10月 18 2006
黒衣の旅人
河村悟氏の新しい詩集『黒衣の旅人』が2週間ほど前に出版社の方から届いた。ここのところ仕事に忙殺されて落ち着いて目を通す時間がなかったが、ようやく仕事も一段落。今日は、じっくりと腰を落ち着けて、ページをめくっている。
僕は文学のことはよく分からない。しかし、この人の詩の凄さだけは分かる。。この人の詩はまるで呪文だ。音読すると周囲に何かが集まってくるのを感じる。数千年もの間生き続けている言葉たちに宿った言霊がまるで夜集会でも開くかのようにぞろぞろとどこからともなく集まってくる。連中は独特の臭いを持っている。最初に漂ってくるのは楽園の薔薇のような香り。甘く香しい。しかし、それに酔いしれると危険だ。すぐさまその芳香は腐乱した肉の臭いに変わる。薔薇の木が屍肉を養分として育つというのはよく言われていることじゃないか——その土壌の中に折り重なった二人の男女の死体が埋まっている。アダムとイブだ。言霊の中では死霊と聖霊は見分けがつかない。だから言葉は怖いのだ。
牢獄、斬首、腐肉、死体、傷口。。。痛々しい言葉の列。血生臭さとともに、自らのはらわたを自らの手で何の感情も抱かずつかみ出しているような徹底した冷血の眼差し。そこには善悪を超越したした絶対善即絶対悪としての一者の姿が垣間見える。そういえば、河村氏はその昔「僕は一元論的グノーシス主義なんだよ」と言っていたっけ。存在の前姿は神の寛大さを持ち、後ろ姿は悪魔のように残虐だ。それは河村氏の作品にもそのまま当て嵌まる。世界を世界として繋ぎ止めるポロメオの環。その禁断の結び目を垣間見た者だけが知る詩の秘密。真言としての詩を支えるある秘密の構造。河村氏の詩は詩というよりはまるで物理の方程式のように徹底した計算のもとに立ち表れた記号のように見えないこともない。おそらく河村式修辞学というのがあるのだろう。この特殊な修辞学は詩の論理を支えている詩の精神に依拠している。それはおそらくヌースがいうところのイデアではないのか。僕はずっとそう思っている。
詩を詩たらしめているイゾモルフィスム(類似同形性)。おそらくそれは神の身体形成を貫く絶対的秩序である。その秩序が肉や骨として結実したもの。それが肉としての身体であるはずだ。諸物、諸世界は転倒している。詩の精神はそうした諸転倒の重みをその全面に背負って成り立っているのではないか。存在の重みがジリジリと言葉の背骨に乗りかかる。グニャと不気味な音を立てて曲がる精神。存在の圧力で発熱し、いたるところに火傷を負った精神。斬りつけられ、いたるところから出血を繰り返す精神。そんな精神が饒舌なはずがない。河村氏はいつも言っていた。ほんとうの詩は聾唖者が発する吃音のようにリーディングされなければならない——。詩が言葉の重みに逆らって浮遊する霊の苦悩、苦悶であればそれは当然のことだ。種子の中に植物の全成長の履歴を見通す目——言葉のうごめきの中に創造のイデアは暗躍している。しかし、イデア自体は言葉ではあり得ない。種子の中に種子ではないものが混入している。それを乖離させることは可能なのか? 言葉をすべてはぎ取って、果たして剥き出しのままの詩の精神を僕らの知性の前にえいっと取り出して見せることが可能なのか? 言葉と精神が分離不能な形で浸透し合っているとすれば、言葉をはぎ取った精神は役立たずのクズ鉄となりはしまいか。それをどう回避するか、それがこれからのヌースに課された試練だ。
言葉の通底器、それは言葉を運ぶものでもあり、言葉を生成していくものでもある。それを見い出すことができれば、おそらく僕らは言葉から解放される。言葉からの解放とは能動者への転身である。『黒衣の旅人』はそのとき初めてその転身によって重々しい衣布のすべてを脱ぎ捨てることができるはずだ。その下に隠された美しい裸体。血球の中の鉄と星々の中の鉄との通路を見出すこと。鉄とは詩の精神の凝縮された場所である。
12月 22 2006
星を継ぐ者
言葉の第一の機能は事物の登録である。
「これはリンゴである」というとき、そこには他者との相互了解がある。僕がリンゴをみかんと呼ぶことも可能だが、そう呼んだときには、僕は社会的人間にはなれない。三者以上の人間が集まるとき、そこには言葉による権力の構造ができあがる。二人の人間の間では言葉の登録能力は極めて曖昧だ。「君がその丸い赤い物体をリンゴと呼ぶのは構わない。しかし、僕はみかんと呼ぶ。お互い意見が合わないのは仕方ない。それはそれでいいじゃないか。」ということで済む。二人では社会は生まれない。だから政治も生まれない。そこはいわばむき出しのリアルの格闘と友愛の場だ。だから、言葉の秩序の中に参加することは自己が第三者の視点を内在化させることに等しい。こうした移行は精神分析的には想像界から象徴界への移行として例えることができる。
観察子構造にも実はこれと似た構造がある。自他を規定するキアスムは3次元球面上の対極点として現れる。それは常々言ってるように(0,∞*)(0*,∞)という関係だ。この関係がある限り、自他間において空間の3次元性は互いに反転して見えている。つまり、モノの内部性と外部性は相互にひっくり返った状態にある、ということだ。そしてそれらはメビウスの帯状の捻れによって等化されている。これは言い換えればコミュニケーションの原器となる構造体と言える。君の表が僕にとっての裏となり、僕の表が君にとっての裏となる。話す事と聞く事に代表されるように、両者の間にはスムースな変換機構が機能しているのだ。その意味で言えば、ここには強固な形での自己-他者の対立はない。二つであって一つ、一つであって二つの生き物がそこには生息しているのだ。
しかし、前回話した、SO(4)対称性が現れるときに事態は一変する。具体的にはここでは書かないが、簡単に言えば、前後*-前*後として働いていた意識軸が左右方向へと90度回転を起こしてしまうのだ。これがどういうことかすぐに分かるだろう。対面する自他の関係を真横から見る視座が生まれてしまうのである。この回転によって(0,∞*)(0*,∞)としてコミュニケートしていた自他の位置は一気に(0,0*)(∞,∞*)に偏極を起こし、それぞれを同一化させてしまう。つまり、3次元空間の相互反転性を持った自他間の交通空間は下部構造として見えなくさせられ、上位に外界としての単一の3次元認識が出現してしまうのだ。前回が僕が「モノ概念」と呼んだものである。モノ概念はモノの外部性/外部性*の等化と内部性/内部性*の等化に支えられて、モノと空間というように、確固とした存在者としての概念を獲得するというわけだ。
こうした左右方向からの眼差しの侵入によって、僕らは、モノを挟んで対峙する自己と他者というイメージを内在化させることが可能になる。この視点が第三者的視点であることは言うまでもない。この眼差しは自他の間に置かれたリンゴがリンゴ以外の何ものでもないという判断を相互了解の下に下すジャッジの眼差しである。それは正しい、それは間違っている、それは真実だ、それは虚偽だ——等、登録の機能は了解可能性とともに否定的な力をも同時に呼び込んでくるのだ。空間構造との対応で言えば、実はR^3という3次元認識も、また、S^2という球面認識も、この眼差しの下に構成されている。つまり、モノ概念とは認識の統一を作り出す代償として、個々の知覚(リアル)=主体を否定する側面も持ち合わせているということだ。こうしたフェイズに無意識が入ることをヌースでは「表相の等化」と呼ぶが、ここに言語機能、つまり、ファルスが発生することになる。個人の意識発達で言えば、幼児が母親との想像界的関係から離れて象徴界的秩序に入ることを意味するし、歴史的無意識の発達で言えば、多神教世界から一神教世界への移行とも言えるだろう。
「表相の等化」から反対側の3次元球面へと入って行く段階は次元観察子で言えばψ9に入る。ψ9とはψ7とψ*7が合わさったものだ。ψ7が陽子とすれば、ψ*5〜ψ*7で電子のスピン(自転)と電子のs軌道(公転)を用意する。つまり、水素原子の誕生というわけである。中性子側は面倒なのでここでは触れないが、人間の無意識構造と水素-ヘリウム元素はおそらく同一のものである。その意味で言えば、今の人間の意識は未だ水素とヘリウムとして宇宙空間を彷徨っている。星を継ぐ者が現れるのはいつの日のことになるのだろうか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: メビウス, 表相, 言葉