10月 23 2006
ブラック・ダリア
先週末、甥っ子のdieforくんを連れて久々に映画館に足を運んだ。B・デ・パルマの新作『ブラック・ダリア』を観るためだ。
デ・パルマは僕にとって思い出深い監督である。20代前半に吉祥寺に住んでいた頃、ロックミュージカル特集というオールナイト上映会があって、「ジーザス・クライスト・スーパースター」「ゴッドスペル」「ロッキーホラーショー」「ファントム・オブ・パラダイス」の4本を立て続けに観た。そのとき一番面白かったのが「ファントム・オブ・パラダイス」で、これがデ・パルマ作品との最初の出会いとなった。その後、「キャリー」「殺しのドレス」「ミッドナイト・クロス」「スカーフェイス」と立て続けに見せられた僕は一気にデ・バルマのファンとなった。個人的には80年代のハリウッドではベスト5に入っていた監督だと思っている。90年代以降、確かにデ・バルマはバッとしない。それでも、いつかはガツンとやってくれるという期待を持って、デ・バルマの作品を見続けている。ってなわけで、今回も「ブラック・ダリア」に足を運んだわけだ。
さて、見終わった感想だが、駄作とは言わないが、やはり今三、今四だった。全盛時のデ・バルマの持ち味は何と言ってもカット編集の畳みかけの妙技だ。ヒッチコック張りのカメラアングルとカメラモーションを使って撮影された様々なシーンが、長回し、スローモーション、画面分割等の編集によってこれまたヒッチコック風のSEに合わせて絶妙に畳み掛けてくるときのあの緊迫感、これがたまらなかったのだが、今作もそのドライブ感が全くと言っていいほど感じられない。後半になってようやくデ・バルマらしさが出てくることには出てくるが、リズムがバタついていて、作品全体としての統一感がない。デ・バルマはもう終わったのかもしれない。そう感じた。
好きな監督だっただけにいろいろなことを考えさせられた。ひょっとしてデ・バルマは何も変わっていないのかもしれない。変わったのはむしろ僕の方で、あまりにデジタルのスピード感に慣れてしまったために、デ・パルマのような編集技法が無意識のうちにカビ臭く感じるようになっているだけの話なのかもしれない。映画はもろテクノロジーが反映されるジャンルである。もちろん映像技術が進歩したからと言って、傑作が大量に生まれてくるというわけではないが、映像表現の斬新さに限って言えば、現在の映画表現はデジタルテクノロジーに負うところが大きい。デジタルが提供するSFXを嫌というほど見せつけられ、アナログ時代の作品がどうも間延びしたように見えてしまうのは僕だけだろうか。と言って、デジタルの撮影技法はすぐに飽きがくる。作品の鮮度保持期間は昔に比べれば比較にならないほど短い。アナログもダメ。デジタルもダメ。僕の映画脳はどうやら八方ふさがりの状況を迎えてしまっているようだ。
長く語り継がれる作品というのはもう出てこないのかもしれない。おそらくテクノロジーとカルチャーの蜜月の時代は20世紀で終わったのだ。テクノロジーがカルチャーを死滅させる時代に入っているというのは言い過ぎだろうか。。
10月 29 2006
「NO DIRECTION, everyday」
福岡天神にあるイムズホールへ「ニブロール」というディレクター集団の公演を観に行く。僕がダンスを観に行くというのはまこともって一大珍事だ。まともに見たダンスの公演と言えば、知人の河村悟氏によるものしかない。舞踏にしろ現代舞踊にしろ、正直言ってよく分からないのだが、このニブロールは、たまたま、新聞の折り込み広告に入ってきたリーフレットのデザインが気になったので、ちょっと目に止まった。裏面にはこんなことが書いてある。
君と見てきたこの世界。
たとえば同じ場所から見てたとして、
君と僕と見えている景色は同じじゃない。
君と過ごしてきた時間。
たとえば、ひと時も離れずにいたとして、
君と僕と、ずっと一緒だったわけじゃない。
世界はひとつ、ではない。
定められた方向。などもない。
この世界はどこまでもバラバラで、
でも、どこかでつながっている。
そんなことを、秘かに期待して。
およよ。ちとヌースっぽい。。こうしたことをテーマにしたダンスパフォーマンスなら、少し見ておく必要があるのかも。ということで、ホールに足を運んでみたのだが。。。暗転したステージに、いきなりディストーションギンギンのギターサウンドをバックにバグパイプ調のフレーズとバーカッションが鳴り響く。蛍光テープで謎めいた記号を貼付けた衣装を身にまとった数名のダンサーたちが、ステージに飛び出してきて、オープニングはかなりいい感じ。。おっ、これはひょっとしていけてるかも。。という期待で1時間余りのパフォーマンスは始まったのだが。。
しかし、そう当たりは巡ってくるものではない。音楽と映像はそれなりにマッチしていてよかった。テクノ、プログレ、トランス、環境音楽、さらには60年代末のフラワームーブメント的なサウンドなど多種多様な音楽がほどよくミックスされていて、結構ドラマチックに仕上がっていた。ところがだ。肝心のダンスが酷い。酷すぎ。いや、これは好みの問題かもしれないので、僕にとっては酷く見えた、と訂正しておこう。何が面白くなかったと言って、振り付けに建築性が全く感じられなかったところだ。解体や脱構築は20世紀で終わりににできないものか。この公演のタイトルが「NO DIRECTION, everyday」だから、構築的なものを期待する方が愚かなのだが、それにしても、苦痛や、抑圧や、苦悩や、飢餓や、修羅の身体表現はもう飽き飽きだ。
現代音楽にしろ、現代舞踊にしろ、僕がゲッとしてしまうのは、この公演のタイトルにもあるように、NO DIRECTIONでありすぎることだ。ヘルプレス、ホープレスな現代人の苦悩を延々と見せつけるものが圧倒的多数。苦悩を延々と垂れ流しすることが錬金術的な「黒の作業」を意識しているならばそれでもいい。しかし、ほとんどは「Paint it all black」で暗黒以外の何もない。希望ナシ。未来ナシ。出口ナシ。はったりでも、ギミックでもいいから、隅に小さなExitを配せといいたくなる。霊性を失った芸術表現はほんとうに無様だと思う。誰か雷鳴轟く一撃を食らわせてくれないものか。。
By kohsen • 08_文化・芸術 • 2 • Tags: 河村悟