12月 13 2006
4次元回転群SO(4) その2
4次元空間上での「モノ」が持つ意味。それは端的に言えば「前」の統一として現れる。「前」の統一とは、言い換えれば、4次元空間上に浮かぶ4次元球体の中心点という意味である。観測者としての自他が向かい合って、その間にモノが存在している様子を描像してみよう。そのときのモノは背景を伴って「わたしの前」と「あなたの前」を合わせ持つ意味を持っているのが分かる。より正確に言えば、モノは彼の前も、彼女の前も、観測者全員の「前」の集合によって形成されるということだ。この「前」の一致が幾何学的にどのような構造を持つか、前回挙げた図を用いてチェックしてみることにしよう。
この図は4次元空間上に浮かぶ3次元球面が4次元方向を軸として自転している様子を次元を一つ落として表示したものである。3次元空間上の(0*,∞)の位置が一人の観測者の位置を意味するものだが、このような位置は対極点となる(0,∞*)の位置がなければ措定することができない。なぜなら、自分が見つめる他者が0点にいるということの認知や、他者によって自分が0*点として見つめられているという自覚がなければ、観測者は自分の位置を0*点と想像することはできないからだ。その意味で、自己を構成する最もベーシックとなる場はこの4次元球体の直径部分の線に依拠していることが分かるはずだ。観測者自身の自転運動は観測者から広がる空間のx-y-z軸をすべて等化するので、この球面の自転運動そのものがその3次元回転群SO(3)を意味することになる。ただし、自己側から見た球面と他者側から見た球面とでは、方向がそれぞれ逆なので、正確にはSO(3)の二重被覆になっていると考えられる。そして、この回転軸は自己においては身体における「前」という方向性の中に第四の次元軸として集約されているはずだ。つまり、グルグルと回ってどちらを向こうがそれは「前」に変わりはないし、また、不動の「前」に次々とx,y,z方向が現れてくるものと考えてもいい。
さて、観測者である「わたし」はx,y,z,3軸の自転が可能であるとともに、また3軸方向の並進も可能である。この並進方向が3次元球面上でどのように表されるのか考えてみよう。並進としての3方向は(0*,∞)点から(0,∞*)点に向けて放たれているx-y-z方向(-方向も含む)の各円環として表示されていると思えばいい。つまり、3次元球面上でx,y,zという三つの円環がそれぞれ独自に回転する機構があり、この回転の組み合わせが観測者の3次元上での位置座標を決定するように解釈するわけだ。それに加えて、さっきも言ったように、それら三つの円環を相互に入れ替え可能にするような回転、つまり観測者の周囲の空間の回転が4次元方向を軸として起こっている。そう見ることによって、観測者の並進と自転という運動の自由度によってもたらされる前のすべてが、この4次元球体の一本の回転軸上に集約されてくるのが分かるだろう。
さて、どうしてこのようなややこしい対応関係を持たせる必要があるのか——それは、4次元空間上では主体である「わたし」は微動だにしないということをはっきりさせたかったからである。いや、逆に言えば、微動だにしていないからこそ、一つの主体というアイデンティーが4次元空間上の一座標に生まれてくる要因になっているとも言える。もっと平易な言い方をすれば、3次元空間内をどのように動き回っても変わらないもの。それが主体を空間的に規定するための条件の一つだということだ。となれば、必然的に次のような帰結がわき上がってはこないだろうか。つまり、世界に存在している他者と呼ばれる「無数の自己」とは、この3次元球面上で別の回転軸を持っている者たちのことではないのだろうか、と。つまり、他者を規定している空間は4次元における方向性がそれぞれ全く別の方向を向いているということだ。この様子を群として示すならば、これは4次元方向を持つ回転軸自体が3次元球面の位相に沿って回転を起こすということになるので、その様子を式で表すと、
SO(3)×S^3
となる。これは数学的にはSO(4)という4次元の回転群に他ならない。つまり、4次元空間における回転軸の回転とは、自己から別の自己へと視座を遷移させていくことを意味しており、その遷移の軌跡はS^3を構成しているということなのだ。もちろん、この運動は通常の知覚としては起こり得るものではないだろう。リモートビューイングの理論的構造と解釈するのも面白いが、今は無難に、意識の中で起こっている「想像力」の役割の範疇と考えるべきだろう。あそこにいるアイツから見たら、ここにあるモノはどう見えているのだろうか、という意識のまさぐり。このまさぐりがこそが、おそらくSO(4)の実質的な意味なのだ。そして、「モノ」という概念がこのSO(4)回転の対称性によって支えられているということは言うまでもない。「モノ」は多数の「前」の一致するところにしか現れようがないからだ。そして、この一致を意識に判断させている力とはSO(4)対称性の産物である。それは言い換えれば自他が等化された位置のことでもある。ヌースはこうした位置のことを「精神」と呼ぶ。(ちなみに、このSO(4)が時空概念上に現れたものがSO(1.3)=ローレンツ変換となる)
ここでドゥルーズの言葉を思い出す。
他者はわたしの知覚野の中に現れる客体ではなく、わたしを知覚する別の主体でもないのだ。他者とは何よりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能しなくなる様な、知覚野の構造そのものなのである。(ドゥルーズ『原子と分身』p.26 )
モノという概念は一体どこからもたらされてくるのか。——それは自己と他者の眼差しの綜合からである。そして、ヌース理論は、このSO(4)の回転対称性に始まる空間の重層構造にほんとうの原子世界への進入路があることを詳細に示していくことになるだろう。原子とは物質構造ではなく高次元知性によって構築されている概念の構造なのである。そして言うまでもなく、こうした概念構造は「倫理的な力」と呼び変えても何の支障もない。君は原子に向かっているか?
12月 19 2006
原子の基礎
認識にモノ概念が成立するための空間構造を幾何学的にもう少しはっきりさせておこう。
世界には無数のモノがある。今、わたしの周囲には灰皿や本やPCや外の木々や電信柱などが散在している。こうしたモノの多数性は前回示した4次元球体の構造の中でどのように対応させればよいのか——この対応を作るためには、上図のように4次元球体の内部に二つの内接する3次元球面θ、θ*をセットするとうまくいく。これら二つの3次元球面はそれぞれが自己と他者に見えているモノからx,y,z方向に広がっている3次元空間を球面状に丸めたものである。球面θでは∞側が一点で同一視され、球面θ*では∞*側が同じく一点で同一視されている。これらは言うまでもなく、自己と他者それぞれにおける主体としての位置だ。モノの3次元の並進方向は、この球面θ、θ*上のそれぞれの3つの円環の回転と考えるといい。自他がモノの並進方向を意識するとき、球面θとθ*上の円環は同期した鏡像回転を起こしている。SO(3)とSO(3)*で表されたこの二つの3次元球面の4次元方向を軸とする自転はモノから広がるx,y,z軸のすべてを観測者の「前」が等化している状態を意味する。つまり、観測者がモノの周囲をグルグルと周ったときに見える、モノの中心点とその背後方向に位置する無限遠の天球面を同一視させる運動を意味しているということだ。以上のような対応を考えれば、3次元空間上に存在するすべてのモノ(位置)を、このθとθ*の接点の位置Pに対応させることが可能となる。
以上の考察から、意識がモノ概念を形作るためには少なくともSO(4)対称性という条件が必要であることが分かるだろう。ただし、このときに概念化されるモノとは普通にいう客体としてのモノのことではないことに注意しよう。何度も言うようだが、SO(4)対称性は人間の外面に形作られるものなので、これは客体ではなく、集合主体としての役目を持っている。普通にいうところの客観的なモノとは人間の内面認識におけるモノのことであり、それはSO(4)ではなく、おそらくSO(1.3)で表されるローレンツ変換対称性として解釈されるのではないかと思う。
SO(4)対称性と言っても多くの人はピンとこないと思うので、これをSO(3)×S^3という形に書き直してその物理的意味を考えてみる。3次元球面S^3は数学的には2次元複素ユニタリー群SU(2)と同相とされる。これは複素2次元ベクトル空間上での回転群のことだ。3次元球面S^3の双方向の自転によって生じている軸を電子のアップスピンとダウンスピンとすると、SO(4)においては、この両スピンがさらにS^3=SU(2)をなぞるように回転しているというイメージが生まれてくる。これは前回も言ったように一つのモノに対する無数の他者の眼差しに相当する。つまり、無数の眼差しの一点への集中とは、特定の自己のアイデンティーを決定している電子のスピンが、モノから広がる3次元空間上の様々な位置に配位されている様子と解釈するわけだ。このようにスピンがさらに回転しているような空間は物理学ではアイソスピン空間と呼ばれる。つまり、電子のスピンは3次元球面S^3の自転軸として出現しているのだが、そういった自転軸をさらにS^3=SU(2)に沿って回転させ、それら3方向の回転をさらに一つの方向に統合しているような上位の回転軸を想像すればいい。言うなればスピンの上位にあるメタスピンのようなものだ。その軸の双方向がアイソスピンである。物理学ではアイソスピン-1/2が陽子で、+1/2が中性子とされる。
これらの文脈から陽子と中性子の実体とは何かが描像できる。一言で言えば、それは自他における「前」の総体と「後」の総体の関係だ。これはヌース理論の文脈では集合主体の原器と集合客体の原器を意味する。そして、これら両者は実のところ客観的なモノ概念と時空全体の関係となって現れてくる。つまりこういうことだ——目の前に幾ばくかのかさばりを持ったモノがある。その周囲に空間の広がりとしての時空がある。そして、それを見ている「わたし」がいる。それらをすべて概念として解釈すると、その概念のカタチがそれぞれ陽子、中性子、電子に対応していることになる。重水素を作る材料がこれで揃ったというわけだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アイソスピン, 内面と外面, 無限遠