6月 5 2008
時間と別れるための50の方法(10)
●モノは「点」として見なす必要がある
まず、図1を見て下さい。何の変哲もない球体です。通常、僕らの対象認識ではこうした球体は当然、3次元の立体として見なされます。しかし、ヌースの空間認識は違います。こうしたモノとしての球体は「点」、つまり、0次元として見なすのです。なぜ、モノを点と見なすのか――その理由は、モノの周囲の空間があって初めて3次元空間が成立すると考えるからです。つまり、一般にモノとして捉えられているモノの内部性は3次元空間とは見なさないということです。
モノの内部と外部にどうしてこのような区別を設けるかと言うと、それらは互いに全く違った性質を持った空間だと考えるからです。いや、より正確に言えば、そうした概念を作り上げるべきだと考えているからです。
モノとは何ですか?
人間の意識におけるモノとはモノの内面のことです。
モノにも内面と外面があるということですか?
はい、あります。モノの内面と外面とは、あなたがたがモノの中とモノの外と呼んでいる部分と同じです。
モノの中とモノの外とはどう違うのですか?
人間の意識では、モノの中は見えない世界で、モノの外は見える世界として認識されていると思います。
あなたがいつも「人間の意識は見えない世界に落ち込んでいる」と言ってるのは、人間がモノの中に落ち込んでいるという意味なのですね。
そうです。光がもたらしている精神進化の方向性が人間の意識には見えていないということです。
(OCOTとの対話より)
いつも言ってるように、モノの認識はモノとその背景空間(モノの外部空間でも構いません)の差異、つまり、「象(かたど)り」によって起こっています。「図」と「地」という比較(差異)がなければ、対象を対象として捉えることはできないわけですから、モノの内部を構成している空間とモノの外部を構成している空間には、認識論上、絶対的な差異があると考えなければなりません。しかし、わたしたちは通常、空間概念を尺度によって均質化させてしまっているので、直径10cmあるリンゴの内部性と、同じく直径10cmとしてイメージされる球空間を同じ空間として見なしがちです。世界にはまず空間というだだっぴろい器のようなものがあって、その中をちまちまとモノが運動している——すべての存在者を物質という概念に還元してしまうこのような尺度化の体制、これが人間型ゲシュタルトが仕掛けている客観空間の同一化への催眠術です。この罠を破壊するために用いられるのが「次元観察子」という概念だと思って下さい。次元観察子は人間型ゲシュタルトによって無効にされた空間の中に潜在化している様々な次元の差異を、注意深く区別していくために設けられた概念で、結果的に、この概念を創造していくことがヌース(旋回的知性)の主な目的となっていきます。
『トランスフォーマー型ゲシュタルト・ベーシックプログラム』にも示したように、次元観察子のシステムではモノの内部性はψ1~ψ2と見なされますが、モノの外部の空間はψ3~ψ4領域に相当してきます。つまり、モノの外部空間はほんとうはモノの内部空間に比べて次元が一つ上がっているのです。この一段階の次元の違いは観測者がいるかいないかの違いです。分りやすく図2と図3に示しておきます。
・ψ1~ψ2領域(人間がモノの内部と見ているところ)には観測者がいない。
・ψ3~ψ4領域(人間がモノの外部と見ているところ)には観測者がいる。
これらの図における3次元性の意味の違いを簡単に説明しておきましょう。
前回、お話したように、モノの3次元性は、モノ自身を回転させることによって観測者の視線という一本の線分の中にすべて収めることが可能です。モノを回しても背景空間が回らないのは、観測者が視覚として触れている空間がモノの空間ではなく、背景空間の方とダイレクトに対応させられているからです。試しに、モノを中心にしてモノの周囲を回ってみるといいでしょう。そのときは今度は、モノとともに背景空間の回転も起こるのが分ります。このとき回転している空間が、僕らが普通、3次元空間と呼んでいる空間なのですから、正確な意味での3次元空間とはモノからその外部に広がりを持たされた3次元性のことを指していることになります。そして、このことは、モノの観測は「空間の3次元」性において初めて可能になる、ということを意味しているわけです。ですから、モノの3次元性のみの空間には観測者は含まれていない――と考える必要があります。モノの内部のかさばりだけでは、その場所を3次元空間と見なすわけにはいかない、のです。
立体としてのモノだけの3次元と、モノの外部に広がっている3次元。次元観察子の概念を作り上げていくためには、まずは、これら両者の差異をしっかりと把握する必要があります。——つづく
6月 6 2008
時間と別れるための50の方法(11)
●人間の意識はモノの中に落ち込んでいる
立体としてのモノだけの3次元性。そして、モノの外部に広がっている空間としての3次元性。これら両者の間には観測者がいるか、いないか、の絶対的差異があるにもかかわらず、人間型ゲシュタルトにはその区別がうまくできていない——この内容についてもう少し具体的に話してみます。
OCOTとの対話のところでも取り上げたように、OCOT情報によれば、人間の意識はモノの中に落ち込んでいるとされます。人間から見てモノの中は決して見えないので、人間は普段、モノの外からモノを見ていると思っているのですが、もし、自分のいる位置をモノの内部概念の延長上に措定しているとすれば、そこはやはりモノの内部と言っていい場所であり、モノの外には出れていないということになります。モノの内部からその外部は決して見ることはできないでしょうから、そうした空間認識で概念化されている場所からは、現実としてのモノを見ることなどできないはずなのです。このように、実際には見えてはいないのに、あたかもそこにモノがあるかのように錯覚している状況を「付帯質の妄映」と呼んでいます。このことは、裏を返せば、現在の人間の意識には実際にモノが見えている空間を概念として正確に把握できていない、ということでもあります。どういうことか説明してみましょう。
『人神』やこのブログでも何度か語ってきたことですが、人間の知性は空間に大きさを与えないと気が済まない性格を持っています。このリンゴの直径は約10cmだとか、東京-博多間は約1.000kmだとか、銀河系の直径は約10万光年だとか、とにかく、外界と呼ばれる世界の有り様を理性の光のもとに露にするために尺度や測度といった度量衡を利用するのが大好きです。しかし、考えればすぐに分ることですが、こうした「大きさ」で定められた秩序が展開している世界は、現実として目に見えている世界ではありません。目に見える世界では(目に見えている世界は射影空間なので)、月の大きさと10円玉の大きさが一致しても何の不思議もありませんし、極端な話、針の穴の中に無数の銀河を入れることだって可能です。ですから、大きさから意識に抽象されてくる、包み込みや包み込まれといった包含関係のイメージというのは、視覚とは実は全く関係ないものであり、それは感覚としては、より身体に密接している触覚に関係が深いものではないかと考えられます。
今回の『アドバンスト・エディション』で、点球次元としてのψ1〜ψ2を触覚に対応させたのも、そのへんが一つの理由になっています(以前は触覚がモノの全体性を一気に把握することができるのでψ3の次元ではないかと考えていました)。実際、モノに触れる感覚というのは、モノの内部性を包んでいる膜の生成のようにも感じ、触覚においては、手触り、かさ張り、といったように、モノの外部の空間性はほとんど意味を持っていないことが分ります。ちなみに、OCOT情報では「触覚とは定質と性質の交差」という内容があり、これはそのまま前次元と現次元との接点を意味します。
ここで次のような状況を想像してみて下さい(下図参照)。
目の前に直径10cmのリンゴがあるとしましょう。今、そのリンゴをイメージの中でどんどん膨らませていってみる。すると、その直径が5mぐらいに膨らめば、リンゴを見ていた「わたし」はその架空のリンゴの内部に入り込んだことになります。これは概念としてはやはりモノの中です。
何が言いたいのかと言うと、『人神』にも書いたように、本来、長さという概念は、モノの幅や、モノの高さといったモノの端と端の間に生まれているモノの内部概念に依拠して派生してきたものではなかったのか、ということです。これは、言い換えれば、長さという概念がモノの外部には出れていない、ということを意味しています。モノの外部に長さを適用することは、もし、モノの内部性と外部性に差異があるとすればカテゴリーエラーとなってしまうわけです。しかし、僕らは普段、平気でモノの外部の空間にもこうした長さの概念を適用させ、天体物理学などに至っては宇宙空間全体をもそうした概念によって覆い尽くしてしまっています。そして、宇宙の外部はどうなっているのだろう?謎だ。とか訝しがっている。。。これはおそらく問いの立て方が間違っています。
『アドバンス・エディション』では、こうした思考的暴挙を「漆黒の闇が光を片っ端から食い尽くしていっている」と形容しました。想像力をちょっと逞しくしてイメージしてみて下さい。モノの内部にある正体不明の真っ黒なコールタールのような空間が、人知れずこっそりとモノの外部へと染み出してきて、「わたし」を食らい込み、無数の「わたし」を食らい込み、地球を食らい込み、そして、宇宙全体までをも食らい込んでいる。この食らい込みの結果、世界はすべて数値化されたデータに置き換えられ、挙げ句の果てに、そのデータを今度はコンビュータという一個のモノの中で映像化させ、さらに、今度は、ネットゲームに明け暮れる人など、その空間の中で暮らそうとしている意識まで出てきている。。。
ヴァーチャル・リアリティーとは何ですか。
人間の意識が持った進化の方向性が全く逆方向に反転したもの。モノの中のモノ(付帯質の妄映)が神となったモノの中のモノの中のモノの世界です。(シリウスファイル)
僕らにはすべてが同一の空間で起こっているように見えていたとしても、観察子の概念が形成されてくると、空間は無限の次元が重畳した差異の構造体のように見えてきます。未だ格闘中ではありますが、その構造体を人間の知性に浮上させるのがヌース理論の目的であり、その構造体を形成する概念力が僕が変換人型ゲシュタルトと呼んでいるもののことなのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: 人間型ゲシュタルト, 人類が神を見る日, 付帯質