7月 5 2017
反時代的なものへの狼煙(signal fire)を上げること
「時間と空間は結果にすぎない」「結果から世界を認識しても原因にはたどり着けない」。ツイッターではそういう話をずっとしています。これをもう一歩突っ込んで、―時空は結果にすぎない。時空をベースに世界を思考しても世界には触れることはできない―と言い換えてもいいでしょう。
問題は、なぜ人間は時空をベースに世界を認識、思考することを余儀なくされているのか、そこにあります。これは裏を返せば、本来、持続(時間の流れのない世界)に生きている人間がなぜ、時空という場所に投げ出されてしまったのか、そこに問いを立てろ、ということです。
持続から時空が成り立つ条件、それを明らかにすれば、わたしたちは時空の何たるかを知り、時空を超えた世界に生きることができるようになってきます。
時空というものは私たちを「一つ」という観念の中に放り込んでいます。いわゆる、同一性の温床です。そこに肉体というカタチで存在させられ、個人個人はそれぞれの主観で生きていても、結局のところ、時空/主観意識という意識の反復の中で「一つ」の中に閉じ込められています。
ざっくりというなら、この反復のループの中に生じているものが自我意識の同一性です。ニーチェからドゥルーズに至る現代思想の系譜は、常にこの自我の同一性を問題にしてきました。この檻、この反復の輪っかからいかにすれば脱出できるのか―それが哲学者たちにとって解決されるべき最重要課題であり続けてきたわけです。
問題はこの「一つ」です。時空(外の宇宙というイメージでいいです)に対する眼差しの中でわたしたちは一つにさせられている。科学者たちの「137億年前にビックバンがあった」などというセリフも、この一つにさせられた眼差しのもとに発せられているんですね。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。時空が一つにさせられている眼差しのもとにあるのなら、わたしたち一人一人の個別の眼差しが統合されたところに、実は時空というものが生まれてきたのだ。そうに違いない―と。
これが、時空は結果だということの意味です。ならば、時空を生み出したものは次のような履歴を持っているはずです。つまり―。
わたしとあなたとの間で「見る/見られる」という関係の中を行き交っている視線が、まずはわたしの中で統合され、次にあなたの中でも統合され、そして、それら両者もまた統合される―。
もちろん、ここで「見る」と言っているのはわたしたち自身それぞれの持続を含みもった眼差し、つまり「奥行き」のことを言っています。
このことは例のラカンによる黄金比の定義を彷彿とさせます。つまり、「わたしから見たあなたの関係が、あなたとわたしから見たわたしの関係に等しくなるとき、そこに黄金比が生まれる」―という。
そして、ラカンはこの黄金比のことを「愛」と呼びました。
もうわかりますよね。つまり、わたしたちが時空を「一つ」と感じてしまうのは、時空がひっくり返った「愛」だからです。
そして、このひっくり返った愛とは、愛がひっくり返っているわけですから、愛が全く存在しない世界、もっと端的に言うなら、虚無と言っていいものです。
物理学を知ってる方は、一度、時空(ローレンツ変換対称性)が複素空間の次元構成(素粒子構造)の中で、どのようなプロセスを経て出来上がってくるのか、その経緯を数学的に追いかけてみるといいでしょう。そのとき、どうか虚軸と実軸を見るものと見られるものの関係に置き換えて解釈してみてください。
そこには、さきほどいった、ラカンの愛の定義の運動が起こっているはずです。
その風景が見えてくると、素粒子は本来、存在しなくてもいいもの、という結論が生まれてきます。素粒子とは時空に首を突っ込んでしまっている人間の意識を、裏で時空を作り出したものの位置にまで引っ張り上げている力の流れのことなんですね。この裏の働きが潜在的なもの、つまり無意識です。
僕が素粒子のことを「潜在的変換性」と呼んでいるのも、そういう理由からです。こういうことを語っている思想家は、僕が知っている限り、世界でただ一人、実はもののけのしおりちゃんだけなんですよね(^^)。
ヌーソロジーから見ると、デジタルテクノロジーの発展を前提とした新反動主義や、同じく、科学的世界観に重きを置いた思弁的実在論といったような今の思想の趨勢は、人間を無の奥底へと落下させていくような思考態度に見えます。ヌース(精神実体の営みそのもの)の抹殺に取り掛かっている。
でも、その方向に対する力強い対抗軸がまだどこにも現われていないように思えます。ドゥルーズの言葉でいうなら、時代的に、ではなく、反時代的に、思考していくこと。そういう思考を何とか立ち上げていく必要があるんです。
精神の炎をこのまま消し去ってはいけません。
7月 24 2017
波動関数ψのヌーソロジー的解釈―素粒子は対象ではない
たとえば、物理学は波動関数ψ(x,t)の絶対値の 2乗を粒子の位置の確率密度(確率のもとになるもの)として解釈する。しかし、奥行きと幅を複素平面と見なし、それらを持続とイメージの空間として見なすなら、波動関数ψ(x,t)とは人間が対象認識を行うための持続構造の表現と解釈することができる。つまり、対象の周囲には常に人間の無意識が持つ持続空間が取り巻いているという、例のキュビズム的空間のことだ。→下リンク参照。
この回転にその鏡映(複素共役)を掛け合わせたものがΨ*Ψ=|Ψ|^2となって実際の確率密度を表す。
この回転を固定された虚軸の位置から見てみよう。すると回転している方の虚軸と実軸はどのように見えるだろうか。
それはすぐにイメージできるのではないかと思う。ともに左右方向に振動しているように見えるはずだ。これは、たとえば目の前に置いた棒を水平方向に回転させたときに、その棒が伸び縮みして見えるのと同じことを意味している。物理学では、この伸び縮みを位置(実軸)や運動量(虚軸)の確率の変動として解釈しているのだと考えていい。
しかし、果たして、これは粒子の存在確率などといったものだろうか?こうした「確率」といった解釈も「3次元空間が先にありき」と考える物理学の世界観がもたらしたものと考えた方がよさそうだ。
複素空間を持続空間と仮定するなら、話は全く逆で、本当は持続空間におけるこのような回転があるからこそ(持続なので本当は回転すらしていない)、意識は物体の位置を3次元的な認識の上にあげることができていると考えなくてはいけない。
早い話、世界は確率などで出現しているわけではない、ということ。
素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。
となれば、素粒子を確率的存在と見なす考え方から派生してきている並行宇宙論(一瞬一瞬において無限数の宇宙へと分岐する宇宙)なんてものは最悪の仮説と言える。世界はかけがえのない唯一無二のもの。そう考えないといけない。
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By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 波動関数, 素粒子