9月 7 2006
地球はどうやって作り出されたか
身体の前後軸が4次元であるという示唆はすでに何度もこのブログでしてきた。 モノの生成はこの眼差しの方向と無関係でないということも少し書いた。無数の眼差しが一つの点めがけて交わり、そこを中心に回転が起こるとき、原初のモノのイデアが登場する。4次元空間における回転対称性とはこうした眼差しの等価交換を意味する運動のことである。
一つの3次元球体を想像してみよう。その中心に向けて無数の直線が走っているとする。一本の直線はその球体が作り出す一つの断面である2次元円板の回転軸となる。それと同じで、4次元球体の中心向けて放たれている一つの眼差しは、その球体が作り出す一つの断面である三次元空間の回転軸となる。
正統な三次元空間の回転とは、知覚球面(わたしの周囲に広がる天球面)を出現させてくる回転、すなわちわたし自身の回転である。当然、このとき、三次元空間の回転の軸となるものは不動でないといけない。そこでその軸を見つけるために、実際にグルグルと3次元回転のシュミレーションを行ってみる。。。すぐに分かる事だが、知覚球面を作り出すために、私がx,y,z方向を軸にして回っても、決して「前」自体は回らない。「前」は不動なのだ。それは「前(後)」が3次元の範疇ではないからだ。実はそれは3次元の回転の軸になっているのである。。。。
さて、話を様々な人の「前=正面」が集中化している一点に戻そう。そうした一点の認識が成り立つためには、自動的に、今度は「前」自体が回転している。僕の前はもちろんのこと、君の前、彼女の前、彼の前。いろいろな個体たちの前が回転を行っていくことによって、そこには一つの超球ができあがっている。この球体は様々な観察者の眼差しを考慮すれば4次元球体と呼べるものだが、それが見えなくなれば3次元球体である。外部に存在する「点(小さな球体)」という超越論的な幾何表象はこうした眼差しの共同作業によって概念として作り出されている。 そして、それがヌースが「陽子=精神」と呼んでいるものなのだ。大きさは関係ない。それがなにがしかのかさばりがある球体概念であれば、それは陽子と言っていい。つまり、陽子とは「モノ=存在者」のイデアなのである。そして、その周囲にまた、主体を規定する知覚球面が広がっている。素直にヌース的文脈をたどれば、それが陽子に捕獲された電子のことである。
察しのいい人はもうお分かりだろう。モノとその周囲に広がる空間。もしくは、モノと主体。それらの作り出す関係がまた、4次元のルートを通って点的な領域へと射影される。それが水素原子の本性である。何の事はない。水素とは客観と主観のイデアの影だったというわけだ。そこに「後」が加わればもう鬼に金棒だろう。「後」の4次元の集合は中性子を作り、水素原子にひっつけば、重水素を作り上げる。 それがペアで生まれれば、水素分子とヘリウム原子のできあがり、という筋書きになる。
さて、この理屈が本当かデッチ上げかは置いといて、宇宙空間を見上げてみよう。そして、大地を見降ろしてみよう。 宇宙空間とはある意味「後」の集合であり、地球とはまたある意味「前」の集合だ。宇宙空間が水素とヘリウムで満たされ、 地球が無数の元素で満たされていることと、このことは無関係ではない。この現象は、大地は地球上に生きるすべての人間の眼差しの交差を何重にも持っているのに対し、宇宙空間は二重にしか持っていないということを物語っている。そして、それらの前後方向の直交ラインに大気圏がある。 原子番号でいうと、
宇宙空間 1〜2。
大気圏 7〜8。
地殻 13〜14。
という案配だ。
地球の生成の秘密が眼差しの等価交換にあることを少し感じとってくれただろうか。
ψ7=精神=眼差しの等価交換=創造の始まり
眼差しをお大事に。
9月 8 2006
マルコビッチの物
真の主体は対象のウラにへばりついてる。いや、へばりついているという言い方は真の主体に対して失礼な言い方だった。ごめん。主体は対象のウラにお隠れになっていらっしゃる。だから、僕らは真の主体を決して見ることはできない。鏡を使えばどうにか見ることができるが、それは主体の鏡像にすぎない。何を隠そう対象のウラと「わたしの顔」とは同じものである。だから、僕が他者になって僕を見れば、あらゆる対象に僕の顔がへばりついているのが見えるだろう。マルコビッチの穴みたいだな。あは。
最近、人と話すとき、いつもこのイメージを通して世界を見ることにしている。オフィスでスタッフと話すとき、注意は相手の顔に向く。しかし同時に、デスクや電話機、パソコン等、その周囲に見える風景の中の一つ一つの存在者には、今話している相手の顔が張り付いているのだと言い聞かせる。こうしたイメージを抱くことによって、対話の相手は現象を引き連れて僕の前に現れた一人の王となる。たとえそれが一対の目であっても、他者の顔貌に穿たれた瞳はOs-iris(オシリス/無数の目の意味)の目なのだ。よって、対話とは、つねに一人の神との交わりを意味することになる。世界は他者の顔に率いられてやってきている。だから、当然、敬意を払わなくてはならない。レヴィナスの言う通り「汝、殺すなかれ」である。
ただ、気をつけなくちゃならないのは、ちょっと気を抜くと、モノに張り付いていたその顔がいきなり、自分の顔に変わったりもしてしまうということだ。それは僕の主体ではあり得ない。僕の主体はモノの裏でおそらく他者に対して神として振る舞っているはずだ。手前に見えるのは決まって僕の自我なのだ。
真の他者と自我とは例のツイスタースピノールのコンビネーションで密着している。だから、ちょっとした拍子に入れ替わる。4次元が捩じれると本当にややこしい。いや、この捩じれた対象の方が本当の「モノ/das ding」なのだろうけど。メビウスの帯がどちらが表か裏か分からないように、捩じれたモノも真の他者に化けたり、いきなり自我に変身したり、クルクルと何かと忙しいのだ。他者の顔が映ればそれはモノ自体、僕の顔が映ればそれはレーニンの言うような物質的唯物論のモノとなる。変換位置=ψ7としてのモノと転換位置としてのモノ=ψ8とはそういう関係にある。
この捻れの回廊を流れるエネルギーが存在するおかげで、僕は君を理解できるし、君も僕を理解することができている。宇宙的真理はそうした相互理解の中で互いの思いの相殺として働いている。大いなる肯定は何の記憶にも残らない。真理は人間の心の中には足跡を残さないものなのだ。真理をいまだに物質的な客観世界の中に追い求めている人たちもいるが、そこには君以外の誰もいないのだよ、と言ってみたくもなる。人間が互いに理解し合うことと、人間が客観的で理性的になることとはまるで違う。事物に対する理解というのは、それが表象的なものである限り主観的な枠を越えることはできないからだ。もし、人間が互いに理解し合えて、同時に客観的になることができるのならば、それはもう人間じゃない。世界そのものになる。人間に真の平和や安寧がもたらされる場所はそういう静寂の場所である。
なぜって、そこには誰もいないから。誰もいないのだから身分の優劣もない。頭がいい悪いもない。ブスも美人もない。金持ちも貧乏人もいない。そんな世界は退屈でかなわんという人ももちろんいるだろうだろうけど、それはそれでいい。それもおそらくオプションの一つだから。誰もいなくなった地球——ヘッドレス・ブリード=ヒトの世界とはそういう場所で語らいを持つ声たちのことだ。
おそらく、大方の予想を裏切って、人間が貨幣によってモノの交換する時代はまもなく終わるのじゃなかろうか。モノが人間を交換している経済領域というのがあることを僕ら知るべきじゃなかろうか。それが開けば、貨幣やセックスへの欲望は、一気に人間の交換の欲望へと変質する。そのエロスは胎児の細胞分裂を促して行く力のように強く早い。もし開けば、という仮定の話だけど。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: メビウス, レヴィナス