4月 15 2005
エロスの終焉
昨日のID Web Lifeに続いて、今日もソフトを買ってしまった。それも2つも。。こんなに一気に買っちゃっていいんでしょうか。経理さん。経済観念のしっかりしている、というか、会社の経費のことをついつい心配してしまう半田社長は、ついつい経理の「経費もほどほどにして下さいね。」という言葉にビクビクするのでありました。本日、入手したソフトはShade7.5のスタンダード版(プロフェッショナル版もあったが、高いので遠慮したのだ)とPoser6というやつ。どちらも3Dソフトで、Poser6の方は人物専用作成ソフトである。先日、ブログでもご紹介したNC generatorのプロモもShadeシリーズで作ったものだが、いかんせん、Mac環境をOS9からOSXに衣替えしたものだから、ShadeもPoserもOSX対応にヴァージョンアップしないといけないのだ。どうせやるなら一気にやっちまえ、ということで、勢いで買ってしまった。
しかし、ソフトなんぞに2日でいくら使ったんだ。。このあとビデオ製作関連の機器を導入する予定なので、その予算を想像しただけでゾっとする。Macintoshは中国語で書くと「借金突出」と書く。というのはウソだが、デジタルツールの消費構造は完全にドラッグ経済と被るところがある。それこそ一度踏み込むと死ぬまで金をつぎ込まざるを得ないようにできているのだ。うぅぅぅ〜、このソフトをくれぇ〜〜。もっと速いやつはないのかぁぁぁぁ〜。あぁぁ、きれいな、きれいなモニタァ〜だ。こ、こ、これをくれぇ〜。これが欲しいか。これが欲しいなら金を持ってきな、兄ちゃん。………結局、こうして、わたしもあなたもコンピュータ・ディーラーの言うなりになるしかないのだ。パソコン本体、プリンタといったハードウェアのソフトのヴゥージョン・アップ、MO、CDR-RW、DVD-Rといった周辺機器のヴァージョン・アップ、このOS環境では動くが、こちらのOS環境では動かない………等、これじゃ、ドラッグよりもたちが悪い。わしの場合、Mac歴15年ほどだが、一体、デジタル機器関連だけで、いくら、散財しただろうか。
まぁ、21世紀経済を活性化していく分野はDNA産業とデジタル産業ぐらいしかないのだから、それはそれでいいが、これだけのデジタル・ツールが溢れ果たしてカルチャーの質が変わったか?それが問題だ。いや、それをあえて問題にしたい。
グラフィック・デザイナーのククル・ヒロさんがカフェ・ネプに「表現の手法ははかつてなく個人に開放された。」と書いていた。確かに、かつてない簡易さでDTPができ、音楽が作れ、映画製作さえもDTS(デスク・トップ・スタジオ)に姿を変えようとしている「表現の現在」だが、果たしてそこに価値あるものは創造されているか——。クリエイティビリティーが大衆化していくとはどういうことなのだろう?実はこのテーマ、7〜8年ほど前に、SONYのあるお偉方と話したとき、大きく意見が分かれた問題だった。彼曰く——、これからの時代はクリエーターとコンシューマーの垣根が壊される。そういう市場ではもはやメインストリームは存在しなくなる。様々なファクションがそれこそリゾーム状に接合し、カオティクなカルチャーが形成されてくる。当然、デジタルアートはネット上での流通となるから、そこで生産されてくる作品のディストリビュートの在り方は今までとはまったく違ったものになる。マーケットはジャンル別に細分化し、それぞれ3万人規模ぐらいになる。ネット上であれば3万人規模のマーケットでも十分に採算が取れる。マスを相手にする必要はなくなる。半田さん、ヌース理論のユーザーを3万人作って下さい。そして、そこに絶えずソフトを供給するんです。それで経済は回りますよ。SONYはそうしたminimumなマーケットを無数プロデュースするような機構を考えています。ハードの時代はもう終わってます。いかに作品を生産させ、ネット上で流通させていくか。それがテーマです。
わたしは、そのとき、それはないでしょう、と断言した記憶がある。というのも、経済の本質はエロスで動いているという信念があったからである。こと音楽や映画のような商業アートに関する限り、需要者と供給者が一致することはまずあり得ない。作り手とユーザーは単に作品で結ばれているのではなく、わたしもあのような表現者になりたい、わたしもあの人のように他者の羨望の的になりたいと願う欲望で結ばれているからである。こうした結びつきのもと、供給者と需要者とが一致するということは、そうした欲望が無化するということだ。そうした位相差のない空間に現在のような欲望経済が流動するはずはない。エロスとは欠如であり、その欠如が経済を動かしているのだから。デジタルが作り出そうとしているのは、そうした非-経済空間なんだからSONYなんて辞めちゃっていいんじゃないんですか?なんて、言ってしまったっけ。。。
わたしに限って言えば、音楽、映画、演劇、ダンス等、何でもいいが、新しいものが見たい、欲しい、という欲望は年とともに失せていっている。特にメディアがデジタル化し、何でも入手可能になればなるほど、何もいらない、という心理に拍車がかかっている。デジタル技術とは人間が作り出したカルチャーを一掃するための殺し屋である——「シリ革」で表明したその意見の方向性に変わりはない。
11月 25 2005
新羅の金冠
そもそも九州国立博物館に足を運んだのは、慶州の天馬塚古墳から出土した新羅の金冠を見るためだった。わたしの出張中に、うちの奥さんが見に行ってすごかったというので、それならわしも、ということで出かけたのだ。東洋の歴史にはほとんど興味の無いわたしだが、新羅という国だけにはなぜか昔から惹かれる。かつて新羅には「花郎」と呼ばれる青年貴族の部族集団があって、弥勒信仰を持っていたと言われている。仏教における弥勒信仰はミトラ教から来たものだいうのが定説だが、実際、6世紀までの新羅の文化は、漢字も使わず、中国の暦も用いず、茶碗にも把っ手がついていたりと、ローマの影響を色濃く受けている。有名なミトラ教の祭祀である「殺牛祭祀」も行われていたらしい。ミトラ教の話はレクチャーなどでも紹介したが、ローマ帝国がキリスト教化する前の国教で、全盛期は世界宗教と言っていいほどの勢力を誇っていた。映画「グラディエーター」で前帝マルクス・アウレリウスが戦場で祀っていた祭壇もミトラ教のものである。ミトラ教はヘレニズム時代に、シリアやバクトリアなど当時のシルクロード沿いの国々を通って、チベット経由で新羅に達したと考えられる。
まぁ、そんなかんだで、新羅に古代東方世界の叡智がダイレクトに伝わっていても全く不思議ではないのだが、予想通り新羅はなかなかイカしていた。新羅の金冠を見て何に驚いたかと言うと、その形状デザインだ。金冠は樹木の形態をとった丈の長いデザインになっているだが、これが何とルーリア・カバラの「生命の樹」にそっくりではないか。ルーリアが「生命の樹」を表したのは16世紀なので、この金冠にあしらわれた生命樹はそれよりも1000年ほど古いものということになる。しかし、何度見てもそっくりなのだ。ルーリアはここから「生命の樹」のヒントを得たのではないかと思えるほどである。左右方向に3本の柱が立ち、上下方向は4段階に分かれている。そして、それら12箇所の交差場所には翡翠で作られた勾玉がつり下げられ、生命樹のトップには別個に一つの勾玉がはめ込まれている。合計13個だ。勾玉とはセフィラー(セフィロトの単数系)のことだったのか、と一人短絡的にニンマリとしながら、新羅の高度な文化と美意識に思いを馳せた。
私事で何だが、半田家のルーツは出雲だったという話がある。出雲の埴輪作りの血を受け継いでいるというのだ。その後丹波に移り住み、関ヶ原の戦いの後、九州各藩に対する監視的役割として有馬豊氏が徳川から九州に派遣されたときに、ひょこひょことその殿様についてきたというのだ(有馬藩は現在の福岡県久留米市当たりに当たる)。そうした言い伝えもあって、わたし自身は半田家の大本のルーツは新羅から出雲へと渡って来た帰化人ではなかったのかと勝手に想像している。そして、おそらく、あの超エリート集団「花郎」の一員ではなかったのかと。中国や韓国の歴史に何一つ興味のないわたしが、新羅にだけこうも魅了されるのもDNAに深く刻み込まれたその記憶のせいなのだろう。しかし、そうは言っても気になることが一つある。「花郎」はミトラ(幼少の神)を意識してか美男子集団であったとも言われているからだ。うーむ、ここはなかなか直視し難い要素ではある………。そっか!!前世は「花郎」だった、ということにしておこう。ひひ。
By kohsen • 08_文化・芸術 • 0 • Tags: DNA, カバラ, 九州国立博物館