7月 14 2008
時間と別れるための50の方法(19)
●4次元と垂子
さて、ここで思い出して欲しいのが、前々回紹介したシリウスファイルの内容です。
「モノから広がっている3次元の方向性はシリウスでは何と呼ぶのですか?」
「垂子(スイシ)です。垂子とは線です。」
僕自身、この情報を受け取ったばかりの頃は、OCOTが何を伝えたいのか皆目、見当もつきませんでした。しかし、あれこれと考え続けるうちに、この「垂子(スイシ)」という概念が4次元方向の軸そのもののことを語っているのではないか、という見当がついてきました。「スイシ」という言葉は単に音声で伝えてられてきたものだったのですが、この言葉に「3次元に”垂”直に交わる観察子」という意味で「垂子」という漢字を当てたのも、「スイシ」が僕らにとっての4次元の方向を意味する概念ではないかと直感したからです。
どうやら4次元の方向の「軸」は、僕らの空間認識ではモノから広がる3次元の「球空間」そのものとして入り込んできている………このように考え出すと、今までお話してきた、ψ3とψ4という互いに反転した3次元の球空間が4次元世界を構成するための第4の軸と深い関係を持っているのではないかということが予想されてきます。そこで、このイメージをより強固なものとしていくために、ψ3~ψ4が形作る3次元の二つの球空間の関係を、他者側からのψ*3〜ψ*4も考慮した上で、次元を一つ落とした形で比喩的に表して見ることにします(下図1参照)。
この図1では例によって3次元空間が平面で表されています。4次元方向の軸はこの平面に直交する一本の線として表わすことができますが、このとき、ψ3〜ψ*3が形作る3次元の球空間は原点0で互いに接する二つの小さな3次元球面P、P*として描かれています。球面P、P*はともに4次元方向の半径 i t(- i t)がゼロにまで潰されたものなので、原点0そのものと言い換えてもいいのですが、ここには相互反転関係における外面と外面*という差異が存在しているわけですから、その4次元球体の半径が無限小の長さを持つという意味でΔw、−Δwとして示しています。これらψ3〜ψ*3の方では3次元空間が球面上に丸められともに無限遠方が一点∞と∞*で同一視されているのが分ります。当然のことながら、相互反転した3次元空間上の無限遠を意味するこの2点は4次元軸上にあります。
一方、ψ4〜ψ*4それぞれの球空間は二つのラッパ帽のような曲面(3次元双曲面)として表されています。この形は以下のような数学からの要請です。
x^2+y^2+z^2+w^2=1………これは3次元球面の方程式です
x^2+y^2+z^2−w^2=1………これは3次元双曲面の方程式です
この双曲面を広げていく4次元方向の軸は図にある通り時間tに対応しており、自他における時間の方向は同じですからここではともにtにしています(時間の符号が自他側で変わらないというところが時空がψ4とψ*4の同一化によって生まれているということの意味でもあります)。
このように4次元軸上には軸自体の反転によって、3次元空間を相異なる2種類のカタチで表す方向性が存在しているわけです。ヌース理論ではψ3〜ψ*3を人間の外面のカタチ、ψ4〜ψ*4側が人間の内面のカタチとして考えます。
このことは『人神/アドバンスト・エディション』でも触れたように、人間の外面のカタチが人間の内面のカタチである時空(3次元双曲面)上の一点に小さく丸められて貼付けられていることを意味します。以前この論考で「ψ3は一体どこに行ったのか?」という問いかけをしましたが、この問いかけの答えはここにあります。つまり、人間の外面は時空上のあらゆる原点の中に3次元球面状のモナド(精神=無意識)として映り込んでいるのです。この映り込みが物理学が素粒子の場として記述している内部空間と呼ばれているものとやがて深い関係を持ってくることになります。一言で言えば、内部空間とは無意識化した人間の外面の場の構造体であるということです。このような考え方をもとにして「素粒子空間=人間の無意識構造の場」というヌース理論の重要かつ特異な主張が展開していくことになるわけです。
さて、話を4次元の軸に戻しましょう。上に挙げた図1から、4次元方向の軸は3次元の球空間全体を傘を閉じたときのように一本の線の中に凝縮させている様子がうかがえます。ψ3側とψ4側の違いは、ψ3側が3次元空間の無限遠方を一点で同一視して3次元球面のカタチを半分だけ(多様体としての3次元球面にはまだ成り得てないということ)なぞっているのに対し、ψ4側の方は、3次元空間がそのまま無限に広がって開きっぱなしの状態になっているということが分ります(同様にψ4も多様体としての4次元時空には成り得ていません)。ψ4側で3次元空間が開いてしまった原因は、モノの手前側に自分の顔を想定してまったことです。この想定がなければ視野にはただ無限の深さを持った空間が存在するだけであり、その深みには視野自体を開示させている無時間としての光が存在するだけです。そして、この光の場においては3次元の球空間は一本の線分として見なされなければなりません。これは別の言い方をすれば「この領域に入ったならば今まで球面と見ていたものを点と見なせ」ということです。
球面概念を点概念へと変換する——ヌース理論ではこうした概念操作を「面点変換」と呼びます。次元観察子が上位の観察子へと次元上昇を果たすとき、必ずこの面点変換が起こると考えて下さい。たとえば、ψ1〜ψ2の球空間(モノ)からψ3〜ψ4の球空間(モノの周りの3次元空間)へジャンプしたときのことを思い出してみて下さい。あのとき、モノは回っても背景空間は回っていないという知覚的事実を皆さんは発見したはずです。これは面点変換の考え方を使えば、モノとしての球体がψ3〜ψ4の球空間上では一方向の線分の意味しか持っていないということを意味しているからです。つまり、一個のモノに対する観察の視線はモノのあらゆる見えの空間(ヌースでは表相といいます)を含み持つものとなっていますよ、というわけです。これと同様なことがψ3〜ψ4レベルにおいても起こるのだと考えればいいでしょう。その意味で言えば、ここで起こる第二の面点変換は次の観察子レベルであるψ5〜ψ6領域へとジャンプするための幾何学的な手続きのようなものになっています。この手続きはとても重要です。なぜなら、面点変換によって3次元の球空間を線と見なしたときに、僕らは始めて4次元空間における線の意味に触れることができるからです。3次元空間での線の描像を引きずったままでは4次元は4次元時空としてしか現れることはなく、4次元空間は決して見えてこないのです。
あなたがたが今持っている3次元認識からこの4次元認識への移行は同じ1次元の差であっても、2次元から3次元へ移るのとはかなり大きな違いがあります(『人類が神を見る日/アドバンスト・エディション』第1部p.86)
——つづく
7月 16 2008
時間と別れるための50の方法(20)
●身体空間の奪回に向けて
しかし、頭ごなしに3次元の球空間を一本の線分として見ろ、と言われてもなかなか納得がいかれない方も多いかもしれません。ここはおそらく概念の肉付けがまだ不足しているのです。レクチャーでもつねづね言ってきたように、概念(conception)とは、その語源から言って孕む(conceive)ものでなければなりません。何を孕むのかといえば、それは身体的感覚です。
もちろん数学や幾何学にもそれぞれ固有の概念はありますが、それはあくまでイデアの転倒した姿である理性としての概念であり(精神世界でオリオンの暗黒面と呼ばれているものに当たると思われます)、こうした転倒のロゴスには身体感覚としての受肉が存在していません。
この転倒を再度ひっくり返してイデア本来のイデア、すなわち、ヌース(第一知性)がその知の対象とする創造的なイデアへと変身させるためには、理性(種子=ロゴススペルマ)を感性(母胎=マトリックス)へと着床させる必要があるのです。概念を真のイデア(理念)として孕みたいのであれば、ここはモノから広がる3次元の球空間が文字通り一本の線として見えてくるような感覚的一致を身体感覚の中で構成する必要がでてきます。
モノから広がっているように見える3次元の球空間を一本の線分のように見て取る身体感覚………果たしてそれはどのようなものなのでしょうか。
ここで次のような思考実験をしてみましょう。
今まで、ψ3~ψ4の球空間の在り方を説明するために、皆さんにモノの周りをさんざん回ってもらいました。しかし、ここで、モノの回りを「わたし」が回っているという認識を逆転させて、実は「わたし」の方は不動で、モノを中心とした3次元空間自体の方が回っているのだと考えてみるのです。運動が常に相対的なものであるならば、そう考えても一向に差し支えはないはずです(下図1参照)。
もし、空間側が回っていると考えるなら、ψ3とψ4として構成されてくる球空間は、モノから背景空間に突き抜けていると思われる視線と、モノからわたしの顔面に向けられた想像的な視線の中に構成されているものであり、結局のところ視線とそっくりそのまま一致してくることが分ります。特にモノからその背景へと突き抜けていった視線が形作っているψ3の球空間の方は、今までお話してきたように、その数学的性質から言って時間がない(虚時間)世界だと考えてよいわけですから、ここで起こっている空間の回転という運動の表象がもたらす時間の経過を考慮する必要がありません。20世紀初めのキュビストたちが見出したあの空間のように(ピカソ『泣く女』参照)、ここではモノとしての表象はその周囲のあらゆる方向からの見えを綜合させたかたちで無時間的なモノ、つまり主観的な概念としてのモノとして存在させられています。
そして、このようにして構成された空間にはただ視線という線が存在しているだけです。つまり、このことは身体を起点とした側における空間から見た場合、ψ3におけるモノから広がる3次元の球空間は「視線」と同じものと考えてよいということになります。
一方、ψ4の球空間側の方はモノの手前に眼球という「モノ」を想定させられているので(ψ4が鏡像から派生していたことを思い出しましょう)、「まさにその中でモノが見えるということが可能となっている」実存としての線分(主観線)を、単に3次元空間内部の線(客観線)としてしか見て取ることができません。つまり、ψ4の球空間側ではモノと「わたし」を結んでいる視線が3次元空間内部の線概念と同一化させられてしまっているわけです。モノがモノを見ることなどたぶんできないと考えられるので、こうした空間の中で捉えられた眼球はモノを見ることなどおそらくできないでしょう。
その意味で、モノが見えるということ、言い換えれば、世界が目の前に開示している現象(phenomenon)というのは、それ自体が3次元空間からは完全に差異化した4次元空間で起きている出来事であり、この差異に気づけていない光ならざる認識がその差異自体を時間の経過として感じ取ってしまっているのです。時は流れず、されど流れゆく時。絶えず「今」であるにもかかわらず、瞬間という名の別の今が今の中を点滅する回転計のライトのように流れて行く。このように「人間」とはその不動と動の間に立ち起こっているパラドキシカルな出来事なのです。
ここで、「いつでも今(差異化の起こっている位置)」と「瞬間(3次元との同一化が起こっている位置)」の関係を前回示した図の中で比較してみると、下図2のようになります。
差異化した位置はψ3の球空間が形作る球面を点と見なし、その点は必然的に3次元空間上の無限遠点となり実存的な位置(わたしが世界に「いる」という持続感覚をもたらしているもの)を形成します。一方、3次元空間に同一化した方の位置はψ4の球空間が形作る球面上の一点に固定され、時間の流れの中に投げ込まれた3次元空間上の想像的位置(物質的肉体として「わたし」が「ある」という感覚をもたらしているもの)を形成します。
以上のような考察から次のようなことが言えそうです。
4次元空間における線分とは見ることそのものを構成する実存的視線のことであり、4次元時空における線分とは見られることそのものを構成する想像的視線のことである。そして、前者は光そのもののことであり、後者は光のかけらのことである。光のかけらを拾い集めて光を作り、そして、今度は光を束ねて、光の幹を作り、そこで伸びゆく光の樹木を天上の太陽にまで育て上げること。
ヌース理論が目指す次元観察子の創成は、その意味では、古代におけるグノーシス者たちの身振りとも言ってよいものなのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: オリオン, グノーシス, ロゴス, 無限遠