3月 22 2008
時間と別れるための50の方法(3)
ルシファーとしての光は左右方向に横切る光。それは秒速30万Kmとしての光。
ルシフェルとしての光は奥行き方向に存在する光。それもまた秒速30万Kmとしての光。
これら二つの光の違いとは一体何か——。
奥行き、つまり身体にとっての「前」という方向性は左-右でも上-下でもない何か特別な方向性です。僕らの見るという行為はこの「前」という方向性においてしか成立することはありません。現象とは「前」で光として開示している何ものかです。ハイデガーという哲学者は『存在と時間』という著書の中で、「現象」を「自らをそれ自身に則して示すもの」として規定し、存在を現象にもたらすことを現象学の根本課題と見なしていました。存在は、あらゆるものが現出してくるその根拠として先行的に了解されているという意味では、最も自明であり、最も現象の名にふさわしいものですが、「わたし」という自我が出来上がったのちの認識される世界においては、現象は姿を隠し、それは匿名的に機能し隠蔽されてしまいます。時空という名において捉えられる「前」と、それ以前にある「前」とは、その意味で全く違うものとして考える必要があるわけです。
奥行きに左右と同じ幅という概念を与えることによって長さを持たせることは、現象そのものを見えなくさせてしまいます。現象とはいかなる判断をも与えられる以前の裸形の「前」のことであり、この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。前回、奥行き方向とは時空の方向であり、そこには空間的距離とともに時間の経過も含まれていると言いました。とすれば、奥行き方向が一点で同一視されているというこの知覚的現実は、そこにすべての時間的経過をも内包している、ということになります。「わたし」がこの世に生を受けたのがたとえ50年前だとしても、この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。つまり、奥行き方向に存在する光においては、「今、ここ」と宇宙の始源の場所とは同じものとして考える必要があるわけです。僕がいつも「始源(アルケー)」と呼んでいるのはこの薄い皮膜、存在の皮膚としての光のことを言います。
アルケー=光。この覚知に至ることがヌース理論でいう「人間の外面の位置の顕在化」です。今まで人間の意識の営みの中で隠蔽されていたほんとうの主体が姿を現すのです。この奥行きにおいての無限小の厚みの中に、今という永遠が存在している。そして、そこが「わたし」という存在の根本的なプラットフォームになっている。現存在としての人間が位置する場所にはこのような永遠が常にセットになって張りついています。これをクリスチャンならば「我、神とともにここに居ます」と表現することでしょうし、哲学者であれば「不動の大地」と呼ぶことでしょう。こうした思考のもとにおいてのみ、何故に相対論において光速度が絶対的な役割を果たしているのかが分かってきます。物理学が解釈を放棄している4次元不変距離(ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0)の本質的な意味が見えてくるわけです。
目の前で無限小の厚みにまで潰された時空。これが現象の基底としての光の正体であり、その光が持つ速度のもとでは時計の針は止まり、空間は無限小の長さにまでに縮まり、4元ベクトルゼロが出現してきます。つまり、何が言いたいのかというと、一点同一視された奥行き方向としてのこの4次元こそが、アインシュタインが言うところの「無限大の速度としての役割を演じている光」そのものの意味だということです。そして、この永遠が張りついた場所こそが時間の流れ自体を感じ取っているほんとうの主体の位置にほかなりません。要は、ほんとうの主体とは見ているものでも、見られているものでもなく、見ることそのもの、つまり、光だということなのです。このことに人間の意識が気づいたとき、すべての人間は創造の開始者、つまり、アルケーとしてのイエス・キリストへと変身することが可能になります。
コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
永遠の相のもとに現れる形。これがOCOTが「カタチ」と呼ぶ、形本来の形のことです。このことは、幾何学とは本来、永遠という場所性の中においてしか意味を持ち得ないということを物語っています。時空の中でカタチを構成するのは原理的に不可能です。たとえば、僕らが地球と月を結ぶ38万kmの長さの線分をイメージするとしたらどうでしょう。たとえその線分を光速度で追いかけたとしても、時空の中では1.3秒ほどの時間かかってしまうことになります。しかし、実際の意識を確かめてみれば分かる通り、月までの距離を想像するのに時間は必要としません。カタチはその大きさがどのようなものであれ、一瞬で即時に把握されている何かです。また、一瞬で把握されなければカタチという概念自体が意味を持たないものになってしまうことでしょう。正4面体を構成する4つの頂点を認識するとき、それぞれの点の把握にタイムラグがあれば、正四面体というカタチについて何も言えなくなります。ほんとうの主体とは永遠性のことであり、この無時間の主体の位置の連携によって初めて幾何学というものが構成されてくるのです。
オ : 人間の意識はカタチを見る方向に入っています。わたしたちのいうカタチとは見られるものではなく、見ているもののことなのです。
目の前に表れた視野空間上にx軸とy軸の十字架をそっと置くこと。そして、そこで磔刑に処されている光の意味について考えること。さらに言うならば、そこに垂直にイメージ化されている3次元目のz方向の意図について深く思考すること。このz方向としての幅と同一化してしまった空間的奥行きとは、光の身体であるイエスの脇腹に刺されたロンギヌスの槍のことであり、人間の意識をシリウスに接続させることを妨げている深淵のことなのです。この深淵の支配者が時間であり、人間という次元の本性です。
3月 27 2008
時間と別れるための50の方法(4)
●物理学におけるアルケー(ホーキング=ハートルの無境界仮説)
さて、奥行きの4次元としてのアルケーについて語るのは、ここで一旦止めにして、現代宇宙論においてこの「アルケー(宇宙の始まり)」がどのように語られているのかを見てみることにしましょう。現代宇宙論の主流は周知のようにビッグバン理論にあります。ビックバン理論によれば、宇宙は約137億年前に特異点という極微の点的存在から突如、大爆発を起こして誕生し、今尚、膨張し続けていると言われています。しかし、この宇宙の開始点となっている特異点という存在は物理学者たちにとっては甚だ目障りな存在です。特異点というのは、アインシュタインの宇宙方程式から必然的に導き出されてくるものらしいのですが、そこではエネルギー密度や温度が無限大になってしまうのです。そのため、微分方程式が計算不能になってしまい、物理法則がすべて破綻してしまいます。宇宙がどのようにして始まったのか理性で把握したい物理学者にとってはやはり、これはのっぴきならない事態です。
この厄介物の特異点を何とか回避できないかものかと考えたのが、あの車椅子の天才と言われたS・ホーキングです。ホーキングは1983年にJ・ハートルとともにに「無境界仮説」という奇抜な仮説を発表します。無境界仮説は、この実時間の宇宙の開始時に虚時間宇宙(量子重力期とも呼ばれます)の存在というものを考え、ビッグバン以前の宇宙がどういう状態にあったかその有り様を数学的に示したものでした。これは虚時間宇宙を導入すると、相対論的に区別されていた時間と空間の区別が無くなり、特異点自体が消えてしまうからです。
このへんの事情を分りやすく説明すると、おおよそ下のような直観的な図で説明することができます。図1で示したのが膨張宇宙と思って下さい。時間tと共に膨張していく姿をこの図では円錐形で示しています。円錐形の先はつんととんがっていますが、この先端点が特異点と考えましょう。
ここで、時空における時間の項を虚数にすると、数式上、次のようになります。
ローレンツ変換の不変量である4次元距離をsとすると、
s^2= (x^2+y^2+z^2)+(ict)^2
ここで実時間tの代わりに虚時間itを代入すると、
s^2=(x^2+y^2+z^2)+(ic(it))^2
となり、 Sを1と置いて整理すると
x^2+y^2+z^2+ (ct)^2 =1
という式になってしまいます。この式は4次元ユークリッド空間上での原点から1の距離を持つ3次元球面を表す式と何ら変わるところはありません。つまり、時空を表す式に虚時間を代入すると、時間は空間と区別がつかないものになってしまうということです。
この実時間から虚時間への変換(物理学ではウィック回転と呼ばれています)は、4次元方向の計量を反転させることに対応しているとも言えますが、大ざっぱな幾何学的イメージとしては円錐状の時空を球面状に丸めることに対応しています(図2参照)。要は、虚時間の導入によって、4次元の円錐が4次元の球体に変換されてしまうということです。こうした球体状の時空が実時間宇宙の始まりには存在していたのだ、というのがホーキング=ハートルによる無境界仮説の骨子です。
時空が球体状のカタチをしていたとすると、宇宙の始まりは、ちょうど先の尖った鉛筆の芯をボールペンの芯に変えたときのように、円錐の頂点の先が丸い球面状になっていたことを意味します(図3参照のこと)。このような考え方から、ホーキングは宇宙の始源では、始まりも終わりもないようなエンドレスかつシームレスな世界があったのだと言うのです。とすると、このアルケーとしての球面世界は、ビッグバンが起こった場所とビッグクランチの場所が繰り返し相互に繰り返しているような宇宙イメージになってきますし、さらに言えば、この球面上ではどのような対極点も同等なものなので、虚時間宇宙上ではどの場所を取っても、宇宙の始まりであり、終わりでもあることになります。これは仏教で言う「無始無終」の宇宙像ととても似ていますね。時空上のあらゆる場所、つまり、いつでも、どこでも、そこには無始無終の久遠の世界があるということです。
「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとのままという義なり」
「久遠は今に在り、今は即ち久遠なり」
(by 日蓮)
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 3 • Tags: ユークリッド