2月 28 2008
太陽と月に背いて(1)
(写真はhttp://journal.mycom.co.jp/news/2003/10/24/からお借りしました)
以前にもこのブログに書いたことがあると思うのですが、イシス-オシリス神話で有名な「オシリス」神というのは、もともと語源的に「無数の目(os-iris/オス-アイリス)」という意味を含み持っています。ご存知の方も多いと思いますが、オシリス神は古代エジプトではオリオン座と同一視されていました。
オコツト情報が何故にオリオン座とプレアデス星団のことを宇宙の根本的な二元力の源泉として語ったかは、正直言ってまだ定かではありません。僕としては、長年「シリウスファイル」の解読に努めてきて、オリオンとプレアデスという関係がヌース理論がいうところの「対化」、つまり僕らが他者と自己と呼んでいるものの成立基盤と極めて深い関わりを持っているものなのではないかと見当づけています。その意味で言えば、ヌース理論は一見、壮大な宇宙論には見えますが、最終的には自他を巡る倫理的関係を軸とした意識構造論に集約されていくことになるのではないかと思います。つまり、宇宙に脈動するすべての物質的存在は自他関係が織りなす意識的ウェブの影だということですね。
こうしたパースベクティブを持って、オシリス神の語源となっている「無数の目」の正体について推理してみると、これは「他者の眼差し」の意味として解釈するのが最も自然です。「わたし」はこの世にたった一人ですが、他者は無数います。この「一」と「多」の関係がプレアデスとオリオンの関係だというわけです。わたしにとってのあなたの眼差し――実はそれがこの世界を作り出した神の正体。。。。他者が神ぃぃ〜!?そんなわけねぇだろ!といった言葉があちこちから聞こえてきそうですが、ここで言っている他者とは、別に「あなた」の目の前に見えている他者のことではありません。他者自身のことです。「わたし」はどうあがいても他者自身になることはできません。他者の目がオリオンだとすれば、オリオンとは他者が見ている世界そのものに存在していることになります。しかし、それは、個々の「わたし」には絶対的に接触不能な領域に存在していることが分ります。おそらくそれは死の向こう側に存在しているものなのです。
僕らが普段、親子や夫婦、恋人、友人間などで接触している他者とはあくまでも他者を外部から見た姿であって、内部から見た他者自身の姿ではありませんよね。早い話、他者が見ている世界を他者そのものに成り代わって「わたし」が経験することは不可能です。自己には決して到達できないこうした彼岸の場所のことをオコツトはどうも「オリオン」と呼んでいる、ということなのです。そして、そこに存在している未だ預かり知らぬ未来の「わたし?」のことをオコツトは「真実の人間」と言っています。つまり、真実のわたしとは他者としてのわたしのことであると。。ここには、イエスが「我は汝なり、汝は我なり、我らすべて神の子なり」と言ったときのあの「汝」よりも、さらに深い「汝」を巡る思考が存在しています。もし、自分探しの旅というものを実行するのであれば、スピリチュアリストと自ら名乗る人はこの「ほんとうのわたし」であるところの「汝」へと至る道の探索を徹底してやるべきだと思います。というのも、それが真の意味での「ほんとうのわたし」だからです。
実のところを言えば、わたしとあなたの間には永遠という名の距離がある――
こうした「永遠の汝」とも呼べる彼の地へと「わたし」が赴くために一体、わたしは何をすればいいのか。ヌース理論からの示唆はこうです。まずは手始めに自分の実存というものを奪回する必要がある——僕が失礼だとは知りつつ、いつも「オープン・ユア・アイズ!!」とあちこちで吠え立てているのもそのためだと思って下さい。——つづく
3月 6 2008
太陽と月に背いて(2)
(写真はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200504.htmlからお借りしました)
実存の奪回。自分自身の目を見開くこと。ちょっと偉そうなことを言ってるかもしれませんが、このことは必ずしも、他人様に人生の指針を指し示したり、人間がどう生きるべきかを説くなど、宗教的な説教を意味しているわけではありません。そうした立ち位置は僕は基本的に好きではないし、自分の生活態度を振り返っても、人様にそうした提言をできるほど立派な人格者でもないからです。ヌース理論というのは、新しい思考様式を提示するものではあっても、決して人の生き方を説くものなどではないということ、まずはこのことをしっかりと頭に入れておいていただけると助かります。ちょっと誤解を招く言い方になってしまうかもしれませんが、ヌースの思考は社会的現実にはあまり関心がないということです。社会的な現実は現実として社会の中に生きる一個の人間として問題意識を持ち、精一杯、その解決に向けて努力していく。それしかありません。むしろ、一番まずいのは、自分の実存的問題と社会的現実で起きている問題を一緒くたにして、同じ地平で思考してしまうことです。そうした不安定な意識はいとも簡単に政治的なアジテーションに煽動され、社会的現実を思いもよらなかった方向へと向かわせる力になってしまうこともあります。20世紀に起きた2度の大きな戦争もそうした意識の在り方が招いた予想外の惨劇だったと言えないこともありません。
事実、ヌース理論の構築の母胎となったオコツト情報にも、「善を行なえ」だとか「愛が大事である」などといった説教じみた内容は一切ありませんでした。もちろん、ヌース理論が目的とするトランスフォーマー型ゲシュタルトの習得というのは、結果として個々の心情の中に倫理的なものを呼び起こす力を持っているとは感じてはいますが、しかし、そうした内容の方が強調され、メインとなって伝えられていくことには僕自身、とても抵抗があります。というのも、道徳的なものや倫理的なものを求めようとする衝動もまた、人間型ゲシュタルトの範疇ではないかと考えているからです。
ヌース理論が提唱する高次元の思考様式にはおそらく「善」や「愛」といった概念は存在しないのではないかと思います。理由は簡単です。光になると光が見えないように、僕ら自身の意識が愛や倫理の源泉力そのものに変身してしまえば、愛や倫理など存在のしようがないからです。ですから愛の実現の出来事は決して感情的なものとしてはやってこないだろうということが言えます。それはむしろ淡々とした知的作業として進められて行くのではないか。僕の個人的な感覚から言わせていただければ、そちらの方がはるかに健全な愛の達成の在り方のような気がします。今までは決して出会うことができなかった自他それぞれの意識が、一度だけ奇跡的に統合される場所——オコツト情報によれば、それが「シリウス」という場所です。
此岸にプレアデス=我があり、彼岸にオリオン=汝があるとして、果たしてその二つを分け隔てている中間地帯であるシリウスとは一体どのような場所のことをいうのか――にわかには受け入れ難い内容かもしれませんが、それは「モノ」である、というのが目下のところのヌース理論の考え方です。
しかし、このシリウスとしての「モノ」は僕らが普通接している「モノ」とはかなり違った存在です。僕らが日常の中で「モノ」と呼んでいるのは、「見ているわたし」と「見られているモノ」が分離したところに存在しているモノです。普通、こうした「モノ」たちは対象や客体と呼ばれており、それを見ている「わたし」とは独立した存在として、「わたし」の外部にあると考えられています。しかし、「わたし」の外部にモノが存在しているのだとすれば、モノの世界は人間の感覚器官とは何ら無関係に正体不明の存在物として漂っていることになり、そこから、人間の感覚機構が拾って来たものだけが、人間に「モノ」として知覚されているということになります。とすれば、人間の知覚に上がってくる以前のモノそのものの世界については、結局のところ、人間には永久に分かり得ないということになってしまいます。つまり、モノそのものの存在自体は超越的なものであるという結論が出てきてしまうわけです。こうした超越者としてのモノのことを哲学者たちは「モノ自体」と呼んできました。
ヌース理論がシリウスと呼んでいるのは、実はこのモノ自体の世界のことを言っています。プレアデス、シリウス、オリオンという宇宙の三位一体構造とは、言い換えれば、「わたし」-「モノ自体」-「あなた」という三位一体構造のことでもあるというわけです。このことは、言い換えれば、モノ自体の秘密を解かなければ、「わたし」が「あなた」の下にたどり着くことなど到底不可能だということを意味しています。スピリチュアルな世界ではいつも感性重視で愛の思想を説いていますが、もし、真の意味での愛の成就があるとするならば、それはモノの中で、モノとして達成される必要があるのではないか、というのがヌース理論からの提言なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: オリオン, トランスフォーマー型ゲシュタルト, プレアデス, 人間型ゲシュタルト