8月 1 2008
時間と別れるための50の方法(25)
●対化という概念について
球空間という理想的な3次元空間のイメージを反転という操作によって二つに分割し、一方を主体空間(ψ3)、他方を客体空間(ψ4)として見なすように意識づけすること。そのとき、主体空間の方は極小世界にまで縮められ、従来の空間認識上では客体空間(ψ4)の原点のようなものとして現れる――ずいぶんと長い説明を要してしまいましたが、結局のところ、反転した空間ビジョンを作り出し、今まで時空の中で囚われの身となっていた物質的肉体という旧い主体概念とオサラバしましょ、ということが言いたかったわけですね。対象の中に真の主体がいる、というのはすでに哲学や神秘主義が言っていることですから、問題は、この跳躍のあとに、そこから一体何が見えてくるのか、ということです。
ヌース理論では、この「位置の交換(ψ3の顕在化)」に続いて、「位置の等化(ψ5の顕在化)」「位置の変換(ψ7の顕在化)」「位置の等換(ψ9の顕在化)」というように、無意識のカタチを暴き出して行くための意識のトランスフォーメーション作業が次々と登場してきます。これはニューエイジ的な意味で言えば、意識を4次元以上の高次元世界へとアセンションさせていくのと同じ意味を持っているのではないかと考えられます。次元上昇です。しかし、これらの作業は一人で行なってもおそらく何の力も生み出しません。ヌースでいう次元観察子の顕在化とは別の言い方をすれば新しい宇宙の創造のことです。アドバンスト・エディションにも書いたように創造者は双子ですから、ソロでの覚醒はあり得ないと思った方が無難でしょう。宇宙におけるすべての現象は「対化」としてしか成立し得ない。これがヌースの鉄則だと思って下さい。そのため、ヌース理論ではほぼ理論の全域に渡ってこの「対化」という概念が通奏低音のように鳴り響いていくことになります。
対化とは文字通り「対に化ける」という意味なのですが、これは単に観念としての「二分化」を意味するわけではありません。観察子の概念の使用にこなれてくると、この対化という概念の本質が、僕らが「わたし」と「あなた」と呼んでいるものの関係そのものの意味を持っていることが分かってきます。僕がいつも「永遠の汝と我」と呼んでいるものです。単に「汝と我」でもよさそうなものなのに、なんで「永遠の」などといったごたいそうな形容詞がついているのかというと、この対化が永遠に存続し続けているものだと考えているからです。つまり、宇宙は物質と精神という二元性よりも、自己と他者という二元性の方がはるかに深い起源を持っているということです。
通常、人間型ゲシュタルトでは「わたし」と「あなた」の関係は、たまたま地球上で進化してきたホモ・サピエンスという種の中の任意の二つの個体にすぎないという見方しかされません。こうした「二」は世界に数十億、人間がいる中のある特殊な「二」にすぎず、一般性の中においてはいくらでも代用が利くものです。しかし、世界というものはいつ何どきでも「わたし」を中心に展開しているのであり、そのときの「わたし」とはここにいるかけがえのないこの「わたし」であって、他の誰かと決して代用が利くものではありません。哲学では、こうした取り替え不能な「わたし」のことを単独性と言って、任意の個体としての特殊性とは区別します。
さて、この「わたし」が単独性であれば、当然、「わたし」と向かい合っている「あなた」もまた、別の単独性を持っていることが予想されます。こうして二人の単独者としての「わたし」と「あなた」が登場してくるわけですが、このときの「二」なる関係がヌース理論が言うところの対化の本質だと考えて下さい。詰まるところ、ヌース理論とは自己-他者の関係論でもあるということです。
通常、他者という存在は「死」と同じで「わたし」にとっては決して伺い知ることのできない絶対的な外部です。しかし、OCOT情報では、潜在化の時間感覚にして約1万3000年に一度だけ、この彼岸への交通路が開かれ、自己-他者の相互入れ替えが行なわれると伝えてきています。その交差の場所がシリウスと呼ばれる領域であり、この入れ替えが『人神』にも登場した「次元の交替化」と呼ばれる出来事なのです。
対化は当然のことながら二重化して、わたしから見た「わたし」と「あなた」、あなたから見た「わたし」と「あなた」というように4値の関係を作り出してきます。一般性から見ると「2」の関係だったものが、単独性によって「4」が織りなす関係に変貌するわけです。そして、この4値関係が持つ構造のことをヌースでは「双対性(そうついせい)」と呼びます。文字通り、対が双つあるという意味です。
この双対性という概念はヌース理論にとっては極めて重要なものです。極端な話、ヌース的文脈から言えば、この双対性のシステムが宇宙におけるすべての現象をコントロールしていると言っても過言ではありません。太極図の意匠となっている「陽の中の陰、陰の中の陽」の形が示すように、ヌース理論に登場するすべての概念もまたこの双対性のシステムによって貫かれています。
この双対性を最もシンプルな形で表して見ることにしましょう。すると。それは上図1に示したように十字の形を執ります。そして、この十字形の4つの端点を直線で結ぶと、正方形とその対角線を組み合わせたような形になります。この形のことをOCOT情報は「核心(かくしん)」と呼んでいます。核心はOCOTが「真実の人間」と呼ぶ神的人間の精神のカタチであり、すべてのものを生み出す観念の源でもあるということです。
では、さっそく、この核心を一つの概念装置と見なして、次元観察子ψ3~ψ4の双対性について考えてみることにしましょう。
――つづく
8月 8 2008
時間と別れるための50の方法(26)
●光子の顕在化と双対性
次元観察子ψ3~ψ4における双対性を作るために、下図1のように「わたし(以下、自己と呼ぶことにします)」から見たモノの背景側に「あなた(以下、他者と呼ぶことにします)」を配置することにします。このとき両者における次元観察子ψ3とψ4がどのような関係を持って構成され、さらにどのような働きを持って機能しているかをこの図を参照しながらじっくりと考えてみることにしまょう。
まず、この図から図式的に見て取れるのは、自己と他者では視野空間上に映し出される射影の方向が全く逆になっているために、ψ3とψ4の球空間の関係も丸ごとひっくり返って構成されているということです。早い話、人間の内面と外面の関係が逆になっているわけですね。これら両者の双対関係を明確にするために、ヌース理論では他者側の次元観察子の記号にψ*(「プサイスター」と読んで下さい。「*」はアスタリクという記号で、元来は数学で複素共役関係を表す記号です)を用いて、ψとは区別して表記します。
このような自他間における相互反転関係の概念をモノを中心として広がる3次元空間に導入することによって、目前の空間が一挙に{ψ3~ψ4, ψ*3~ψ*4,}という双対性による4重構造を持った空間に変質してくることが分ります。実際に、皆さんも次元観察子のψ3とψ4の球空間を構成するための直径部分を確認してみるとよいでしょう。「ψ3」の直径が自己から見た対象の背後方向、ψ4の直径が同じく自己側から見た対象の手前方向(わたしの背後方向も含む)です。他者側においてはそれらの方向性が互いに逆になっているのが分かります。
さて、問題はこれら双対の空間構造が意識の形成とどのような関係を持っているかということです。ここはヌース的世界観に入っていくための最重要基盤となる部分なので、しっかりとイメージを作りながら読み進めて下さい。
OCOT情報によれば、ψ4(モノの手前に想定されている自分の顔やその背後性)はψ3(知覚正面)の「反映」として生じてくる観察子とされます。僕自身、OCOT情報の解読初期の頃は、反映というからには、ψ3が生まれたときに、その反作用のようなものとして自動的に立ち上がってくる空間のようなものとして解釈していました。しかし、しばらくするうちに、ψ4をψ4として反映させているものが別にあるということに気づき出しました。それがψ*3(他者の知覚正面)です。どういうことか説明しましょう。
この図1に即した言い方で言えば、まず、現象としてのψ3=知覚正面があります。そして、そこには他者が映し出されています。そこで、ψ3は今度はその他者の知覚正面=ψ*3側を利用して、そこに映し出されているであろうと思われる他者と類似した形を持つ(わたしの)顔やその背後側=ψ4を、意識の中にイメージ化していきます。本来の主体としてのψ3(知覚正面)は最終的にこのイメージを自分だと思い込み、そのイメージに自己同一化し、結局、本来、ψ3だったものがψ*4に化けてしまい、ψ3自体は無意識化してしまうというわけです。
アドバンスト・エディションではこの辺の事情をラカンの鏡像段階論を用いて説明しました。人間は生まれてきたとき、まずは触覚中心の世界に投げ込まれます。ヌースで言えばこれはまだψ1~ψ2(モノ)の世界です。この時点では意識はまだモノの外部へは出ておらず、モノの界面当たりでまどろんでいます。生まれたての赤ちゃんが母親の乳房にしがみつき、オッパイを呑んでいる姿を想像すればいいでしょう。この段階の意識にとって、世界は心地よい感覚を与えてくれる母体だけで、意識はまだその母体とは切り離されておらずウロボロス的状態にあると考えられます。そこから、徐々に視覚が機能し始め、世界の見えとしての現象世界(phenomenon)が光とともに到来してきます。ようやくここでψ3=知覚正面の次元が活動を開始し始めるわけですが、まだそこにあるのは何の意味づけもないまっさらな原光景の世界です。赤ちゃんで言えば、あばばば、あばばば、やってる頃ですね。しかし、やがてその原光景の中に存在する正体不明の無数の黒い穴(他者の目)から、この無垢なる知覚正面=ψ3は「見つめられる」という経験を受け始めます。以前、無数の目が古代エジプトの父神であるオシリス(os-iris)の語源となっていることをお話したと思いますが、このときに他者の目が果たす役割はそれこそ名付け親ならぬ目付け親としてのGod father(父なる神)と言っていいものです。このように他者の知覚正面=ψ*3とは自己を作り出すための最初の契機となるものなのです。もちろん、このときの他者=God fatherは普通に僕らが他者と呼んでいるものとは区別して考えなければなりません。なぜなら、赤ちゃんの意識には、まだ、世界の中心として感じるような「わたし」は生まれていないのですから、それと相対する「あなた」などと呼べる存在も生まれようがないからです。幼児が「ボク」や「ワタシ」という自覚を持つ以前に存在していたと思われるこうした他者のことをラカンは「大文字の他者」と呼んで、普通の意味での他者とは区別します。つまり、ものごころつく前とついたあとでは、他者はその存在の意味合いを大きく変えてしまうということです。
現象世界に現れている無数の眼差しが何やら一点に焦点化されていることにψ3=知覚正面は気づき始め、自分の居場所とは正反対のところに自我の基礎となる楔(くさび)が打ち込まれていきます。これが自身の顔貌、もしくは身体のイメージです(ラカンはこうした身体の統一イメージを「想像的自我の基盤」と考えます)。同時にこの顔貌は自身に背後があるというイメージも持ち始め、ここにψ4という次元観察子が形成されていくことになります。この鏡像段階を通して、幼児は自分にも目があることを知るようになるわけですが、しかし、ここで想定されている顔貌や目はあくまでもψ*3、つまり、鏡(他者の視野)に映った「わたし」のイメージの範疇にすぎないことがわかります。ψ3がそのイメージと同一化するには、実はもう一度反転が必要です。このとき生じるのがψ*4だと考えて下さい。モノの背後性が「ボクの前」として認識されてきたときのことです。別の言い方をすれば、God father的存在だった他者を通常の他者として見なす最初の眼差しが生まれたとき、という言い方もできるかもしれません。こうして、人間の意識としての「モノ」と「わたし」という認識を規定している空間がそれぞれψ4とψ*4として形成されてくることになります。
このへんの事情をラカンのシェーマLと照応させて下図2で整理しておくことにします。「わたし」や「あなた」という概念が成立するためにこの双対性のシステムがいかに不可欠なものであるかが分ります。ヌース理論はこの構造性をダイレクトに空間自体が持った構造と見なすことによって、精神と物質という二項対立を無効にしようと目論んでいるわけです。ちなみに、このψ3~ψ4、ψ3*~ψ*4は物質の始源としての光子(γ線)ではないかと考えています。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: ラカン, 人類が神を見る日, 内面と外面