7月 29 2008
時間と別れるための50の方法(23)
●生ける光と死せる光
周囲に知覚されている事物をベルクソンのいう「イマージュ」として捉え直し、改めて見つめていると、おのおのの事物がそれ自身の過去を背後にたなびかせながら、それを見ている主体と一緒に存在し続けているような、そんな感覚が芽生えてきます。空間が過去を含み持って厚みを増してくるようなこないような、何やらそんな感じです。
このように、ベルクソンによれば、過去は過ぎ去った現在の知覚などでは決してなく、現在=知覚(ベルクソンは純粋知覚と呼びます)の背後に付き添う記憶とともに存在しつづけているものなのです。ですから、そこで生起している知覚は、もはや以前のような瞬間の切り取りとしての知覚ではなく、数々の記憶に支えられたイマージュとしての知覚でしかあり得ません。このように純粋知覚から記憶へと移行することで、物質という概念を破棄し、精神へと向かうことがベルクソン哲学のまさにキモと言っていいのですが、ここにヌース的な分析を施した場合、こうしたイマージュとしての知覚を一体どこに想定すればよいのか、その場所性が問題になってきます。
ベルクソンは、この問題については直観で捉えるしかなく、空間化された時間のように、持続が根づいている場所を(構造として)幾何学的に表現することは不可能だと言っているのですが、一方で、下図1のような円錐モデルを用いて、持続の具体的な振る舞い方を比喩的に説明してもいます。この円錐はヌースの観点から見てもかなり興味を引くものなので、ちょっと紹介しておきます。
ここに描かれている円錐の全体性SABが記憶に蓄えられたイマージュの全体を意味します。頂点Sが現在、すなわち純粋知覚の場です。ベルクソンによればこれは身体のイマージュです。身体は常に現在とともにあり、僕らの行動の起点となりますが、これは分るように常にingの世界です。ベルクソンは、この現在としての身体と密接に結びついているのが感覚-運動のシステムだとし、その場所を平面Pとして表します。つまり、想起によって引っ張り出されてくる記憶と、運動や行動の習慣化によって獲得されている身体的記憶を区別して考えているわけです。実際に通学路を思い出しながら歩いている人はいませんよね。ベルクソンの言う通り、確かに習慣はつねに現在に根を張っているという言い方ができます。
一方、通常の記憶の場所は円錐SABの様々な断面として表されます。時間の流れは頂点Sが平面Pとつねに接しながら、平面Pを押すように円錐自体を成長させてくのに対応し、新たな過去をA’B’、A”B”というように生産し続けていきます。現在は想起によって記憶を引っぱり出して、そのときどきの精神水準を作り出してくるわけですが、ベルクソンによれば、意識はつねにこの円錐内部を反復しており、その反復によって記憶が現在にもたらされるとしています。つまり、意識は精神の内部において常に現在と過去との間を振動しているというわけです。この振動の状態が「持続」と考えてよいでしょう。
とまぁ、ざっと、ベルクソンの円錐モデルの説明をしましたが、その他、意識状態についてのいろいろなことがこの円錐モデルを通して説明できるのですが、興味がある人はベルクソンの『物質と記憶』を読んで下さい。というところで、話を本題に戻します。こうした持続空間が一体どこにあるのか、という問題です。
気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが、ベルクソンが何気に出してきたこの持続円錐は相対論に登場するミンコフスキーの光円錐ととても似ています。もちろん、光円錐の方は単に時間と空間の関係をその高さと底面の広がりに取って、両者の関係性をあくまでも物理的に把握するために作り出された幾何学的モデルであって、そこにベルクソンが語るような持続の意味づけは一切ありません。しかし、ヌース理論が説く人間の内面、外面という概念を念頭に置いて、この光円錐自体を反転させてみたらどうなるでしょうか(下図2参照)。
そこには虚時間における光円錐とも呼んでいいものが現れますが、おそらく、この光円錐がベルクソンの持続円錐の意味を持っているのではないかと考えられるのです(ヌース的には円錐というよりも球体となる)。その理由は今までこの拙論でお話してきた下記のような理由からです。
1、人間の外面は知覚そのものが生起している場所であり、数学的には射影空間として考えられること。
2、人間の外面では奥行きという方向性が一点に潰されており、潰された奥行きは光速度状態と称してもいいような過去ー現在を全て含み持った薄膜として視野空間上に存在させられているということ。
3、この薄膜はモノの見えとその背後の空間をすべてを含み持っており、記憶はその薄膜の厚みの中に重層的に存在させられていると考えられること。
4、この記憶の重なりがポンティの言う見るものとしての主体の息づきとして考えられること。
5、この薄膜の厚みは、物理学的には虚時間とよばれる4次元空間の方向の微小長さの軸によって支えられていると考えられること。
こうしたヌース理論の予想が正鵠を得ているのかどうかはまだ分りません。しかし、とりあえずは、目の前のモノから広がっている空間を、4次元の軸(視線)の相互反転関係を用いて人間の外面と内面という二つの領域に分離させ、それぞれに「持続空間」と「均質時空」の意味を付与することは、ベルクソンの主張を簡潔な形で整理する上で極めて有効な手法となります。一方に持続を保持した記憶が活動する分割不能な空間があり(人間の外面)、方や他方に時間の流れにおける現在を一瞬、一瞬の点のように分割し、それらをパラパラめくりの動画のようにして概念化して整理している空間がある(人間の内面)。前者は物質がまさに記憶として存在する、それこそベルクソンが言うところの精神の住処にふさわしい場所となり、後者は僕らにおなじみの時空となります。
こうして物質的身体=主体という人間型ゲシュタルトが提供する頑な意識感覚は弱められ、人間の外面と人間の内面という概念のもと、世界自体が世界自身を主体的側面と客体的側面に「対化」として分離させているというトランスフォーマーが所持する世界概念の基礎を形作ることができてくるわけです。
7月 30 2008
時間と別れるための50の方法(24)
●位置の交換という概念
――一つの対象(客体)に対して、主体として感覚化されている位置を、対象の手前に存在していると思われる肉体側の位置側から、対象の背後に見えている背景面側へと移し替え、さらに、そこに見えている背景面を、そのまま対象の中心部へと遷移させること。これを「位置の交換」という。(『人神/アドバンスト・エディション』p.389)
OCOT情報では、人間の最終構成が始まると、主体概念と客体概念の逆転が自然に起こってくると伝えてきています。この逆転のことをヌース理論では「位置の交換」と言いますが、その内容はまさに、ベルクソンが主張していた、観察されているイマージュとしての客体(その対象が対象足り得るための記憶のたなびきを含むということ)の中に主体を見るということに他なりません。大ざっぱな言い方をすれば、「わたし=主体とは実は見られているものの方だった」ということを意味します。
前回のベルクソンのところでも話しましたが、「位置の交換」という作業が持つ意味は、「意識がここにこうして生起している」という出来事を、従来の考え方のように自分の体内(脳内)で起こっている観念作用の連鎖物のように捉えず、目の前の自然という開かれた場所そのものへと遷移させる、ということと同意です。ただ、このとき注意しなければならないのは、この自然という存在を、従来の時間・空間的な意味での「外部」環境のように見なしてはならないということです。この生起の場所とは持続=記憶を所持した「わたし」が浸透している世界なわけですから、むしろ、従来の言い方をすれば、わたしの内部として息づいているような場所になります。つまり、人間の外面(知覚が起こっている場所)という空間とは身体の内部世界という言い方もできるのです。それが外部のように見えてしまうのは、人間の意識が人間の内面空間の方に偏ってフォーカスさせられているからにすぎません。
対象の背後と手前をそれぞれ半径に持つ互いに反転した二つの球空間、次元観察子ψ3とψ4。さて、もしこのような空間の二分割が精神と物質の分水嶺足りうるものだとすれば、人間の外面=ψ3は人間の内面にとっては、極めて微小な空間領域の中に映り込んでいるということになります。モノの背後の空間はモノの手前の空間の中に小さく縮められて半径無限小の小さな球体となって入り込んでいる。すなわち、これは哲学が「内包(ないほう)」と呼んできた概念にほかなりません。
時空という名の延長空間上のあらゆる位置にきら星のごとく散りばめられた〈未分割の広がり〉の内包としての知覚空間。ここに今まで紹介してきたようなベルクソンの思考を重ね合わせれば、それはまさしくライプニッツが「モナド(単子)」と呼んだ概念に酷似してきます。
モナドとは世界を作っている最小単位のようなものです。しかし、これはデモクリトスが唱えたようなアトム(原子)のことではありません。アトムは物質の最小単位としての概念ですが、モナドとはライプニッツによれば、精神のことです。ですから、モナドには認識能力があります。そして、モナドはそれぞれが世界の中心でもあり、全体を表象する能力を持ち、なおかつ部分とも成り得るような代物です。仏教の言葉で言えば「一即多」「相移即入」なる帝網(たいもう)の目、今風の言葉で言えば部分が全体を含むホログラフィックな存在です。
一人、時空の魔術師となって、
星空の下に立ってみよう。
手のひらの上には小さなピンボールが一つ。
その表面には星々のすべてが映り込み、
今か,今かと、
反転のときを待っている。
次元観察子ψ3の球空間のイメージは、ちょうどこのピンボールの表面が裏返しになったようなイメージです。モノの背後にある時空間の広がりは光速度によってその限界にまで縮められ、人間の内面においては、そのモノの中心点と見なされるところへとそっと人知れず入り込んでいる。そんなイメージです(下図1参照のこと)。
しかし、ここはもはや単なるモノの中心点ではなく、今までの話でも分かるように、そのモノの存在の知覚が起きている場所のことでもあり、「わたし」自身と言い換えてもいいようなところになります。こうしたモナド化した「わたし」自身のことをOCOTは「最小精神」と呼んでいますが、これはヌース的に言えば、覚醒した小さな小さな主体の赤ちゃんです。
最小精神は顕在化における最初の位置となります。(シリウスファイル)
こうした一連のイメージを持って、周囲のモノを一つ一つ見つめてみるといいでしょう。そうすると、その見つめているモノの中心に見つめている「わたし」が息づいている感覚が多少なりとも現れてくるはずです。。。ん? 現れてこなかったらゴメンナサイ。
――われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。(ベルクソン『思想と動くもの』)
まだまだ続くよ。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 2 • Tags: イマージュ, ベルクソン, モナド, ライプニッツ, 人間の最終構成, 人類が神を見る日, 位置の交換, 内面と外面