8月 23 2008
時間と別れるための50の方法(29)
●プレアデス、シリウス、オリオン
(前回からのつづき)しかし、ここで一つ疑問が出てきます。それは、本来、奇数系の観察子(等化)が先手であるべき精神の営みが、どうして、偶数系(中和)が先手となるような流動性を持ち得るのかという問題です。この問題を解くキーは、実は前々回お話した精神構造が持っている双対性という概念にあると考えられます。話の要点を明確にするために、前回の図1で示したψ13~ψ14の円環モデルに他者側の次元の全体性であるψ*13~ψ*14を円環モデルとして描き足してみることにしましょう(下図1)。
この図を見ても分かるように、双対性が持つ性格によって、自己側と他者側では次元の構成関係が相互に逆転し、奇数系観察子と偶数系観察子が相互に捩じれ合うような関係が生まれているのが分かります。この捩じれ合いによって、自己側にとっての偶数系観察子の流れの全体性を示すψ14の領域には他者側における奇数系*観察子の流れの全体性であるψ*13が、同様にψ13の背後にはψ*14という他者側の偶数系観察子群が覆いかぶさるようにして作用している様子が見て取れます。
ヌース理論ではこのときのψ*13の流れのことを「反定質の総体」と呼び、同じくψ*14の流れのことを「反性質の総体」と呼びます。反定質は人間の意識を物質的なものに向かわせ、反性質は精神的なものに向かわせています。
反定質の総体とは単純に考えれば他者側の定質総体と言ってよいものなのですが、それはあくまで、他者側から見た場合であり、自己側から見ると観察精神であるψ13の先に存在するもう一つの観察精神(ψ*13)のような意味合いを帯びています。つまり、自己側から見たψ*13はあたかもψ13とψ14の対関係を等化に持っていっているより上位の精神として、ある意味ψ15と呼んでもいいような役割を果たしているわけです。OCOT情報はこのような精神の役割を「次元の等化」という言葉で伝えてきています。
次元の等化におけるψ*13のψ14に対する交差の意味を「人間の内面の意識の流れを作り出している当のもの」と解釈すると次元観察子全体の運動に論理的な整合性を与えることが可能になってきます。つまり、ψ14の流れは自らは能動的に動く力を持っていないわけですから、ψ*13のψ14に対する働きかけが、ψ14の内部性であるψ2→ψ4→ψ6→ψ8→ψ10→ψ12→ψ14を動かしていっている本因力となっているのではないかと考えるわけです。逆側も同様です。人間の外面の意識の流れであるψ13は人間の内面側の意識が先手を取ることによって、ある意味、その能動力を去勢されているわけですから、ψ*13の反映として生まれてくるψ*14のψ13への交差力が、今度は逆にψ1→ψ3→ψ5→ψ7→ψ9→ψ11→ψ13という人間の外面の意識の流れを生み出してくると考えればよいでしょう。いずれにしろ、人間の内面と外面の意識は、次元等化の作用がその背景で暗躍していることによって営まれている、ということになります。
次元観察子が持つこのような構造上の秩序が見えてくることによって、なぜ人間の意識においては赤の矢印で示されている人間の内面の意識が先手を取って形作られているのかが少なくとも図式的には理解することができてくるわけです。
こうして、次元観察子の全体性が持つ双対性によって、その内部を流れる力の流動性には次のような三つの局面があることが分かってきます(下図2参照)。
1、偶数系の観察子が先手、奇数系の観察子が後手で動かされている局面
2、奇数系の観察子が先手、偶数系の観察子が後手で動いている局面
3、奇数系*の観察子が先手、偶数系*の観察子が後手となって「1」を動かしている局面
現時点でのヌース理論では、これら三つの領域がそれぞれOCOT情報が伝えて来ているプレアデス(人間の内面と外面の意識)、シリウス(ヒトの内面、外面の意識)、オリオン(真実の人間の内面と外面の意識)ではないかと考えています。キリスト教神学的に言えば、これは、子-聖霊-父の三位一体構造の具体的構成に当たります。
——つづく
8月 25 2008
『ファウンテン 永遠につづく愛』
『π』や『レクイエム・フォー・ドリームス』で一部に熱狂的なファンを持つ奇才ダレン・アロノフスキー。彼の新作『ファウンテン』を昨日、近所のTSUTAYAでゲット。さっそく鑑賞させてもらった。
映画の冒頭、いきなりエデンの園に存在していたと言われる知識の樹と生命の樹の話が引用される。期待を膨らませつつ見入ったが、前半、物語構成が凝りすぎてちょっと……とは思ったが、エンディング・ロールのところでは目頭が熱くなっている自分に気づいた。納得。納得。ありがとうダレン。こんな映画を作ってくれて。一般受けはまずしないだろうが、素晴らしい作品だった。このブログを読んでくれている人なら、見て損はナシ。特に後半に畳み掛けてくる意識の覚醒?のシーンの連続は息を呑むほどの美しさなので、ビジュアル面だけでも十分に楽しめると思う。
さて、物語の内容だが、サブタイトルに「永遠につづく愛」と書いてあるように、輪廻転生しても永遠に愛し合う男女のお話、と言いたいところだけど、これは間違っても男女間の性愛の物語ではないので、そのへんを期待して観ると完全に肩すかしを食らうので注意すること。これは愛の物語というよりも、かの『ヘドウィッグ アンド アングリーインチ』と同じく、”愛の起源”についての物語だと言っていい。”グノーシス的人生”のセンスがないと理解は難しい。
かつてアダムとイブはエデンと呼ばれる楽園にいた。しかし、イブが悪魔にそそのかされ禁断の果実を食べてしまう。このままでは生命の樹の果実まで食べられてしまうと思った神は、アダムとイブを楽園から追放してしまう。禁断の木の実とは知識の樹になっていた果実、すなわち理性のことだ。それによってアダムとイブは互いの性を男と女として意識し合うようになり、楽園での一体性を失ってしまう。愛の起源はこの伝説の中では生命の樹として象徴されている。
映画のストーリー自体は現在を軸として、過去と未来の三つの時系列が複雑に絡み合う構成からなっている。愛し合う夫婦であるトミー(ヒュー・ジャックマン)とイジー(レイチェル・ワイズ)。イジーは脳腫瘍に冒され、余命は幾ばくもない。それを必至に救おうとする医者であるトミー。二人は永遠の愛を誓い合うが、お互いその永遠観がまるで違うためにいつもすれ違いばかりしている。イジーは死んでも魂は残ると信じ、二人の今を大切に生きようと考えている。一方、トミーの方は何とかイジーを死なせまいと新薬の開発に没頭し、残り少ない命のイジーをかまってやる時間がない。こうした二人の永遠観の違いの象徴となっているのが冒頭に登場した『生命の樹』だ。トミーはグアテマラに生息していると言われる実際の植物としての「生命の樹」からイジーの脳腫瘍を治癒させるための薬を抽出しようと実験に懸命だ。イジーの方は古代マヤのシバルバ(黄泉の国)伝説をもとに「ファウンテン(生命の泉)」という小説を書き上げようとしている。この小説の章立ては全部で12章。しかし、最後の一章がまだ書けていない。それを自分の死んだ後にトミーに完成させてほしいと願っているのだ。
そして、イジーが書いたこの「ファウンテン」という小説の中の物語が、この映画の過去の時系列に当たる部分になっている。舞台は16世紀のスペイン。ダレンが輪廻転生を意図したのかどうかは分らないが、ここで、イジーとトミーはスペイン女王のイザベラとその忠実な家臣である騎士トーマスとなって現れる。イザベラはトーマスに国家存続のために中米マヤに存在すると言われる「生命の樹」を持ち帰ってきて欲しいと依頼する。イザベラとスペインを愛する騎士トーマスは使命を全うするため、幾多の犠牲を払いながらも、最後にその伝説の樹の場所へと到達するのだが。。。。
さて、残りの未来の時系列のシークエンスの方だが、こちらはかなりぶっとんでいる。設定では数百年後の未来。場所は宇宙空間だ。そこでトミーは宇宙飛行士のトムに姿を変えている。トムが搭乗している宇宙船が向かっているのはオリオン座三ツ星のすぐ下にある恒星シバルバだ。例のイジーが書いた小説のヒントとなった星である。トムがトミーの生まれ変わった姿なのかどうかは定かではない。しかし、やはり、この宇宙船の中にもイジーの「(小説を)完成させて……」という言葉が響いている。水晶玉の中に日々枯れ果てていく樹木を宿したような意匠のかなりシュールな宇宙船。この宇宙船がシバルバを目指しているのであれば、見方によっては、トミーの死後の魂の姿と見て取れないこともない。。
ネタバレになるのでこれ以上の詳細は書かないが、個人的にはダレンに★★★★★を上げたい。よくぞ、生命の樹をテーマにした作品を作り上げたものだ!!拍手喝采である。構成が複雑になりすぎてうまくまとまっていない面もあるが、そんなことはさておいて、やはり後半の映像の畳み掛けは『レクイエム・フォー・ドリームス』で見せたダレン・ビートの面目躍如だ。素晴らしい。クロノス・カルテットの音楽も例によってよくマッチしていたし、そして、何よりもブラボーなのは、ダレンが「生命の樹」の何たるかのビジョンをしかと持っているように思えることだ——ベッドで眠っているときのイジーの可憐なうなじ。雪の塊を投げつけるときのイジーの無邪気な笑顔。シバルバについて語るときのイジーの瞳の輝き。永遠の生命とはそうした日常のありきたりの風景の中にこそ顔を覗かせる。そのアウラを感じ取る感性。これはひょっとしてダレンのレイチェル・ワイズに捧げるブライベート・ムービーかも(笑)。
蛇足ながら、この映画を見てみようと思った人はどうか次のようなことをイメージしながらDVDのスタートボタンを押して欲しい。そうすれば、ダレンがこの作品で伝えたかったことがはっきりと分るはず。。
——君の大切な人が突然、明日、交通事故で死んでしまうとしよう。君は涙に明け暮れ、彼女(彼)と過ごした日々を何度も思い出しては、どうしてあのときあんな顔をしてしまったのか、あそこでどうして優しい言葉の一つも掛けてやれなかったのかと悔やみ続けることだろう。そんな悔悛を機械的に繰り返す前に、今日、今現在の彼女(彼)がすでに死者なのだと思ってみてはどうだろう。いや、彼女(彼)だけではなく、自分もすでに死後の世界にいる魂だと考えてみたらどうか。つまり、未来の視点から現在を見てみるのだ。そうすれば現在はすべて回想の世界として存在していることが分かり、君は悔悛を悪戯に繰り返すこともなく、すべてに優しくなれるのだ。そのような「現在」をこの現在に再生させること。そこから溢れ出てくる他者への想いこそが生命の樹の樹液だと言っていい。この映画はそれを見事に描いてくれている。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 5 • Tags: オリオン, グノーシス