1月 27 2007
差異と反復………11
前回説明した磁場と電場のイメージは本質部分を分かり易く簡略化したものだ。電場も磁場も時間とともに変動しているわけであるから、正確には、4次元時空との関係等も持ち込んで説明しなければ納得のいく説明とはならないだろう。そのためにはマクスウェル方程式や電磁場の量子化のプロセスなど物理学的な詳細との照合が必要となるが、このへんは僕の物理数学的理解が浅いためまだはっきりとウラは取れていない。より具体的な検討は以前、ヌース会議室の方でφさんのアドバイスなども受けながら行ったことがあるので、詳しい議論に興味のある方はそちらを参照してほしい。
※ヌース会議室/【4171】マクスウェル方程式と星型八面体→http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=4171;id=noos
ヌース的に最も重要な問題となるのは、この複素平面上の振動として表される電磁場が見方によってはどうして光子という粒に見えてしまうのか、というその理由である。ヌース理論は科学理論ではない。精神=物質、物質=精神という世界観のもと、物質と精神の間の差異と反復を見出すための理論であり、またその思考的実践でもある。だから、精神構造の中に見出されて行く種々の差異の在り方がそのまま物質世界の反復性として見えてくる必要がある(電子のスピンであったり、イオン交換であったり、DNAの転写であったり、黒点周期であったり、昼と夜の繰り返しであったり、寝-起きであったり、セックスのピストン運動に至るまで)。またそれが「観察子」という概念が意味するところのものでもある。観察子概念はいずれかのヘルメスの箴言「上にあるが如く下にかくあり」というかたちで、高次元多様体と物質世界の二而不二の関係を無数発見して行くことになると思う。そのためには、高次元のカタチを単なる抽象概念として思考してもあまり意味がない。そもそも概念(conception)とはconceiveする(孕む)ことの意から来ているものだ。conceiveというからには、それは女性的なものでなければならない。つまり、知覚的、感覚的、身体的である、という意味だ。その意味でも、思考が物質を孕むためには、物質の第一起源とも言えるこの光子のカタチを僕らの感覚の中で思い描くことのできる想像力が絶対不可欠となる。光子が持った波動性と粒子性というこのアンビバレントな表象を僕らの実際の感覚に即したイメージで矛盾なく結びつけることが果たして可能なのか。そのイメージ作りに関して、ここで少し触れてみたい。
まずは知覚の話に戻ろう。知覚正面が射影空間であるということは、僕らが実際に触れているリアルには3次元的なマクロもミクロも存在しない、ということを意味している。それは空間知覚の発達途上にあるとされる幼児期の子供たちがモノの大きさや距離というものをうまく理解できないことからも言えることだ。マクロとミクロという尺度概念によって象られた空間認識はあくまでも人間の内面の意識の形成によって培われてくる概念の産物であり、発達心理学的に言えば、人間の内面の意識は外面意識の発達の後に出現してくるものなのである。これは数学的に言えば、射影空間の方がユークリッド空間よりも本源的な空間であるということと全く同じ意味を持っている。つまり、最初に射影空間ありき、なのである。射影空間がなければユークリッド空間も生まれてはこない。そして、この射影空間が僕らが奥行きと呼ぶ方向の中に存在するものであることはすでに説明した通りだ。
ここで、前回の話の中で奥行き方向を虚軸に対応させたことを思い出して欲しい。そして、そこで説明した「- i 軸」の見えの様子を再現してみよう。「- i 軸」の方は奥行きの中でも、目に見えているモノの中心点と背景正面の方に延びているであろうと思われる直線に対応させた。さて、この直線は実際の知覚にはどう見えているだろうか。今まで何度も言ってきたことだが、それはどうあがいても点にしか見えないのが分かる。つまり、無限遠方と無限小はそこでは同じものとなっている、ということだ。実際にそう見えるということは、それが「リアル」なものの見方であるということだ。そこで、そのリアル状態をキープしたまま注意深くモノの周囲を回ってみるといい。すると、人間の内面認識で3次元空間の無限の広がりの先に見えていた天球面もまた、すべて、モノの中心点と同一視されていることがそれとなく感覚に上がってくることだろう。つまり2次元射影空間を構成している光学中心(射影線のすべてが一点で交差するところ)と天球面は知覚においては全く一致してしまうということである。今までも何度か言ってきたことだが、このことが極めて重大な意味を持っていることに僕らは気づく必要がある。つづく。
2月 1 2007
差異と反復………12
何がそんなに重大なのか——モノを中心にして「わたし」が回転したときに見えているモノの背景正面(天球面の内壁)が現存在としての人間(主体)の位置の萌芽であるといったことを思い出してほしい。それが今、モノの中心点と同一視されてしまっている。このことをどういう風に考えればいいのか。。すぐに実感するのは難しいかもしれないが、それは、主体(モノを見ている「ほんとうのわたし」)の本当の位置は、実はモノの中にあるということを意味している、ということだ。人間の外面においては、モノの内部と外部という区別は全く意味を持っていない。それは、ψ3の位置としてのモノの背景面が、このようにモノの内部と外部を等化(同一視)しているからである。つまり、差異の場は、3次元認識的に言えば、微小領域に縮められて見えてしまっているということなのだ。
3次元空間上の無限小と無限大が180度捻られて、その結果、無限小=無限大、無限大=無限小という、今までの空間認識上あり得ないと思われていた奇跡的な連結が認識に浮上する。当然のことながら、この反転認識によって、今度は全宇宙が点状の小さいな球体の中に叩き込まれているという事態が起こる。この事態を目撃したとき、君は生きながらにして死ぬ者となっていると言っていいのかもしれない。もっと大げさに言えば、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出たのだとも言えるのかもしれない。空海がいうところの「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)がそこに現れるというわけだ。部分が全体を映し出し、また、全体が部分の中に収まるあのライプニッツが語ったモナドのランドスケープが、理性の中に朧げながらも出現してくるわけである。
こうした認識は4次元認識の萌芽と言ってよいものだ。モノの中と外を自由に行き来できる4次元人間の話を君も聞いたことがあるだろう。君はこの時点ですでに4次元の扉を開いている。人間の内面認識では君はモノの外にいると感じているはずだが、人間の外面が顕在化を起こしてくると、君(主体)はモノの中にいるとも言えるようになるのだ。内面認識では宇宙は広大無辺なものに感じられているだろうが、外面認識では逆に宇宙空間はモノの内部に存在しているように見えてくる。当然のことながら、このような空間認識が生まれてくると、見るものと見られるものなどといった今まで僕らが持っていた頑な主客二元論的な区別は消失する。見るものとは見られるもののことであり(クリシュナムルティ)、僕らはモノの内部からモノの外部を見ている(ベルクソン)のである。
そして、このことの発見はいよいよ物質が思考を孕む、あの宇宙的妊娠の意味を持ってくることになる。つまり、思考(ロゴス/精子)が初めて物質表象の内部の空隙(コーラ/卵子)に接触してくるということだ。存在の円環におけるオメガとアルファの結節という言い回しで、僕がいつも話しているものとは、実はこの観察(主体)における無限大と無限小の連結のことなのである。
モノの背面にある奥行き方向が作る3次元の広がりと思っていたものが点的な球体に縮むということは数学的に言えば、(x, y, z)が(dx, dy, dz)に変換されるということでもある。これは微分の意味に他ならない。ここでドゥルーズの〈差異化=微分化〉という言葉が浮かんでくる人もいるかもしれない。ドゥルーズは内在面としての主体の場を強度の場(知覚が受ける強さの場の意味)と考え、そこが微分化された領域であると考えていた。その著「差異と反復」の理念の章の中でドゥルーズはさらりと言ってのける——微分dxとは理念(イデア)である——と。ドゥルーズの微分概念の借用はその手の専門家から厳しい批判を受けてはいるが、微分が内在面への接触であるというドゥルーズの主張にヌース理論は全面的に賛同したい。ちょっと偉そうだが、ただしそこには条件が欲しい。その条件とは今までの話の経緯からも分かるように、「- i」をくっつければ、という条件である。内在面が強度の場である限り、そこには実の3次元空間ではなく反転した空間としての虚空間、それもマイナスの虚空間が同席していなくてはならない。これを記号で表せば(-idx. -idy, -idz)ということになるだろう。この表記はそのままψ3の位置を抉り出すための数学的表現になっていることが分かるはずだ。ここにプランク定数を2πで割ったものh(-)を掛けて、微分記号を偏微分記号に変えてやれば鬼に金棒となる。というのも、これは量子力学においては運動量の量子化の手続きそのものを意味することになるからだ。つづく。
By kohsen • 差異と反復 • 2 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, モナド, ライプニッツ, ロゴス, 内面と外面, 差異と反復, 量子力学