8月 27 2008
時間と別れるための50の方法(30)
「生命の樹」とヌース理論の関係性(1)
さて、『ファウンテン 永遠につづく愛』の紹介に「生命の樹」の話が出たところで、ちょっと寄り道をして、前々回の記事(28)で示したプレアデス、シリウス、オリオンの三位一体の構成とユダヤの神秘思想であるカバラに登場する「生命の樹」との関係をごく簡単にお話しておこうと思います。
ユダヤ神秘主義が持っているカバラという思想は何か意味があるのですか。
はい、それはわたしたちと同じ方向性を持ったものです(シリウスファイル)
レクチャーでも観察子構造とカバラの「生命の樹」の酷似性は何度か紹介してきましたが、『人神/アドバンスト・エディション』にも書いたように、観察子の構成とその運動秩序を辛抱強く追いかけていると、カバリストたちが「生命の樹」を通じて思索してきた霊的運動の体系と驚くほど似ていることが分ってきます。その意味で、神秘学的なアプローチを通してヌース理論に興味を抱いている人がもしいらっしゃるなら、生命の樹を媒介にして観察子概念の理解を深めていくといいかもしれません。おそらくカバリストたちがその象徴体系のもとに伝承してきたことがより具体性を持って見えてくることでしょう。
現在、一般的にカバリストたちに用いられている「生命の樹」の基礎的教義自体は、13世紀にまとめられたカバラの聖典である『ゾハールの書』をもとに、16世紀頃にモーゼス・コルベドロやイサク・ルーリアらの手によって整えられたと言われています。僕がヌース理論に最も親近性を感じるのはこのイサク・ルーリアの思想です。ルーリアは同時代のカバラの大家であるコルベドロの思想などに影響を受けながら自身のゾハール研究を進め、セフィロトのモデルに創造の四段階説(アツィルト・ベリアー・イェッツェラー・アッシャー)などを取り込み、近代カバラの原型を完成させたとされる人物です。ルーリア・カバラの中で特に重要視されるのは次の三つの考え方です。
1、「ツィムツーム(神の自己収縮)」
2、「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」
3、「ティックーン(容器の修復)」
ツィムツームとは神の、自己自身の内への収縮、もしくは退却と言われます。これは神が宇宙を創造するに当たって、自らの無限性という本質を「収縮」させた形でその場所を用意したのだ、とする概念です。人間が現在、宇宙と呼んでいるもを神の創造の場と考えるのであれば、この宇宙自身がツィムツームの姿だということになります。神の本来の身体性からすればこの宇宙はそのごくごく一部でしかないわけです。
「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」とは、神の属性と言われる10個のセフィロト(霊的次元を表す器のようなもの)のうち7個が粉々に砕かれ消失してしまうことを言います。器が壊れた原因は原初の人間であったアダム・カドモンの両眼から放たれた神的閃光があまりに目映いものであったため、その閃光を受け入れられるのは上位の3つのセフィロト(ケテル・ビナー・コクマー)に限られ、下位の七個はその強烈な光によって飛散させられてしまったというものです。
本来、自分自身の属性を用いて被造物を創造した神が、その属性を破壊してしまったとするならば、被造物の方は永遠に自らの由来を知ることができずに彷徨うことになってしまいます。これは逆に言えば、神が被造物の居場所を見失ってしまったことと同意であり、神の救済を約束されたものとするユダヤ教徒たちにとってはそれこそ一大事です。そこで、ルーリアは「ティックーン(容器の修復)」という神による救済の概念を用意します。
「ティックーン(容器の修復)」とは、ツィムツーム(神の自己収縮)を弁証法的に統合する作用のことを言います。収縮によって有限世界の中に閉じ込められていた神の神聖なる残り火は、ティックーンによって創造の再発火を起こし、破壊されていた7つのセフィロトを修復させていきます。それとともに離散していた人間の魂も神自身の完全なる身体性の中へと回収されていくという考え方です。
このルーリアのストーリーを要約すれば、神は自己否定のもとに被造物の創造を行ない、それによって破壊された自身の身体を、今度は自己責任においてその破片から再復活させる、ということになります。この復活の際に人間の魂の救済が施されるわけです。――つづく
8月 28 2008
時間と別れるための50の方法(31)
「生命の樹」とヌース理論の関係性(2)
ということで、さっそく生命の樹を構成している10個のセフィロトにヌース理論の観察子の番号を割り振ってみます。『人神/アドバンスト・エディション』の脚注欄にも示したように、現時点での解釈では、セフィロトは次元観察子というよりもΩという記号で表される大系観察子という一回り大きな観察子に対応しているようです。もちろん、次元観察子と大系観察子はψ7=Ω1というホログラフィックな入れ子関係を持っていますから、ψレベルでの対応も可能ですが、セフィロトの樹自体がカバリストたちが考えているように太陽系と対応しているのであれば、その全体性はヌース的には大系観察子への対応が最も妥当になります。
下図1にも示したように、ヌース理論では下位のセフィロトから1〜13までの番号を振っていきます(カバラは上位から)。ヌース的な意味を添えて示しておくと(顕在化として)、
Ω1(ψ7)マルクト(物質/人間の外面)
Ω2(ψ8)イエソド(人間の精神/人間の内面)
Ω3(ψ9)ホド(人間の内面の意識/人間の思形)
Ω4(ψ10)ネツァク(人間の外面の意識/人間の感性)
Ω5(ψ11)ティファレト(人間の内面と外面の意識の等化/人間の個体意思・自己の本質)
Ω6(ψ12)ゲブラー(人間の内面と外面の意識の中和/無意識的欲望の備給元)
Ω7(ψ13)ケセド(人間の無意識構造の顕在化/ヒトの内面)
Ω8(ψ14)ダート(人間の無意識構造の相殺/ヒトの外面)
Ω9 コクマー(真実の人間の内面の意識)
Ω10 ビナー(真実の人間の外面の意識)
Ω11 ケテル(△)(真実の人間の内面と外面の意識の等化/人間の個体意思・自己の本質を作る元)
Ω12 ケテル(▽)(真実の人間の内面と外面の意識の中和/無意識的欲望の備給元の元)
Ω13 ケテルの全体性(真実の人間の内面と外面の意識の等化)
それぞれの大系観察子の働きの意味についてはいずれまた別のところで詳しく説明を行なっていくとして、ここでは現在ヌース理論が生命の樹のどの部分に当たる作業を行なっているのかそのポイントを少しお話しておきます。
図1にも示しましたが、ルーリアカバラではこの生命の樹の全体性を、ケテル、ダート、ティファレト、イエソドという各セフィロトを中心にした4つの円で区切り、アツィルト、ベリアー、イェッツェラー、アッシャーという4つの世界を設けます。前回紹介した「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」とは、この四つの世界のうちのイェツェラー界が粉砕されてしまうことを言います。図からも分るように、イェツェラー界が破壊されてしまうということは、ベリアーにおけるダート、ケセド、ゲブラー、ティファレトも機能しなくなりますし、アッシャー界におけるティフアレト、ネツァク、ホド、イエソドまでもが被害を被り、唯一遺されるのはケテル、コクマー、ビナーの上位の三つと、最も下位に属するマルクトだけになってしまいます。
ルーリアの「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」によれば、10個のセフィロトのうち7個が破壊され3つが遺るというストーリー立てになっているのですが、ヌース理論の観察子構造で見ていくと、このようにダートを含めた11個(一般的にカバラではダートはセフィロトとしては数えられません)のうちのイェッエラーを構成する7個が破壊され、4個が遺されると考えた方がどうも自然に感じられます。このとき遺される4つのセフィロトとは、確認すればすぐに分るように、ケテル、ビナー、コクマーの上位三つと、最も下位のマルクトです。マルクトが遺される理由はおそらく「ツィムツーム(神の自己収縮)」にあるのでしょう。「ツィムツーム(神の自己収縮)」とは前回も少し説明したように、神が創造した被造物の場所のことです。
マルクトはカバラでは物質世界に当たり、ケテルに座する神にとってその花嫁とも呼ばれる存在とされています。ケテルへと達した一者がこの生命の樹の全体性をツィムツームによってホログラフィックにマルクトに射影する………ヌース理論がいつも言っているように、精神構造の全体性が物質構造としてこの時空世界に映し出されてくるというこうした仕組みを、ルーリアはツィムツームと呼んだのではないかと想像されるわけです。とすれば、最も上位のケテルと最も下位のマルクトは、ちょうどトランプゲームの「七並べ」で13から1に繋がるように、互いに結合し合っていることになります。ケテルの玉座に存在する神は一者であるがゆえに「万有の無」と言ってよいものでしょう。そして、マルクトはその「万有の無」が射影されているという意味において、万有が外された「無」の世界となります。ただし、そこにはアダムが一者へと達する過程で獲得した神の属性たるセフィラーが破壊された破片として蠢いています。それが物質です。ルーリアはこうした砕けた破片をケリーム(殻/魔術的カバリストたちがクリフォトと呼ぶもの)と呼んで、汚れた悪の世界が生まれた原因だと考えました。
こうしたルーリアの思想が16世紀という近代の始まりに出現してきたというのは、何とも興味深いことです。皆さんもご存知のように近代以降、人間はその理性的側面を肥大化させていき、科学万能の物質主義的な世界観を絶対とする価値観を育て上げてきました。こうした意識の在り方は,生命の樹で言えば、意識がすべてマルクトの内部で閉じ込められていることと同じ意味を持っていることが分ります。マルクトの内部世界は仏教が言うようにマーヤの世界であり、そこに世界を生成させている本質力は何もない、ということになります。カバラの世界観においては単なる物質からは生命など生まれようがないのです。 ——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: カバラ, 人類が神を見る日, 内面と外面, 大系観察子, 生命の樹