8月 16 2018
対象と情報―物と言葉
残念なことに、ハイデガーは量子論についてはほとんど語っていない。『技術への問い』に収められている「科学と省察」という論考の中で古典物理学と原子物理学の根本的な違いについて述べてはいるものの、深入りすることは避けている。残念だ。
ハイデガーはそこで自然を対象として見なす科学の視座を批判している。主観-客観関係は、どうしても、先日「ゲシュテル(集-立)」のところでも話した「用立て」へと回収されるというのだ。物を人間の生活の役に立つように改変するということ。そして、それを真っ当なものとしている私たちの日常感覚。
後期ハイデガーがひたすら訴える「性起(自性態)」という概念も、まさに、自然を対象として見なさないための思考の立ち上げへの格闘だった。言い換えれば、わたしたちは自らの精神をいかにして外化させることができるのか―この辺りが、ヌーソロジーとガッツリ問題意識を共有している。
考えてみれば、今では自然のみならず、言葉(ロゴス)までもがゲシュテルの体制で動いている。それは言葉が「情報」と名を変えたところに起こっている。情報戦略、情報産業etc。わたしたちは「用立て」のために情報を狩り集める。対象が物の死骸であるのと同様、情報もまた言葉の屍と言っていいものではないかと思う。
物は単なるエネルギーの塊ではないし、言葉も物を表示する単なる記号などではない。それらは、無窮の霊性が持った二つの性のようなものだ。ほんとうは女神と男神と呼んでもいいものではないかと感じる。それらを単に対象-情報と呼ばせている思考者の姿を、一度、じっくり想像した方がいい。
※下写真は、特定の雑誌を批判しているわけではないので、あしからず。
8月 27 2018
量子論はハイデガーのいう「最後の神」かもしれない
真の二元論とは、知覚的な場の中の「他者構造」の効果と、その不在の効果(他者がいない場合の知覚の有り様)の間にあるとドゥルーズは言っていた。ハイデガーのいう非本来性と本来性の関係がここにある。現存在はこの両者の間で呼吸している。
「他者構造」の効果とは、ハイデガーに即して言うなら、一つは頽落。もう一つは現存在化と言える。前者は見つめられるところに拠点を置く自我。後者は見つめているところに拠点を置く主体。頽落した自我は概念と言語に縛られ、現存在の方は知覚と記憶と同居している。事物存在と道具存在の関係に同じ。
ドゥルーズの文脈では、他者の不在において初めて「存在」が開示する。これをヌーソロジーは奥行き(純粋持続)の存在論として展開しているわけだ。
他者の不在と言っても、そこには全く別の他者が出現してくることになる。もう一つの純粋持続と化した他者だ。ハイデガーの言葉で言うなら「共存在」ということになるだろうか。この共存在性は量子論ではエルミート共役(複素転置)の関係に反映されることになる。
量子論におけるオブザーバブルはすべてエルミート演算子の形式を持つ。ということは、量子論的場は本質現成としての性起の場とダイレクトに繋がっている。目の奥底にある無底の心眼を開くこと。
そこに見えてくるものは、おそらく、人間の自己を表象化していた、表象化するものたちの世界だろう。それを哲学風に超越論的なものと呼ぼうが、精神分析風に無意識(エス)と呼ぼうと自由だ。いずれにせよ、それが物質を根底で支える、終わりでもあり、始まりでもあるものの姿だ。
量子化の基本的な手続きは位置xと運動量pの正準交換関係を設定するところから始まる―[x^,p^]=x^p^-p^x^= ih~ 。 ヌーソロジーでは、この式を自他における〈幅 -奥行き〉間の差異として考える。差異 ih~はおそらく「表面」の位置だ。これは「最小精神」を意味する。
自己意識を構成する超越論的なものの構造は、この表面で受け取られる「表相」に始まって、「表相」を送り出すところに至るまでの複素空間の次元構成の中で形作られている。最終的に、この受け取りと送り出しの位置は自他の間で真逆に構成され、その交換がクォークとレプトンの対称性と関係を持つ。
自他の精神構造は、まさに無意識においても表裏一体で組織化されているということだ。その交替化の関係を表すのが大系観察子のケイブコンパス(Ω11~12)だと考えるといい。下図。
その意味で、この構造を巡る力の流動性を大本で操っているのは、 ih~ という差異ではないかという感覚がある。ヌーソロジーの思考にとって、この ih~ は、ハイデガーのいう、まさに存在開示のために到来した「最後の神」のような位置づけなのだ。量子論はいずれ人間の在り方をその根底から変えるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連, ハイデガー関連 • 0 • Tags: ケイブコンパス, ドゥルーズ, ハイデガー, 大系観察子, 量子論