12月 20 2006
モノに潜む知性
実にややこしい話をして申し訳なく思っている。こんな話をしているのには実は訳がある。それはモノとは僕たちの眼差しが一つになるところにしか生まれ得ないということを言いたかったからだ。ヌースがいつも「物質は倫理的な力によって創造された」と言ってるのはその意味だと思ってほしい。
通常の実在概念では、人間がいなくてもモノや光があると考える。モノは人間が現れる前から無条件に「そこ」にあって、モノに当たった光がたまたま人間という生物の網膜組織を刺激し、そこに視像が結ばれるという何とも平坦な説明の様式。こうした説明はすべて時空上での出来事の羅列にすぎないことが分かるだろう。これは、例によって、世界を「後」の回転によって生まれている空間上に存在しているものと思い込んでいる物質知性の物の見方だ。現象学が明らかにしているように、こうした非人称的な場所に「生きられる空間」は存在してはいない。生きられる空間、生きられる時間が存在するのは1人称的空間としての「前」の世界である。そして、その「前」は時空上では皮肉なことに点の内部に隠蔽された場所としてしか表すことができない。その隠蔽された「前」に始まる「前後」や「左右」や「上下」という身体固有の空間を現代科学は想像的自我の温床となる「後」のみの空間に閉じ込めて、小難しく内部空間と呼んでいるだけのことなのだ。この「後」の空間の呪縛から解かれれば、僕らの知性はモノそのものの中に内側から入っていくことができる。これがヌース理論が主張するヌース(創造的知性)の発振の有り様である。
まだまだ粗雑な説明であることは百も承知だが、君にも世界のからくりが少しは見えてきたのではないだろうか。素粒子とは僕らの実存のカタチが組織化されている場のことである。それを構造主義者風に無意識構造と呼んでも構わない。ここにおいて、モノ概念は陽子に、時空概念は中性子に、そして、主体概念は電子に、自我概念はニュートリノに変わる。そして、これらは自他(対化)の関係においてすべて双子として存在させられることになる。そして、何よりも重要なことは、モノがこうした素粒子によってできているように見えている、という事実である。
モノが目の前にある、ということ。それは自他という関係を超克した超越論的な知性の力が存在するということを意味する。モノがあるから僕らの眼差しが「そこ」で統一されるのではなく、眼差しの統一があるからこそ、「そこ」でモノが作り出されていると考えなければならない。その意味で眼差しの統一とはモノそのものの生成空間への侵入口となっていると言える。人間が間主観的な態度や認識の中に生きる価値を見い出すのは、その方向性こそが宇宙の生成力にダイレクトに関わっているからなのだ。国家主義や人間主義、生命主義的な謂れの不確かな「道徳」として善を語るのではなく、存在そのものの「倫理」として善を語ること。ヌースはこのような善のみを善悪の彼岸と呼びたい。
自他の意識の統一としての物質の始まり。そのイメージを持ってモノたちの姿をまじまじと眺めてみるといい。眼差しの統一の世界に広がる空間には想像を絶するような奥行きがあることが分かるはずだ。自然界には水素に始まってウランまで92段階の元素が存在している。それらの元素を形作っている概念というものに想いを馳せてみるのだ。その概念を形成した知性が僕らが「愛」と呼ぶものの彼方に確実に存在している。僕ら人間がこれから進むべき道は、その知性へと至る道だ。
モノとは君と僕の眼差しが一つになるところにしか生まれない——再度、その眼差しを持って地球=大地を眺めてみるといい。地球は地球上に生きるすべての人間の眼差しが否応無しに一点で統一されている唯一の場所だ。世界中の誰もが地球を見つめるとき、その眼差しは地球の重心で一致する。物質的には地球の中心部には鉄があり、表面近くの地殻部にはケイ素やアルミニウムがあり、界面には水があり、それを包むように大気圏には窒素と酸素の皮膜がある。こうした地球の姿を現代科学は宇宙空間を漂うチリが寄り集まってできた土塊ぐらいにしか見ていない。馬鹿げているとは思わないか。地球には眼差しの統一に始まる創造空間内部の生成秩序がそれこそ年輪のように覆っている。地球という球体の中で躍動する幾多の精霊たちの姿が見えて来たとき、月の正体も自然に分かるだろう。そして、そのとき、僕らの意識はほんとうの太陽系世界へと開かれる。夢見るヌースの上昇の旅がここに始まるのだ。乞うご期待!!
12月 22 2006
星を継ぐ者
言葉の第一の機能は事物の登録である。
「これはリンゴである」というとき、そこには他者との相互了解がある。僕がリンゴをみかんと呼ぶことも可能だが、そう呼んだときには、僕は社会的人間にはなれない。三者以上の人間が集まるとき、そこには言葉による権力の構造ができあがる。二人の人間の間では言葉の登録能力は極めて曖昧だ。「君がその丸い赤い物体をリンゴと呼ぶのは構わない。しかし、僕はみかんと呼ぶ。お互い意見が合わないのは仕方ない。それはそれでいいじゃないか。」ということで済む。二人では社会は生まれない。だから政治も生まれない。そこはいわばむき出しのリアルの格闘と友愛の場だ。だから、言葉の秩序の中に参加することは自己が第三者の視点を内在化させることに等しい。こうした移行は精神分析的には想像界から象徴界への移行として例えることができる。
観察子構造にも実はこれと似た構造がある。自他を規定するキアスムは3次元球面上の対極点として現れる。それは常々言ってるように(0,∞*)(0*,∞)という関係だ。この関係がある限り、自他間において空間の3次元性は互いに反転して見えている。つまり、モノの内部性と外部性は相互にひっくり返った状態にある、ということだ。そしてそれらはメビウスの帯状の捻れによって等化されている。これは言い換えればコミュニケーションの原器となる構造体と言える。君の表が僕にとっての裏となり、僕の表が君にとっての裏となる。話す事と聞く事に代表されるように、両者の間にはスムースな変換機構が機能しているのだ。その意味で言えば、ここには強固な形での自己-他者の対立はない。二つであって一つ、一つであって二つの生き物がそこには生息しているのだ。
しかし、前回話した、SO(4)対称性が現れるときに事態は一変する。具体的にはここでは書かないが、簡単に言えば、前後*-前*後として働いていた意識軸が左右方向へと90度回転を起こしてしまうのだ。これがどういうことかすぐに分かるだろう。対面する自他の関係を真横から見る視座が生まれてしまうのである。この回転によって(0,∞*)(0*,∞)としてコミュニケートしていた自他の位置は一気に(0,0*)(∞,∞*)に偏極を起こし、それぞれを同一化させてしまう。つまり、3次元空間の相互反転性を持った自他間の交通空間は下部構造として見えなくさせられ、上位に外界としての単一の3次元認識が出現してしまうのだ。前回が僕が「モノ概念」と呼んだものである。モノ概念はモノの外部性/外部性*の等化と内部性/内部性*の等化に支えられて、モノと空間というように、確固とした存在者としての概念を獲得するというわけだ。
こうした左右方向からの眼差しの侵入によって、僕らは、モノを挟んで対峙する自己と他者というイメージを内在化させることが可能になる。この視点が第三者的視点であることは言うまでもない。この眼差しは自他の間に置かれたリンゴがリンゴ以外の何ものでもないという判断を相互了解の下に下すジャッジの眼差しである。それは正しい、それは間違っている、それは真実だ、それは虚偽だ——等、登録の機能は了解可能性とともに否定的な力をも同時に呼び込んでくるのだ。空間構造との対応で言えば、実はR^3という3次元認識も、また、S^2という球面認識も、この眼差しの下に構成されている。つまり、モノ概念とは認識の統一を作り出す代償として、個々の知覚(リアル)=主体を否定する側面も持ち合わせているということだ。こうしたフェイズに無意識が入ることをヌースでは「表相の等化」と呼ぶが、ここに言語機能、つまり、ファルスが発生することになる。個人の意識発達で言えば、幼児が母親との想像界的関係から離れて象徴界的秩序に入ることを意味するし、歴史的無意識の発達で言えば、多神教世界から一神教世界への移行とも言えるだろう。
「表相の等化」から反対側の3次元球面へと入って行く段階は次元観察子で言えばψ9に入る。ψ9とはψ7とψ*7が合わさったものだ。ψ7が陽子とすれば、ψ*5〜ψ*7で電子のスピン(自転)と電子のs軌道(公転)を用意する。つまり、水素原子の誕生というわけである。中性子側は面倒なのでここでは触れないが、人間の無意識構造と水素-ヘリウム元素はおそらく同一のものである。その意味で言えば、今の人間の意識は未だ水素とヘリウムとして宇宙空間を彷徨っている。星を継ぐ者が現れるのはいつの日のことになるのだろうか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: メビウス, 表相, 言葉