10月 30 2006
ブロッサム2
この間、このブログでも紹介したヌースコーポレーション初制作のCD「ブロッサム」が今日出来上がってきた。日頃、ヌースのサプリメントを愛用していただいている方々へお礼の気持ちを込めて制作したものだ。前回の予告ではアーティスト名をW氏として伏せていたが、今回はもう解禁だな。知ってる人もいると思うけど、W氏とはNHKスペシャル「家族の肖像」などでも有名な作曲家兼ピアニストのウォン・ウィンツァン氏のことである。ウォン氏は古くからの知り合いで、初めて会ったのは1993年だったと思うから、もうかれこれ14年ぐらい前のことになる。
当時、マヤ暦の普及活動をしていた高橋徹氏からYaccoという女性を紹介してもらい、そのYaccoが友人のコンサートを主催するので是非来て欲しい、ということで、出向いてみると、そこでピアノを奏でていたのがウォン氏だった、というわけである。当時はウォン氏もほとんど無名で、コンサートと言っても40~50人そこそこの集客しかなかったが、ウォン氏のプレイスタイルとの遭遇は予想外に僕を魅了した。ニューエイジ・ミュージックと呼ばれるものの中には、ただシンセサイザーを多用してスペーシーなサウンドを安易に奏でるだけのものが多い。ウォン氏は正規の音楽教育を途中でリタイアしたと聞いているが、その音を聞けば、ジャズ、クラッシック、現代音楽など様々なジャンルを通過してきたものでなければ表現し得ないセンスの厚みがあることがすぐに分かる。ライブのときは特にそうだ。ときにラベルぽかったり、サティぽかったり、急にオリエンタルなムードで一杯になったり、いきなりセシル・テイラー張りのフリージャズになったり、キース・ジャレットっぽいリフが出て来たり、本当に幅広い素養を感じさせるアーティストなのである。
ウォン氏のメインの売りのスタイルは、あえて言うなら、宮崎アニメでもおなじみの久石譲に代表される叙情的POPスピリチュアル路線なのだが、そんな中でも個人的にウォン氏が傑出していると思うのは、鍵盤に触れている指のタッチとピアノアレンジのストイックなまでのシンプルさである。一音一音の響きをいかに大切にしているかが音色からそのまま伝わってくる。その姿勢は楽曲の組み立て方にも表れていて、ウォン氏の作る曲には無駄な装飾がほとんどない。注意深い和声の組み立て方やテンションを内声でぶつけるか外声でぶつけるか等、その曲想、曲調に合わせて実にコンパクトな和声アンサンブルでまとめあげられているのだ。派手さこそないが、贅肉をそぎ落としたとてもスリムな作りになっていて、オルゴールを聞いているかのごとく飽きがこない。そして、そのタイトな作風がこれまた独自の透明感あふれる叙情空間を作り出す。
さて、ヌースコーポレーション初制作となったCD「ブロッサム」は、人の心の闇と光というコンセプトから立ち上がった。ヌースでいう人間の内面と外面の意識である。心の闇なくして心の光は感知できない。光は闇が受け取るものであり、闇は光が受け取るものである。そうした相補性があってこそ初めて心は成長して行くことができる。こうした人の心の在り方は植物の成長する姿と似ていなくもない。地上で燦々とした陽光を浴びて咲く花たち。かたや、土中で闇中を這い回る根たち。花なくして根はなく、根なくして花はない。花と根はほんとうのところは一心同体の生き物なのだ。どんな苦しみの中にも喜びの種子がある。どんな悲しみの中にも歓喜の天使は羽を休めて待機している。単なる慰めなどではなく、ブロッサム=花開く、ということは悲しみや苦しみの変成の振る舞いである。そんな命の在り方を僕らは日々生きている——こういった内容の短文と曲のタイトルをウォン氏に送り、それをもとに曲を書いてもらったのだ。
とにかくウォン・ウィンツァン氏が作曲した珠玉の小品集(2曲入り)、欲しい方は11月1日より12月31日までの2ケ月間、ヌースのサプリを買うと無料でついてきます。尚、CDのみの販売は諸事情により行っていません。詳しい情報をお知りになりたい方は下記アドレスをチェックして下さい(サイトも11月1日よりオープンします)。
ヌースアイ
11月 1 2006
反自然主義
現在、ニューエイジ系の雑誌「スターピープル・オブ・アース」で毎号、毎号、駄文を掲載させていただいているのだが、また、原稿の締め切り期日が迫ってきている。そろそろ何か書かにゃ。今回の特集はどうやら「環境問題について考える」ということらしい。。う〜ん、困った。はっきり言ってチョー苦手な分野だ。というのも僕自身、正直言って、普通の意味での環境問題にはとても関心があるとは言えないからだ。フリエネ研究やコスモロジー研究は問題意識からというより、ヌースを通しての自分の無意識的な欲望から突き上げてくるものであって、とりわけ現在の地球環境に特別な危惧を抱いているわけでもない。はてはて、僕の環境保全に関する問題意識はどの程度のものなのだろうか——ということで私生活をチェック!!
合成洗剤は使わない。できるだけ有機野菜を食べる(このへんはウチの奥さんの主義だな)。ファストフードにはほとんど行かない。車はあまり運転しない。レジャーは極力控える(これは単に出不精なだけ)。おお、我ながらいい線行っているじゃないか。理由はどうあれ、結果的には極めて省エネ人間のようだ。しかし。。。出張では飛行機に乗るし、トイレット・ペーパーではパンツに糞がつかないように執念深く8回ほどケツを拭くし、タバコはスパスパ吸うし、会社の製品のパッケージには致し方なく石油製品を使用するときもある。。。まぁ、完全とは行かない。今のような文明社会で生きて行く限りどのみち誰もが自然破壊の共犯者となっている。その意味で言えば、資本主義社会の中で「地球環境を守ろう」というのはほとんどが自己欺瞞だろう。それこそ本気で地球環境を守りたいのなら、資本主義やテクノロジーと今すぐに縁を切るしかない。便利な電気製品、電子機器とすべてオサラバして、山奥に引っ込み、ブッシュマンさながら自給自足の生活を営む。これが一番。
しかし、僕はどうもディープ・エコロジーというのが苦手なんだな。ディープエコロジーの思想背景には自然=善、人間=悪という短絡的な図式がある。生命中心主義を錦の美旗のごとく掲げ、人間中心主義に断固反対するわけだ。今や階級闘争はホモサピエンスの枠を脱領土化し、イルカやクジラ、さらには犬や猫にまで拡大してしまった。全世界の動植物よ、団結せよ!!人間中心主義の圧政にレジスタンスを!!地球上の全動植物に変わってこのわたしがお仕置きよ!!死者の名を騙る権力だけじゃ飽き足らず、動植物の霊までもが生者たちの生のために動員される。
たとえ自然環境が守られたとしても、人間の変化への欲望が完全に阻害されるようであれば、その方向は間違っている。自然の美名のもとに「人間」があまりに軽視されていること。それが問題の本質なのだ。それは悪しき人間主義と同根だ。自然主義も科学主義もヒューマニズムも人間という現象の位置づけ自体に問題があるのだ。ヌース的に言えば、人間の本来性とは存在の結節である。人間なくして世界も宇宙もない。人工と自然、テクノロジーとエコロジーという安易な二項対立で考えるのではなく、自然と反自然、世界と創造にまで人間精神の自由度を拡張して思考すること。反自然者、再生者としての人間観が再興されなければ環境問題の解決は決してあり得ないのではないかと思う。
ヌース理論の自然観は自然即人間なのであるからいたってシンプルである。しかし、これは単なる伝統的なアニミズムの類いではない。美しい野鳥が姿を消して行くのは、美しい野鳥のような精神の羽ばたきが人間の中から消えて行っているのであり、神々しい森が枯れ果てて行っているのは、樹木のような神々しい精神が死滅していっているのであり、ライオンや虎などの猛々しい動物たちが絶滅していっているのは、ライオンや虎のような猛々しい精神が消滅していっているからに他ならない。何のことはない。大自然に根差した生命に宿る霊性の数々は、僕ら自身の霊性の映し絵に他ならないということだ。死滅していっているものは僕らの不可視の魂の力の方なのである。
おっと、スタピーの原稿のネタがなくなってしまう。。。なにはともあれ、環境問題は物質の問題などではなく霊性の問題として語られて初めて意味を持つ。「地球にやさしい云々」というマクロな標語を唱える以前に、隣人に対して「おはよう」の一言でも発することの方がよっぽど優先事だろう。精神が満たされていけばモノやカネへの執着は自然と消えて行く。本当の問題はそうした新種の欲望の指向性をいかにして作り出すかにある。
By kohsen • 10_その他 • 1 • Tags: スターピープル