3月 30 2018
ヌーソロジーの空間認識(バイスペイシャル)は何を目論んでいるのかー再確認の意味で
奥行きが純粋持続の場であるということに関しては、ツイッターでも何度も話しました。奥行きで世界を見始めると世界は内在に内在するようになります。つまり、外在という概念が消えてしまうということです。
正確に言うと、外在と内在はもはや対立的なものではなくなり、今まで外在と見ていた世界も内在に従属したものに見えてくると言うことです。外在が内在に従属すると、時間の発生の現場が純粋持続の場側から目撃されてくることになります(ここに働くのがSU(2)です)。
普通、物質は時間と空間の中にあるものとして考えられています。ですから、奥行き認識においては物質は存在しません。そこにあるのは持続の知覚です。奥行きは外在側から見ると無限小として把握されるので、奥行き知覚自体は物質の内部側を拠点にしており、物質はどこを探しても見当たらないのです。
見える物質(表象)は幅化した奥行きが浮上させています。その表象を持続させているのが、その下で働く真の奥行きです。幅化した奥行きと真の奥行きは、物質の瞬間像とその把持と言う形で互いに役割を分担しているわけですね。
奥行きの覚醒によって、素粒子は消え去るのではないかと考えています。なぜなら、奥行き自体が素粒子のスピンに当り、主体と客体がそこで一致を見るので、素粒子はもはや対象ではなくなります。
そして、この奥行きが形作っている幾何学的な組織が即自的にイメージされてくると、素粒子はかつての自分の経験的意識を構造していた空間的な身体であるということが分かってきます。
肉体は肉体だけでは身体とは呼びません。肉体、およびそれを支えている4次元時空には、持続によって構成された高次の空間的身体が重なり合って存在しています。俗に「肉体に宿る魂」という言い方がよく為されますが、その「魂」に当たるものです。それが素粒子なのです。
肉体から魂が抜けると魂は霊界へ行くという話も聞きますよね。私たちが奥行きに目覚めるというのは、これと同じような意味を持つと言えるかもしれません。
つまり、真の奥行きが知覚され始めると、かつての奥行きとは全く違うものになり(幅化により生まれていた距離は消え、空間は非局所になるるということ)、そこに死の身体が顕在化し始めるということです。
そして、このときに目覚めてくる死の身体とは、幅認識の世界で「原子」と呼ばれていたものだということが分かってきます。原子とは、持続空間において、認識が物質を主客一体のものとして思考している様子だと考えるとよいでしょう。
素粒子はその内的原子の場所に準拠して人間に経験的意識をを持たせるように働いています。これが人間の個体化のシステム(超越論的なもの)の意味です。
ヌーソロジーでは内在に内在するようになった、このような原子のことを、物質的原子と区別して「元素体」と呼びます。この元素体が「ヒトの精神」と呼ぶものに相当してきます。
この辺の話のあらましは昨年9月に出したシュタヌー本の方に結構詳しく書いていますので、参考にされて下さい。
『シュタイナー思想とヌーソロジー 物質と精神をつなぐ思考を求めて』 半田 広宣 ・福田秀樹・大野章
7月 11 2018
時代なき存在論の復活を!
人間の内面においては観測者はリンゴと同じように単なる物体として認識されています。このとき、観測者から広がる世界が時空(局所座標系)に当たります。
一方、人間の外面では奥行きは持続空間ですから、時空の広がりを一本の線分の中に束ねてそのまま縮んでいます。物理学に対応させると、これがスピノル(物質粒子のスピン)に当たります。
スピン(ヌーソロジーでは垂質と呼びます)はそのまま表相の次元(リンゴの見えを作っているリンゴの直径部分)に重なり合っています。なので、リンゴを囲んで複数の他者がリンゴを見ているとき、そこでのリンゴの回転はそのままスピノルの回(SU(2))を意味することになります。ヌーソロジーでは、この回転のことを「表相の等化」といいます。自己と他者の表相を等化するという意味です。
「表相の等化」とは分かりやすく言うと、自他が表相を共有し合うということです。たとえば、リンゴの一部分にキズがあるとき、そのキズの存在を自他が互いに了解するということ。言うまでもなく、それはリンゴの回転によって可能になるわけですが、実は、この表相の等化によって生まれてくるのが、図1に描いた人間の内面なのです。
このことは、言い換えれば、自他におけるモノの回転の相互了解が3次元空間と時間の発生の契機になっているということを意味しています。時間と空間の中でリンゴが回転しているのではなく、リンゴの回転が自他の間で相互に了解されているから、そこに時間と空間が生じてくるのです。
このとき、持続空間として活動していた自他の奥行きと幅は自他によって等化されてきます。奥行きの同一化が時間を作り、幅側の同一化が空間を作リ出します。ヌーソロジーが「時間とは客観的視線である」というのも、ここから来てます。そして、SU(2)回転の機構の中で、この役割を担っているのが、おそらく、核子(陽子・中性子)です。陽子が時間を作り、中性子が空間を作り出していると思われます。
このSU(2)のトポロジーのカタチは、哲学で言うなら、ハイデガーの「二重襞」や、ドゥルーズの「巻き込みと繰り広げ」といった、外部=内部、内部=外部(包みつつ包まれ、包まれつつ包む)のモナドロジックな無窮運動の最も基礎的なカタチと言っていいものです。
このモナドの運動を垂直的に多重化させていっている精神の運動がわたしたちが元素と呼んでいるものの正体であり、わたしたちが物質的自然と見ているものは、人間の内面側に束縛された意識に映るその射影のようなものに思われます。
外と内の交通路が浮上し始めています。古代の存在論、中世の存在論、近代の存在論、現代の存在論を展開した最良の精神たちの鋭意を継承して、時代なき存在論を復活させましょう。存在論は永遠において思考されなくてはいけません。その思考の歩みにおいて、主客の宇宙は終わりを告げていくのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノル, ドゥルーズ, ハイデガー, モナド, 存在論