2月 12 2007
トツカノツルギ
さて、前回は、若干、オチャラケ気味で「上と下」の導入を書いたが、「上と下」について、ヌースの話をマジモードで始めるとちょっと大変になる。それは地球の自転や月の公転や、太陽やその他の諸惑星、さらには銀河、銀河団などについて、いろいろと話していく必要があるからだ。「回転とは等化」というヌースの鉄則がある。諸惑星たちは単にビックバンの残響力でいたずらに回っているわけではない。そこには「次元等化」という大事な働きが潜んでいるのである。ただ、それらについてはまだよくまとまっていないので、またのお楽しみとしておこう。とりあえず、ここでは地球表面が5次元球面であるということについて、少し補足して話を終わらせたいと思う。
2月8日の書き込みで僕は次のように書いた。
>ヌース理論が語る元素とは、物質の構造ではなく精神の構造である。ヌース理論の文脈では、元素は人間の外面の意識構造(潜在化した無意識構造)であった素粒子構造が、(描像可能な)対象として顕在化を起こした際のその認識の在り方そのものとして解釈される。
ここでいう精神の構造とはヌース理論が語るイデアのことである。イデアとはそれを思考することがそのまま物質の創造となるような観念のことだ。このイデアは、当然のことながら、ロゴス(通常の理性)では把握することはできない。ロゴスは被造物に関する知のみを対象とし、それは、いうなれば分断知である。ギリシア哲学の伝統においては、イデアを対象と見なす知性がヌース(nous)とされる。だから、「ヌース」理論は当然のことながら、科学的ロゴスが物質の中に見い出してきた種々の被造物の構造を、創造者が用いた創造的思考(nous)の形跡へと逆変換していくことになる。トランスフォーマー型ゲシュタルトがその眼差しのもとに顕在化させた5次元球面が地球表面のカタチに一致したとすれば、そこで思考された5次元球面はイデアの範疇であるがゆえに、そのまま地球表面を覆う何らかの物質として出現していなければならない。それは何か——。
もうお分かりだろう。それが大気圏である。その組成は科学的知見によればN2(窒素)とO2(酸素)とされている。つまり、端的に言えば、トランスフォーマーが次元観察子ψ7〜ψ8、ψ*7〜ψ8という次元観察子を潜在的なものの状態から顕在化させ、それが5次元球面のカタチであるということがはっきりと認識されたならば、彼らがその時点で所持している幾何学認識(カタチ)は、そのまま大気圏に変身しているということなのである。すなわち、大気圏とは5次元球面が見えている状態そのもののことを指すということだ。
要は、僕らは単に生理化学的な意味だけではなく、意識的にも大気圏とともに生きてい「た」わけである。その意味で身体を中心とする空間は地球精神が持った空間と言い換えることもできるだろう(ヌースでは「反核質」といいます)。だから、地球を起点とした宇宙空間について思考を巡らすときは、必ず身体とともにある思考を行なわなければ何の意味もない。身体抜きでは今の科学的宇宙論が展開しているような「地球は約46億年前にドロドロの溶岩の固まりから生まれました」的な全く奇妙な話にしかならないのだ。
さぁ、僕らは言うなれば地球にばらまかれた無数の十字架である。この十字架を旋回させてみよう。そうすると、そこには天とを結ぶ無数の光の線が生まれる。この一本一本の光線は僕らが「星の光」と呼んでいるものだ。はるか銀河と地球はこの光線によって螺旋状のへその緒のように結ばれている。十字の柄(つか)の先に延びた光の剣(つるぎ)。大地に深く突き刺されたこの聖剣(エクスカリバー)を抜き取るためには、僕らは太陽系が何かを知らなければならない。
銀盤に輝く月を眺めてみよう。何でそれは回っている?太陽の目映い輝きに見入ってみよう。やつは一体何をやってる?諸惑星たちが奏でる天球の音楽に耳を傾けてみよう。やつらはなぜ仲良く黄道面に並んでる?そこには、みんなそれなりの理由がある。20段存在するイデアの階段を昇ったとき、僕らはその理由の半分を知ることができるだろう。
ちょっとファンタジーSF的に進め過ぎか? まぁ、エンターテインメントなのだから、いいか。
2月 15 2007
5次元から見たボクとパパ
思形の最も基本的な役割は、虚空間(奥行きが見えないという意味)として働いている前後方向に、実空間(長さが見えるということ)を設定し、それを観察することである。大人なら誰でも、奥行き方向を横から見たら幅のような長さが見えているに違いないという確信を持っていることだろう。ここで「大人なら」と書いたのは、僕が幼児の頃にはこんな確信は微塵もなかったのをよく覚えているからだ。月や太陽が遠いところにあるとは考えもしなかったし、左や右という方向を区別するのにもすごく苦労した記憶がある。幼稚園児ぐらいまでに見られる鏡文字等も、彼、彼女らにまだ左右という方向の認識の働きがよく生まれていないことを如実に物語っている。左右という方向があり、そこから見ると奥行きは幅になる——こうした確信を与えている力が思形だと考えていい。おそらくこの確信が芽生えてくるのは7〜8才頃だろう。思形の登場によって、主体は奥行きに延長を概念化することができ、モノの厚みや、主客の分離や、自他の分離を意識に明確に形作ることができてくるわけだ。
思形になぜこのような働きが出てくるかは、上に示したケイブコンパスでそのあらましを簡単に示すことができる。無意識の発達がψ9段階に入ると、精神はコンパスが示しているように、次元観察子ψ1とψ*1、ψ3とψ*3、ψ5とψ*5、ψ7とψ*7という奇数系同士(人間の外面同士)の観察子を、それぞれ対化として見る視座を持つことができるようになる。つまり、ψ1とψ*1の場合であれば、モノの見え姿(表相)のオモテとウラの存在を知ることによってモノの横からの視点が自然に主体に内在化してくることが可能になるということだ。同様に、モノの背景の表とウラ(表面と表面*=ψ3とψ*3)の存在を知ることよって、モノの外部iにある空間を横から見る視点が内在化され、自分の知覚球面と他者の知覚球面の存在(ψ5とψ*5)を並列的なものと見る視点によって、自他を横から見ている視点が内在化されてくる。これらの諸関係はψ7〜ψ8までの状態では獲得することができない。ψ7〜ψ8までの段階はあくまでも身体における前後の関係、つまり、知覚世界と知覚外世界の空間関係のみであり、これらの空間には他者を入り込ませる余地がないのである。その意味で、ψ7〜8の空間は、精神分析のいうただただ裸形の主体が孤高に存在する現実界の空間と言っていいのかもしれない。当然のことながら、この段階では、人間の自省的な意識というものは生まれてはいない。ただただ世界のみが開示するエーテル的世界である。
ψ9=思形とは、その意味で、ψ7〜8の段階まででは見えなかった関係を、他者の外面をミラーリングし、その像を自らの外面との交換関係を結ぶことによって形作られていくものとなる。この外面と外面*のミラーリングの共有によって、同時に内面と内面*側も同一化を起こすことになる。それは、思形の内面と呼ばれる領域で、ψ2とψ*2(一つのモノの内部)、ψ4とψ*4(一つのモノの外部)、ψ6とψ*6(無数のモノの外部、もしくは一人の他者とわたし)、ψ8とψ8(わたしを含めた無数の他者)、それぞれが占める空間の同一化である。何のことはない、これらは僕らが普通に所持している外界認識のことである。
(人間が意識する)モノとは思形の内面にあるものです——シリウスファイル
人間にとっては思形は無意識として働き、外界認識は無意識構造の発展プロセスの結果として、その内面に現れてくるということだ。そこでは、わたしとは無関係にモノの世界が広がっているかのように見えてしまう。モノ=対象という概念の発生。この対象概念において、現象世界は個別のコンテナに詰め込まれ、あたかも別々のものとしてそれぞれの自己同一性を与えられる。灰皿は灰皿である。ライターはライターである。机は机である。このAはAであるという同一律。理性が持ったまさに理〈コトワリ〉の儀式。世界の事物における排他的離接はこのようにして誕生してくるというわけだ。そして、見逃してならないのは、その背後を一つの精神として流れるように統合しているゼロ記号としての思形の覆いだ。こうした無意識の風景が象徴界(言葉の世界)への参入を示唆していることは想像に難くない。
〈補足〉ケイブコンパスの目盛りを見ても分かるように、この意識はだいたい7〜8才から13〜14才ぐらいまでで確立することになる。
あれ?ママが後回しになっちゃった。次回はママの番ね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, ケイブコンパス, 内面と外面, 表相