12月 9 2006
消えた「前」を探せ!! 3
消失した「前」の世界の話を続けよう。ここではその幾何学的構造についてメモ代わりに書いておく。
「前」はどこへ消えたのか?………肉体の周囲に生まれた「後」の回転により生じている時空概念を消し去ると、「前」にはむき出しのリアルが顔を出す。このリアルにおいては自分が客体的な「点」であるなどといった認識は全くない。ヘッドレスだ。それはあるがまま、見えるがままのものである。あるがまま見えるがままの「前」。その「前」を回転させてみよう。「前」がグルグルと回転すれば、それはそのまま天球面を形成するのが分かる(半分は地面になっているはずだがこのことの意味はいずれ触れる)。この天球面はリアルの中に立ち現れている何らかの対象(0点)から見れば∞となっている。つまり、「後」の回転によって生まれていた空間の広がりとは、元来は∞だった主体の位置が他者の眼差しによって0*点に落とし込まれていたことによって生まれていたものであったと考えるといい。そして、0*点として落とされていた偽りの主体の周囲に∞ではなく∞*へと広がる空間が想像的なものとして概念化されていた。そういうストーリーである。
さて、リアルの中に現れたこの0点と∞点だが、回転のさせ方によっては全く区別がつかなくなることが分かる。空間上にある一点を想定し、その点を中心にその点が絶えず見えるように回ってみるのだ。それは0点そのものを中心に天球面を回転させることと同意だ。そのとき、0点と0点の背後方向にあると思われる無限方向はピタッと重なり合って一点で同一視されてしまう。だから当然、天球面上の点は、回転によってこの0点とすべて一致してしまうことが予想される。これはどういうことか。つまり、前においては0点と∞点は等化されているのである。何度も言うように、このリアル認識が形作られているところは時空上ではない。それは敢えていうならば、時空上の一点と見なされるわたしの位置0*点の中に張り付いた余分な次元である。この次元を物理学にならって内部空間と呼んでみたい。この内部空間の形は0点を他者の目においた場合、次のような経路を辿りながら、3次元球面を形成する(上図参照)。
0点としての他者の目→その周囲に広がって行く3次元空間(球面)→そして天球面としての∞点。ここは他者にとっては0*点と見えている位置である。0*点としての主体の目→他者から見えるその周囲に広がって行く3次元空間(球面)→そして天球面としての∞*点。これはわたしから見た0点である。これらの過程で、3次元球面が作られる。
さて、以上のような構造を次元を一つ落として図にすると左上に挙げたような図になる。後ろの回転によって広がっている空間は時空=ミンコフスキー空間なので超双曲面として表される。原点は0*点だ。しかし、前の空間ではその0*点は∞点に置き換わり、そこから他者の0点へと進み、そこで他者の見る∞*点へと変わり、同じく他者の見る0*点へと変わる。しかし、そこで再び∞点に接続し………。といった具合に3次元球面がくっつくことになる。
そして、重要なことはこの3次元球面は時空上においては点の内部構造のようなものとして見えてしまうということだ。なぜなら、さっき説明したように、この空間は点の中でほとんど同一視されてしまう世界だからである。察しのいい方はこの3次元球面の回転が電子のアップスピンとダウンスピンを決定づけている空間であることに気づかれているかもしれない。点の中に貼付けられたこの自転する三次元球面こそ双子の電子なのである。
さて、最初の問いに戻ろう。「前」はどこに消えたのか?………答えは一つしかない。「電子となっている」である。そして、そこは死後の世界へのゲートなのだ。
12月 12 2006
4次元回転群SO(4) その1
観測者の真実の位置を考慮して空間を見直すこと。これが3次元意識に捕われた人間の空間概念をトランスフォーマー型ゲシュタルトへと持って行くための最も適切な方法だ。前回も書いたように、人間の内面の意識においては観測位置は0*点として想像されている。しかし、外面の意識においてはそこは∞点である。
∞点にいる自分を決して無限に遠くにいる物質的存在のようなものと考えてはいけない。人間の内面の意識は必ず自分を0*点と置いているので、普通に考えてしまうと、無限に遠い位置とは∞点ではなく、大概の場合、∞*点となってしまう。それはいうまでもなく他者側から見えている無限遠点である。ここでは、わたしに見えている無限遠とは遠いとか近いとかいった距離概念ではなく、視野空間(知覚球面)そのものの在り方という考え方をしてほしい。何度も言うようだが、それがヘッドレスに変身した者の感覚だ。
さて、このヌース的ロジックから言えば、観測者の位置であることの絶対条件として、3次元世界上で見た場合0=∞*と0*=∞という関係が成り立っている必要があることが分かる。前者がわたしの想像的位置と現実的位置、後者が他者のそれである。ということは、観測者同士を結んだ線は必ず3次元球面の直径を形成しているということになる。つまり、観測者同士を結んだ線分は4次元の線分なのである。そして、その位置を互いに想像的なものと見てしまったとき、世界は超双曲面として現れ、ミンコフスキー空間、つまり時空を形成することになる。しかし、上に挙げた0=∞*と0*=∞というキアスムが見え出せば、世界は4次元時空ではなく4次元空間として再構成されることになる。この再構成された場所はもはや時空と呼べる場所ではない。ヌース的次元移動の本質がここにある。4次元時空から4次元空間(虚時間宇宙と言ってもいい)への移動である。
4次元空間が見えてくると「モノ」が特別の意味合いを帯びて浮き上がってくる。いや、もっと過激な言い方も可能だ。ここに来て僕らはやっとモノが見えるようになると言わなくてはいけない。時空上に実はモノなど存在していなかったのだ。なぜならば、時空上に想定された自分の位置自体が想像的なものだったわけであるから、そうした想像的な位置からモノが見えるはずはないではないか。何度も言うように実際に見えている世界とは人間の外面である。人間の知性はその外面に内面の意識の物差しを当てて、外界を概念化しているにすぎなかったのだ。4次元空間に見えるモノこそが真の実在としてのモノである。そして、すでに書いたように、このモノは客体というよりはむしろ主体の性格を持ったものである。人間とはモノがモノを見たような気になるための媒介のようなものなのだ。媒介の時代はもうまもなく終わる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: トランスフォーマー型ゲシュタルト, 内面と外面, 無限遠