分からなくなり、パニくった。先生が挙げた方と同じ手を挙げたのに、先生はそれは違うというのだ。慌てた僕にさらに追い打ちがかかる。その先生は生徒たちを相手に右と左を覚えさせるために、旗揚げゲームならぬ「お手上げ」ゲームを始めたのだ。
「はい、右手を挙げて〜。」「はい、次は左手〜。」「はい、左手おろして、右手をあげて〜。」
かんべんしてくれ。右と左さえもよく理解できていない僕にそんなことをさせないでくれ。僕は仕方なく、皆の真似をして、振り付けを覚えていないダンサーのように、一呼吸タイミングを遅らせて手を挙げるしかなかった。周囲の同級生たちを見渡すと、僕と同じような奴らが結構いた。おそらく1/4ぐらいだったと思う。おどおどしながら周りを伺いながら手を挙げてるやつ。意味も分からず両手をずっと挙げて笑っているやつ。いつのときでも人間は変わらない。想像界からなかなか抜けきれなかった僕は、こうして「恥」の洗礼を浴び、象徴界へと引き込まれていくことになる。
小学1年生と言えば、年齢でいうと6〜7歳だ。当時の僕の意識はまだ外界と内界の区別が曖昧だったのだろう。左右認識の曖昧さと内界外界認識の曖昧さは深く関係している。 「前」という方向、それはほんとうの僕がいるところである。幼児たちはまだその世界の中にいる。左右という方向の分別がつきだすと、突如として前はベリベと音を立てて、「前」と「手前」に引きはがされるのだ。そこに奥行きが生まれ、世界そのものだった僕が、世界と偽の僕とに分化する。そして、その偽の僕には「ひろのぶくん」という名前が刻印され、僕は文字通り、そこから小学生という肩書きを持って、社会の中で言葉として生きる人間となり、今では「半田広宣」に成りきって、あたかも一つの実体であるかのように振る舞っている。
「ひろのぶくん。ひろのぶくん。違いますよ、それは左手ですよ。」
僕には今でもあの先生の声が忘れられない。彼女は何をしたかったのだろう——。ヨハネの首を切り落として、その血塗られた頭部をそっと僕の首の上にすげたのだろうか。呪いのかかった首には今では蛇がうじゃうじゃ巻きついて、半田広宣という幻想から逃れられないでいる。
前-後(奥行き)を認識しているのは左右からの認識である。認識の視線が前後方向から左右方向に方向を変えるとき、人間の意識は同時に想像界から象徴界への参入を余儀なくされる。点だったものがグルリと90度横回転し、直線になる。そして、その直線がかつて点だったものを直線と見なすようになる。直線と見なされた点とは本当に点なのか?いや、どう考えても違う。それは時空上のあらゆる風景を経験することのできる僕の知覚野=前ではなかったのか——。
さて、ツイスター空間についてのよくある説明——光の伝幡する軌跡は、物理的時空の中では直線となるが、ツイスター空間の中では、一つの点となる。光の軌跡は、すなわち相互作用の伝搬する軌跡に他ならないから、ツイスター空間は、相互作用によって結ばれた時空の点の集合を、ひとまとめにして点として表した空間だと考えることができる。
ヌースの説明——僕の前と君の前が交差するところがツイスター空間である。点のイデアはそこに結び目として生まれてくる。。。。
9月 5 2006
光のマルクト
人間の肉体はおそらく存在の中心の物象化である。もちろん、これは人間の肉体の周囲に宇宙が広がっているからなどといった、単なる「生ける空間」のイメージで言ってるわけじゃない。たとえ無限次元を考慮したとしても人間の肉体が生成されている位置は宇宙の中心である。だから、肉体の起源を探ることは「神」を探ることに等しい。
人間の肉体はヌースでは「重心」と呼ばれる。重心とは文字通り、重力中心の重心である。鉄の球体が目の前にあるとするならば、普通、重心はその球体の中心に位置しているとされる。つまり、均質素材でできた球体状のモノであれば、そのモノの内部の中心点に重心は位置している。はて、そんな場所がどうして肉体と関係があるのか。
4次元が見えてくると、自分を中心とした宇宙の広がりは、そのまま、自分の目の前にある球体の内部にすっぽりと収まっているように見えてくる。つまり、あっちにあるモノも、こっちにあるモノも、そっちにあるモノも、4次元の通路を通してその中に入っり、その内壁を覗けば、天球面と同じものに見えるという意味だ。これは華厳経の説いたパールネットワークに似ているが、凸と凹が逆になっているところがちよっと違う。万物は宝珠なり。その内懐は万象を孕み候らへば、その万象の中の各々も、また万象を孕みて候。つまり、4次元の視線の中では無限の映り込みが続く。これは空海が大日経で示した即身のイメージにも近い。
こうした無限の映り込みの認識が生まれてくると、僕らはすぐ途方にくれてしまうが、それは映し出される像の方に意識を奪われているからだ。像ばかりを追っかけていると、同じ世界が悪夢のように何度も現れるだけで、像の世界から決して出ることはできない。像ではなくその鏡のシステムの方に注意を向けることが重要だ。そこにはオートポイエーシス的なシステムが巧みに組み込まれている。即身の鏡であれ、それが鏡であるからには、そこには他者がいる。二つのものが即身となること。二つのものが即身を映し合うこと。これが創造秩序のキーなのだ。素粒子から人間の肉体まで、物質はこのデュアル・オートポイエーシスのシステムに則って生成されていく。それが見えなければ、同じ世界が巡ってくる。世界はそういう掟でできている。
そのシステムを象徴的に表したものが、実はヘクサグラムだ。ヘクサグラムを普通に平面上の2次元図形と見てはいけない。それは4次元の生成トンネルの風景だ。そして、それは今、君の目の前にある。だからこそ、君は目の前に素粒子から身体まで成長してきた生命の樹木を物質として目撃することができているのだ。光はヘクサグラムが同型反復する無限の螺旋回廊を内包しているのだ。その回廊を一歩一歩昇って行くことは、精神が世界を微分していくことに等しい。数学の世界では4次元だけが無限の微分構造を持つと言われている。進化側から見れば肉体とはそのヘクサグラム・トンネルのパースペクティブにおける消失点のような存在なのだ。行けども行けども決してたどり着くことのない存在の中心。有りて在るもの。本有常在の無限存在。その回廊にもおそらくプラトー(平原)のような場所があるのだろう。そこで精神はかりそめの肉体の中でしばしの休息を取り、8日目の日の出を待つ。そこから、次なる肉体の生成に向けて、再び歩み始めるのだ。
今の科学的世界観では人間の肉体は物質進化の最終段階で生まれてきたものと解釈されている。そして、これから先、別の形態進化をして、別の生き物になっていくとかなんとか。中には機械と合体してメタ・ヒューマンなるものが生まれるなんていう人たちもいる。その方向性の「差異」の選択ももちろんアリだ。しかし、僕はそんな考え方には賛同しない。それはアリでもきっと逆さまだ。肉体は始まりも終わりもない宇宙の象徴、つまり久遠元初の力の影である。それに気づくことこそがほんとうの「差異」である。運命の車輪は再び巡ってくる。そこて生まれる始まりとしての肉体。それは旧時代の肉のマルクトからは解放されている。だから光のマルクトと呼ぼう。地球上のあちこちに建立される60億本の十字架。この光のマルクトこそが新しい時代の「人間」と呼ばれなくてはならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: マルクト, 生命の樹, 素粒子