1月 18 2007
差異と反復………5
というところで、純粋な幾何学的概念としてモノと空間の境界を見つめてみることにしよう。
2、1で見出された差異を幾何学的な概念として抽出することはできないか。
話を分かり易くするために、とりあえずモノ概念を球体に還元させてイメージすれば、空間とモノの境界は常識的には3次元空間に埋め込まれた2次元の球面としてイメージすることができる。このとき球面の外部側とされるところが空間とされる場所であり、内部側がモノだ。内部側は文字通り球面によって内包された領域であり、外部は同じく文字通り外延空間として現れている。そして、この境界となる球面S^2が目下のところ差異として想定されたイメージである。問題はこの差異がどこからもたらされてくるのか、ということだ。というのも、そこに現れの世界としての第一の差異の本性があると思われるからだ。
さて、ここでまず問題としたいのは、境界面は本当に3次元空間R^3内に埋め込まれた2次元の球面S^2なのか、ということである。単なる球面という概念でほんとうにモノの内部と外部の差異が成り立つのだろうか。例えば、次のような状況を考えてみよう。君がガス会社の社長だったとしよう。君は技術部から新しく完成したガスタンクの完成記念式典に招待される。技術者たちは君を稼働前のガスタンク内部に案内し、その概要について説明を行う。「このタンクは直径100メートルあって、球体型のタンクとしては世界一の大きさを誇ります。」君はそのガスタンクの内壁を見上げ「ほう、すごいねぇ〜」と驚嘆の声を上げる。そのとき事務員の女の子が「記念品です」と言って、純金でできた直径10cmほどのガスタンクのミニチュアモデルを持ってくる。「ほほう、外側のデザインもいいんだねぇ〜。」と君は満足げに微笑む。ミニチュアを見るときは君はもちろんモノの外部にいて、モノと空間の差異が見えている。しかし、実物のガスタンクを見るときは君はその内部にいて、ガスタンクと空間の差異は見えない。そして、そこがガスタンクの内部であるという認識は君がガスタンクの外部を知っているから言えることだ。。ということは、どんなに巨大な空間であれ、君がその外部に出ることができるならばそこはモノの内部と呼べる領域になる。巨大な直径の球空間をイメージしていけば、地球だってモノの内部に入れることが可能だ。いや、太陽系だって、銀河系だって、モノ概念としての球空間の中に放り込むことができるわけだ。そうやってそれを内部と見ている君の外部の視座はどんどん後退し、やがてすべての内部は宇宙と呼ばれる半径137億年の巨大な球体の内部に収まってしまったとさ。めでたし、めでたし。。。。ん?しかし、そのときの外部ってどこだ。
何をいわんとしているかお分かりだろうか。つまるところ、僕らはモノの外部を空間として認識してはいるものの、そこに対応させている概念は、結局のところ、モノの内部としての空間でしかないのではないかということだ。しかし、現実として知覚空間上にはモノの内部と外部という差異が存在している。このことを一体どのように考えればいいのか。
要は単なる大きさの差異のみで空間を概念化しているのがまずいのだ。というのも、距離や面積や体積などを支えている尺度概念にはモノと空間の差異が存在していないからだ。何度も言っていることだが、尺度概念というものはもともとモノの内部表象から派生してきている。だから、尺度によって空間の大きさをイメージすると、必然的に空間の広がりに対する認識は、モノの内部にあると目される3次元的なかさばりの表象と同じものになってしまう。尺度概念への依存は、結局、モノの内部がモノの外部を寝食して、モノの内部に同一化させている思考状況と言えるのだ。
僕らが一般的に所持している3次元の空間認識は、実のところ未だモノの中でしかなく、そこに外部は存在していない。モノの外部が存在しないということは光が存在しないということでもある。そして、光が存在していないということは3次元的な思考は知覚に何一つ接していないということでもある。当然、そのような認識には差異がない。こうした差異なき意識状態をヌースでは「有機体」と呼ぶ。有機体は「位置」を持たない。「位置」とは哲学的に言えば実存のようなものだ。
では、逆に「位置を持つ」ということはどういうことなのだろうか。そのあらましを次に紹介しよう。僕らは「位置」を持つことによって初めてモノと空間の差異を云々できるようになるのだ。——つづく
1月 19 2007
差異と反復………6
とても回りくどい言い方になってしまったが、前回言いたかったことはただ一つ。モノの外部と内部の差異の幾何学的描像はS^2ではあり得ないということである。そのことは実際に知覚されているモノと空間の関係を素直に見つめれば少しづつ分かってくる。過去三冊のヌース本にも繰り返し書いてきたことだが、知覚されている世界は3次元空間ではなく射影面であるということを忘れてはならない。射影面(2次元射影空間)とは下図に示したように、球面S^2上のすべての対蹠点(たいせきてん)が同一視されるような空間のことである。点Pnは光学中心となる点Oを境に反転して点Pn*と同一視される。これらの射影線の集合をひとまとめに見れば、2次元射影空間の構造には相互に反転した二つの3次元空間が存在しているということが分かる。
このことは、目の前にモノがあるとき、そのモノの見え姿としての表面(これを物体正面と呼ぶことにしよう)と、モノを図として支えている背景としての面(これを背景正面と呼ぶことにしよう)は、実は同一の面の反転した現れだということを意味している。この反転の様子を実際の感覚に上げてくるのは簡単だ。目の前の球体がどんどん縮んで行く様子を想像するといい。そして、その球体がついには0点まで縮んで、そこでオモテとウラが反転し、今度はどんどん膨張していくさまを思い描けばいいのだ。すると、背景正面に当たる面が、もともと物体正面と呼んでいた面と同じ側の面となっていることがすぐに見て取れるだろう。つまり、知覚空間上におけるモノの内部と外部の差異とは、射影空間の構造を通して見れば、相互に反転関係にある3次元空間同士の差異となっているということなのだ。この3次元空間の相互反転関係の認識はヌースの世界へと入っていくためには極めて重要なものである(「人神」ではタキオン空間として説明したものだ)。
前回書いた、モノの内部がただ単に膨張していく空間のイメージを思い出してみるといい。その描像では、モノの背景正面はそのままモノの内壁と同じ面にしか対応してこないことが分かるだろう。つまり、モノの内部がモノの外部を呑み込んでしまっている同一化の状態とは3次元認識そのもののことを言っているわけだ。しかし、知覚野の空間を射影空間として見ると(というより、事実、射影空間としてしか見れないのだが)、背景正面はモノの外壁と同じ面であり、モノの外部としての空間は反転しているのである。そして、この反転した空間の内壁において僕らは図としてのモノを受け取けとり、知覚世界自体のランディングを可能にさせていると言っていい。しつこいようだが大事なところなので、もう一度、別の言い方で、モノと空間の間にある幾何学的イメージを明記しておこう。
モノを象っている外壁面とモノを取り囲んでいる空間の内壁面は同一の面が反転したものである。
今、おそらくみんなの頭の中でじわじわと浮上してきているであろう場所のことをヌースでは「人間の外面」といい、そこで働いている意識のことを人間の外面の意識という。一方、背景正面をそのままモノの内壁が膨張したものと見なし、両者を同じ面として見ている認識を人間の内面の意識という。こちらはおなじみの3次元の空間認識である。たぶん、みんなは今までこのような仕方で空間を二つに区別したことはあまりないはずだ。というのも、通常、僕らは人間の外面領域に全く気づいていないからである。その意味でヌースがいう人間の外面の意識とは無意識の場と呼ぶことができる。しかし、それが意識化されたからには、それはもう無意識の場ではないとも言える。これからは、そこは、ほんとうの君がいるほんとうの場所として感じ取られてくることになるだろう——。
さて、これでようやく、モノの内部と外部の差異を云々する準備が揃った。まだつづくよ。
By kohsen • 差異と反復 • 0 • Tags: 人類が神を見る日, 内面と外面, 差異と反復