2月 2 2007
差異と反復………13
●運動量の量子化
px → -i(h/2π)・∂/∂x
py → -i(h/2π)・∂/∂y
pz → -i(h/2π)・∂/∂z
量子の世界は「差異と反復9」で挙げた回転運動であるe^iθをベースとする波動関数ψ(r,t)(r=x,y,z t=時間)で表される。粒子の運動量p(の確率)を知るためには、上に示したように波動関数ψを位置座標(x,y,z)で微分して、-i(h/2π)を掛けることで取り出せる。古典力学では単なる物理量としての運動量(質量×速度)であったものがが、どうして、量子力学ではこのような演算子へと置き変わってしまうのか、今のところそのことについては誰も明確に答えることはできていない。ただそうすれば量子世界の実験結果とうまく符合するからそのようにしている、という程度のものだ。しかし、空間認識を単純な3次元認識から、自他の差異を考慮したキアスム認識へと変えると、この量子化という操作が単なる数学的技法ではなく、厳然と存在する現実的な空間構造に基づいて要請されてきたものではないのかという推察が生まれてくる。つまり、古典力学の範囲では観測対象は単に人間の内面認識で構成されたものだったのだが、量子力学では物質の本質をミクロの極限にまで遡ったことによって、ついに人間の外面と内面が絡み合う観測者(主体)の実存の場である4次元空間(4次元時空のことではない)の構造にぶち当たってしまったのではないか、ということである。
一方、位置演算子の方を見てみよう。運動量演算子が微分で表されるのに対して、粒子がどのへんにいるかという確率を知るための位置演算子はそのまま、
●位置の量子化
x → x
y → y
z → z
というかたちで横滑りに置換される。これは当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。物理学が対象の「位置」と呼んでいるものとは内面認識そのものを支えている概念だから、ここにi軸がダイレクトに関わることはないし、またi軸が関わらなければ微分も起こらないだろう。こうした見方で、光子(複素平面上の単振動)とは一体何かと考えると、当然それは、自他間が持っているψ3-4、ψ*3-4という3次元空間自体に潜在しているキアスム構造の中を反復している意識(空間をイメージし象るための想像力)なのではないかということになってくる。
以上のような考え方を持って、複素平面をもう一度見つめてみよう。すると、量子力学における運動量の量子化とはψ4-ψ*4(複素平面上の実軸)という人間が持った3次元空間の概念を90度回転(微分)させて、ψ3-ψ*3という外面に接続させるための、まさに差異化の物理学的表現のように思えてくる。このことはe^iθ上において実空間側は微分されると虚空間側に反転する、ということの意味でもあるのだろう。言葉ではとても難しく聞こえてしまうが、これはとても単純なことを言っていると考えていい。すなわち、空間認識の視線を左右方向(客観的視座)から、奥行き(主観的視座)に向けてみろ、ということだ。前に説明したように、空間認識の視線が奥行き方向に向くことによって、そこには射影空間が持つ「内と外の捩じれ」の性質が顕在化する。内部と外部の関係が自他で相互に反転しているとするならば、その捻れは、自他間でイマージュや言葉を行き交わさせている交通空間のカタチの在り方と言えないこともない。そこで、君と僕はつながっているよ、というわけだ。
ψ4-ψ*4軸(実空間)からψ3-ψ*3軸(虚空間)への反転。この反転によって僕らか宇宙と呼んでいる外延空間の広がりは、そのままプランクスケール大の点的な球空間の中に直結する。つまり、主体が定位している純粋知覚の場においては4次元という方向が直立し、そこから見ると宇宙半径とプランクスケールの世界は同じものに見えてしまうということなのだ。前回、ψ3とψ*3とはそれぞれマイナスとプラスの点電荷のことだと何の断りもなしに言ったが、どうして、ψ3が点状の対象として見えるのか、今回の内容で少しは理解していただくことができたかもしれない。実際、場の量子論の中では運動量の確率密度は電荷密度と同じものと見なされているようだ。
ψ3から見て無限大と無限小が同じものに見えるならば、ψ3にとってはψ4もまた、微小領域の振動として把握されているに違いない。なぜなら、ψ4-ψ*4軸がψ3-ψ*3軸へと反転した時点で、今度はψ3-ψ*3軸がψ4-ψ*4軸へと反転していることが予想されるからだ。その意味で、自他間における主客認識のキアスムが、差異を知らない人間の内面認識にとって光子という粒に見えたとしても何の不思議もない。ちなみにOCOTたちが語り伝えてきている幾何学はこの複素数平面に始まる複素n次元空間の幾何学の可能性が高い。それはドゥルーズが常々語っていたイデア=高次元多様体の世界のことでもある。
90度とは何ですか?
反転する力のことです。
正方形とは何ですか?
位置を変えていくための方向性の相殺です。
方向性の相殺のためには何回の反転が必要なのですか?
3回です。位置の交換、位置の等化、位置の変換。
(シリウスファイル)
こうして、僕らは次のステージにおける差異、つまり、ψ3とψ4の差異であるψ5とは何なのかを考える必要が出てくる。なぜなら、ψ3-4を反復させている力の正体はそれらを等化した精神にあるだからだ。
お〜い、早くやめろぉ〜っ。って声が聞こえてこないでもないので、次で締めますかね。
2月 3 2007
差異と反復………14
この連載で挙げた人間の外面と内面の概念はヌースがいう次元観察子ψ3とψ4のみだったが、ここから始まる差異と反復のプロセスは、ヌース理論をよくお知りの人にはもうすでにおなじみのように、とりあえずは次元観察子ψ13〜14という7段階の構成を持って(実際にはさらに巨大な観察子も存在する)、ケイブコンパスというツールでもって下図のような形で示される(図はψ9〜10まで)。現在、執筆中の新著では、このケイブコンパスのシステムが作り出す無意識構造の風景を、プラトン座標という立体地図を用いて、物理学のみならず、歴史や芸術、さらには精神分析、哲学、現代思想、宗教、神話、神秘学等を縦横無尽に横断しながら徹底的に探査する内容となっているので楽しみに待っていて欲しい。。。ということで、結びに入ろう。
「差異の必然的帰結とは、個体化は、権利上、異化=分化に先立つものだと言うこと、あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としていることである。」ドゥルーズ「差異と反復」(p.367-370.)
ドゥルーズが執拗に繰り返す〈異化=分化〉と〈差異化=微分化〉という互いに対峙する理念の二成分は、ヌース理論におけるこの〈人間の内面〉と〈人間の外面〉のトポロジックな位相関係にきっちりと対応している。内面は分断的、断片的なパラノイアの王国であり、外面は無境界で、連続的な離接作用を持ったスキゾフレニアックな草原地帯である。トポロジーの用語でいえば、これらは非コンパクト化とコンパクト化に対応させることができるのかもしれない。∞が無限大として開いているか、それとも無限小と等化されて閉じて連続化しているか。直線的か、円環的か。角張っているか、丸みがあるか。鋭角的か、曲線的か。束縛的か、開放的か——等々。
ヌース理論では人間はその本性自体が性的倒錯者であると絶えず説いてきた。〈わたし〉と〈あなた〉も、〈過去〉と〈未来〉も、〈原因〉と〈結果〉も、ひょっとして〈男〉と〈女〉も。。。みんな本来あるべき姿とは逆さまになっている、そう語ってきた。それらは、ここでのドゥルーズの言い回しを借りれば、「あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としている」という内容とほぼ同じ意味を持つ。つまり、「先行的な個体化の強度的な場」とは魂の生産が行われている場であり、ここは物質がこの世界に登場する以前に、物質よりよりリアルな何者かとして作用していた場だった、もしくは、場となるところではないかと考えられるからである。この場は少なくとも通常の因果律的な反復(あれが原因でこうなった。こうなったのはあれが起ったからだ——等)が起っている場所ではない。物質に先行した精神が活動してていた場所であり、精神によって物質は創造されてきたのだ。しかし、このことは、必ずしもヌース理論が従来のプラトニズム的な議論、すなわち観念論VS実在論、観念論VS唯名論のような水かけ論を、再度、持ち出すことを意図しているわけではない。ドゥルーズにしてももちろんそうだろう。単純な言い方になるが、ドゥルーズは、それらの関係の差異、つまり観念的なものと実在的なものの差異を明確にすることによって、この両者がバロック的な襞形成の運動のもとにダイナミックな生成活動を行っている様子を彼独自の概念創造の中に構成しようと試みているのである。だから、ドゥルーズにおいて語られるべきは〈悟性=内面〉でも〈感性=外面〉でもなく、またカントの構想力、綜合力といった曖昧な概念のことでもない。〈悟性-感性〉を相互につねに交通させていくシステム、また、それら互いの差異と反復を司るより奥裏のより実存的な機構、実体のダイナミズム、力動的な生産を生産していく〈流れ〉としてのマシニズムの世界を人間の思考に出現させようとしているのだ。そして、そこにある機構こそがドゥルーズのいう《理念=イデア》のイメージなのである。そんでもって、おまけに、ドゥルーズは「君自身がそれなのだ!!だから、それになれ!!」とはっぱをかける。わぁお、そんな御無体な。。。その精緻な思考、イマジネーションにはほとんど圧倒されてしまいそうになるが、その骨格的ビジョンはヌース理論と極めて似ているのだ。
ドゥルーズのいう「強度的な場」とは、わたしたちが実際に対象と触れ合うことのできる、もしくは、対象として生成して生きる現場そのもののことだ。そのような現場は、現にここに生きている〈わたし〉そのものと区別することができない「生」そのものの風景であると言ってもいい。主人公がいて、舞台があって、物語が進行していくのではない。物語こそが主人公であるような物語。赤い花がそこにあるから花が赤いのではなく、赤があって、赤い色が花という形態を通して自らの姿を露にしている…そして、それはとりもなおさず、わたし自身が赤そのものに変身しているからである、といったポイエーシスの思考。。。某詩人風に言えば、「持つ(所有すること)」ではなく「なる(生成すること)」の思考。「わたし」が「御飯を食べる」のではなく、「御飯を食べる」が「わたし」している——使い古された言い回したが、強度の風景、人間の外面の風景とはそういうものである。
現代科学は時空という場が人間の発生以前に誕生したものと考えてきた。僕らはそろそろそれを過去の神話として葬り去る必要がある。客観的な時空は、ヌース的に言えば人間の内面にあるψ8に相当する領域だが、これはあくまでもψ7(人間の総体の精神)の反映として出現してくる場所にすぎない。ψ7があってそれゆえψ8があるのであり、決してその逆ではないのだ。常々言ってるように、はじめにψ7=人間精神ありき、なのである。ψ2→ψ4→ψ6→ψ8という偶数系観察子の連結で表される人間の内面の指標は、ドゥルーズの言葉で言えば、〈異化=分化〉のプロセスにおける最も基盤となる階層性を意味すると考えていいだろう。客観としての一つのモノの見え姿-ψ2。客観としての一つのモノ全体-ψ4。客観としての無数のモノ全体、もしくは一人の観測者(物質的身体)-ψ6。客観としての無数の観測者(物質的身体)-ψ8云々…というように。それら各々の領域における存在者の配位、配置関係によって、空間的、時間的な測度、尺度が成立し、諸々の存在者は人間の内面空間なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)を組織し、物質的な差異なき差異の場を構成しているのだ。
それらは月並みな言い方をすれば、魂の射影としてバラバラに散乱させられた虚像の世界でもある。ここに生まれている内面なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)は、〈異化=分化〉を行うための縦軸と横軸となり得るものだ。種々の存在者の分別や分類、系統の整理などは、この二つの軸を交互に交差させることによって、理性(言語)の名の下に厳粛に行われる。もちろん、その作業に外面認識が直接参加することはない。外面は遅れてきてやってきた分裂症者として抑圧され、秘密の小部屋に監禁される。男子は体育館へ。女子はそのまま教室に残れ。気をつけ。前に習え。左向け左。回れ右。ぜんたーい、進め!というわけである。モノを統制する物理法則、人を支配する法律。軍隊を統制する規律。そして、それらの諸々の法を遵守するように命じる内在に深く入り込んだ絶対者の目。それが僕らが崇めてきた神だ。そんな司令長官のような神を君は信用するのか?
さぁ、魂のレジスタンスを開始しよう。旧い神にはそろそろ退散してもらうのだ。永遠回帰の車輪は今、このとき、この瞬間も回り続けている。それに乗るか乗らないか、その選択はもちろん君の自由だが、君が真に自由を望むならこの話に乗らない手はない。反復不可能なものなど新しくやってくる民衆の辞書には存在しないということを全世界に見せつけてやろうじゃないか。宇宙の創造は今から始まるのだ。
若干、力み過ぎだけど、おしまい。
By kohsen • 差異と反復 • 1 • Tags: カント, ケイブコンパス, ドゥルーズ, プラトン, 内面と外面, 差異と反復, 神秘学