1月 12 2007
差異と反復………3
ドゥルーズ曰く、永遠回帰とは差異の極限的な先端において現れる。差異の極限的な先端とは、神が現在進行形として息づいている真の現在の場所と言い換えてよいかもしれない。そこでは〈全てが等しい〉という宣言のもとにもとに、すべての存在者の多様性が回収されている場所である。また逆に言えば、〈全てが等しい〉とする存在の暴力のもとから諸々の存在者たちが逃走しようとしている場所のことでもある。〈全てが等しい〉こととは神学的に言えば一者の振る舞いであり、これは多としての存在者が置かれた場所から望めば巨大な同一化の力として振る舞っている。ここには事物そのものが持つ本性上の差異は存在してはいない。
例えば、物質という同一性を考えてみるといい。すべてを物質で語り尽くそうとする科学が持った空虚なる全体性への欲望。科学に現れる種々の物理法則の中には差異の極限が持つ〈ただ一つの同じ声〉が押し並べて響いている。
例えば、今流行のデジタル空間という同一性を考えてみるといい。すべてを0か1のビット信号で覆い尽くそうとするコンピュータの欲望。ここには物質という同一性の中で戯れる差異なき差異を、非-物質というさらなる極限の同一性の中に葬り去ろうとする最終的な欲望が働いている。
すべての女を石女(うまずめ)にしてしまうメドゥーサの呪術。存在者の不妊化。差異のこうした去勢状況の中からは新しい子供たちは決して生まれてはこない。差異が存在しなければ、存在自身が持つ存在への反復力が及ぶべくもないからだ。
存在論的差異が持つ反復。ドゥルーズにおいてそれは意識のことに他ならない。意識とは存在と存在者の差異に生息している反復である。その意味で、僕らの目前に世界が現れ、それを現象として意識しているということは、僕らが意識する一瞬、一瞬の中に永遠回帰としての反復が絶えず繰り返されているということなのだ。今、今、今、という反復の中にも、僕たちの無意識は存在の一性との間で交信を繰り返している。その意味で言えば、現存在としての人間とは、その反復の中に着床した一つの宇宙卵〈space-egg〉と言える。
父を殺害してはみたものの、今度は父の亡霊に取り憑かれ、母までをも手にかける。そして、その屍体から卵巣までをも引きずり出して、母の胎内で生産されてくる卵子のすべてを踏み潰そうとする変態性欲。その性欲に僕らの現代はどっぷりとつかっている。その意味でも、今という時代ほど永遠回帰が問題とされなければいけない時代はない。存在が諸々の存在者をサウロン的な巨大な同一性の大洋の中に飲み込み、この大洋から差異のさざ波が消え去ってしまう前に、生命あるものはこの存在の暴力に対して徹底して逃走の道を、いや、反復不可能なる反復への往路を仕掛ける必要があるのだ。そのためには事物相互の本性の差異を見極めることが絶対不可欠である。。つづく。
1月 13 2007
差異と反復………4
さて、このドゥルーズ哲学のほのかな香りをおかずとして、主食であるヌースの「差異と反復」の話に移ろう。
存在者と存在との差異。一般には思考不可能とされているこの存在論的差異の道程を何とか思考の対象として描像することができないか、それがヌースの試みだと言っていい。また、その差異の連なりを思考対象としていく知性の在り方自体が、本来、ヌース理論がNOOS(nous=創造的知性)と呼ぶもののことである。この差異を顕在化させていくために、ヌースはおよそ次のようなプロセスのもとに思考を進めて行く。
1、存在と存在者の差異は僕らの認識においてどのような差異として現れてくるのか。
2、1で見出された差異を幾何学的な概念として抽出することはできないか。
3、その抽出された概念を被造物の根源的要素とも言える光子と結びつけることはできないか。
4、そこから、物理学が見出した高次元多様体の形作る内部対称性を差異と反復の拡張システムとして解釈することはできないか。
5、そして、このシステムを構造主義やポスト構造主義が追いかけている無意識構造の在り方と結びつけることはできないか。
とっかかりはこうした順番である。もちろんこの先もまだあるが、とにかく、存在者と存在の間における距離を一つの長大な円環構造と見なし、永遠回帰が辿る一つの循環路の在り方を白日のもとに晒そうとする試みがヌース理論だと思ってもらえばいい。それは言い換えれば、僕らが所持している意識のすべての中を自意識的に辿っていくということでもある。これらすべての項目についてダイジェストするのはちょっと大変なので、ここでは1〜3までのごくかいつまんだあらましを紹介しておこう。
1、存在と存在者の差異は僕らの認識においてどのような差異として現れてくるのか。
世界が極限的な差異において「2なるもの=対化」として存在と存在者の関係を作り出しているのだとすれば、すべてが逆さまに映されている現象側にはその差異は始源における「2なるもの=対化」として現れているはずである(ドゥルーズは本性の差異は延長の中で量や質として逆さまに映されるという)。この原初の差異の中へと侵入できなければ極限の差異へと向かう通路は永遠に見えることはない。
そこで、ヌースはこう考える。被造物における原初の「2=対化」を単純にモノと空間のことと考えてはどうか、ということである(左上図参照)。つまり、存在-存在者の関係は被造物の世界においては空間とモノの関係として姿を表しているのではないか、ということだ。実際、空間はすべての存在者の母胎となるものだが、空間自体は存在者とは呼びにくい。空間はモノによってのみ、その存在を不在として露にし、文字通り、現象世界全体を出現させるための一者的同一性として振る舞っている。そう考えれば、存在そのものの臨在として空間ほどその名に似つかわしいものはない。(もちろん、モノ=物質と見るならば、そこには気体や液体の状態もあるわけで、確固としたかさばりのモノとは少し異なるものとなる。液体や気体の本性についてはヌースでは別枠できっちりと説明していくことになる。)
認知心理学でいう「地(フィギア)」と「図(グラウンド)」の関係に明らかなように、モノは空間なしでは認識に浮上することはないだろうし、空間もまたモノなしでは認識に昇ってくることはない。そして、このような二項対立の図式に常に付きまとっているのが「同一性」というものである。この場合で言えば、空間はあくまで空間であって、モノはあくまでモノであるという大前提がそれだ。空間とモノが互いの存在証明のために相補的な関係として現出しているとするならば、対象認識は認識の矢が空間とモノの間を行ったり来たりし、互いを反照し合うことによってそれぞれの同一性を保証し合うことによって成り立っているということになる。つまり、存在と存在者の間にある存在論的差異は、僕らの認識の中ではまずもってモノと空間それぞれの同一性を保証し、それら両者間の反復として姿を表しているということなのである。そこで、次のことが問題となってくる——ではそれら両者の差異とは一体何なのか?言ってみれば、ここが始源から放たれる第一の差異の入り口となるわけだ。
認識におけるモノと空間の間の反復は当然のことながら差異が存在するから起こる。しかし、その差異とは一体何のだろうか?空間とモノの場合であれば、その差異は両者の境界、つまり、界面にあるのではないかという直感が誰にでも働くことだろう。この界面は言い換えれば、〈内部/外部〉境界を形作っているものだ。しかし、界面を物質=存在者のイメージで追求していったとしても、それは曖昧模糊とした量子レベルの確率存在の中にとけ込んでいくだけで、確固とした差異面が認識に浮上してくることはない。第一、空間とモノとの差異について思考する限り、その差異がモノとして表されるはずもないだろう。対象認識とは人間が持った概念の問題であって、物質的な表象レベルの問題などではないからだ。つまり、実体としてモノと空間の差異があるというより、観念が概念を用いてモノと空間を区別するような象りを与えているということなのである。ここから思考が持つ眼差しはその対象を〈物質的なもの〉から〈量子的なもの〉へと方向を転換することになる。つづく。
By kohsen • 差異と反復 • 2 • Tags: ドゥルーズ, 差異と反復