2月 20 2008
メルカバー雑感
今日も忙しいので走り書き。。。って、いつも走り書きじゃん(~~)。
ヤハウエは眠っているときは一神だが、創造を再開するときは二神になる——これクリエーションに当たっての大事な原則。でないと鏡による再帰的な次元上昇のループが作れないから。だから、『生命の樹』における左右の柱も本当は双対になって四本になっていないといけない。それぞれの双対関係がキアスムを作るとき、中央の柱に沿って螺旋上昇のエネルギー(カドケウスに巻き付いた二匹の蛇=次元上昇していくヌースの対化)が供給されてくることになる。このエネルギーを次々と連結していくときに、そのポイントポイントで歯車のような役割を果たすのが「メルカバー」だ。メルカバーは普通は「神の戦車」と訳されているけど、こやつが生まれてくるときは赤ん坊なのだから、「神の乳母車」と言い換えた方が優しくていいと思うな。ヌース理論がいうところの例の4位一体、ペンターブ的構造だ。金剛界マンダラやホピ族の紋章にもあるあのサイコロの「五」の目のような絵柄が意味しているものだね。あっ、そう言えば、薩摩藩の家紋でもある○に十もその類いでごわす。
「5」はヌースでは差異化を行なうための回転の象徴数。もちろん、無限との連結という意味で、これはペンタグラムや正五角形とも深く関係している。ドゴン神話にも「フォニオ」というのがあって、これが円に十字のカタチを持っていて、神話の中ではアカシアから生まれた創造の種子とされている。僕ら日本人におなじみの寺院のマークの「卍」も同じ力の別の表し方だ。もちろん、これが逆回転してしまうと、ハイル、ヒットラー!!になってしまう。こわ。
メルカバーのカタチはスピリチュアルの世界では「マカバ」でおなじみだよね。それは3次元立体としては双対のカップリングした正四面体(上図参照)として表すけど、ヌース理論でもカタチは全く同じ。意識が通過していくためのヘクサグラムの無限回廊を作り出していくための回転だ。つまり、光の通り道だね。ただし、ヌース理論ではあのカタチを3次元立体としてみもないし、オカルティックな象徴としても見ない。今度の『アドバンスト・エディション』でも書いたけど、おかたく数学的に言えば、4次元空間と4次元時空が重なり合った「等角写像」として見てる。簡単に言えば、4次元構造の3次元世界への影だ。
双対の正四面体として合体しているのはヌースでいう「止核精神の対化」というやつで、これが4次元軸を持って回転していれば、双対時空のことを意味している。つまり、これら2つの正四面体の回転とは君と僕が意識している時空そのもののことを表しているわけだ。今度の本で書いた次元観察子ψ6〜ψ*6に当たるものだね。この『アドバンスト・エディション』ではそれら両者を君と僕それぞれの「想像的自我」と呼んだ。つまり、君が普通に、「あなたとわたし」って呼んでいるもののことだ。ヌースから見ると、時空という概念は実は自我と同じものなんだ。意識と空間構造は決して切り離して考えることができない——これがヌースの面白いところだね。
つまり、時空概念で意識が支配されているうちは、君は自我を決して消滅させることはできないってこと。まぁ、消滅させる必要もないんだけど。。。で、この自我として働いている正四面体の回転軸をうまく相手側と交換できると、あ〜ら不思議、4次元時空が4次元空間に早変わり、あっと言う間にミクロの創造空間側に反転しちゃたみ〜。これがヌースでいう「位置の等化」という作業になる。ψ5の顕在化だ。
これは何を言ってるのかと言うと、相手の目に映る自分を自分と思うんじゃなくって(これは「後ろ」を見てることと同じこと)、自分自身の目に映っている世界の方、つまり「前」を自分と思え!!ってことなんだ。その世界の方がほんとうの「現実」であって、相手の眼差しによって支えられている自分の方は水の中の幻影のようなものだそぉ〜て言ってる。そのへんの意識の行き来をやっているところが、実は物理学が「弱い相互作用」と呼んでいるものの本質。わぁっ、砂子さんもびっくり。だから、砂子さんはヌース的方向で物理のことを考えている。つまりヌースから見ると物質の根底は僕らの魂とつながっているってことなんだ。魂を語る者は、魂ではなく、物質を語れ。『シリウス革命』でも書いたように、あがなわれるべきは魂ではなく、物質なんだ。物質に僕たちのスピリットを注ぎ込んで行かなくちゃいけない。その奇跡的な出来事のことをクリスチャンたちは「ペンテコスタ(聖霊降臨)」と呼んできたんだね。だから、スピリチュアルな人も思考は苦手と言う前に、物質のことをもっと考えて欲しい。わたし待つわ。いつまでも待つわ〜♪って物質が歌ってるよ。
「人神」オリジナル版の表紙に書いてあった「シリウスの力が今、地上に降臨する」ってのは、人間の意識が物質の内部に分け入って、そこから、物質が創造されたルートを再度、辿って行くことなんだよね。それがヌースがいう「アセンション」の本質だと思ってね。フォトンベルトとか、銀河系とか聞いて、遠い空の彼方を見てはダメ。銀河も太陽系も素粒子も、その本質はすべてこの地上に「見えないもの」として全部重なっているんだよ。つまり、人間が生きているこの場所こそが全宇宙ってこと。
3月 29 2008
時間と別れるための50の方法(5)
●時空上のどこもアルケーだらけ
さて、このように見てくると、アドバンス・エディションをお読みになった方はもうお気づきのことと思いますが、ホーキング=ハートルの無境界仮説が説くアルケーと、ヌース理論が説くアルケーが幾何学的にほぼ同じ構造を持っていることが分ってきます。違うのは、虚時間宇宙に対する解釈の仕方だけです。無境界仮説では特異点レベルのミクロ空間に4次元時空が4次元球体と連結する通路があると考えるのに対し、ヌース理論は、身体の「前」をそのまま光速度状態と見なすことによって、そのミクロ空間へと一気にワープし、そこから光速度のカベの向こう側へと反転を挙行して虚時間宇宙への侵入を画策しているわけです。このことは、ヌース理論が人間という存在自体を実時間宇宙と虚時間宇宙の結節点、つまり「特異点」と見なしているということを意味します。
人間存在=特異点。こうした人間存在の在り方と合わせてこの時空の成り立ちを考えると、ホーキングが言う次のような言葉の意味も手に取るように分かってくるのではないでしょうか。
「もし、宇宙が神の摂理によって定められた場所だと信じるなら、こうした法則(無境界仮説)が、宇宙の始まりを含めて時空のあらゆる点で成り立つことを信じなければなりません。」
信じる信じないというより、これは当たり前ですね。これは単に人間存在が時空上のどの場所にでも位置できる自由度を持っている、ということを言っているわけです。「覚醒(人間の外面の顕在化)」が起これば、この特異点は「無境界」として乗り越えられるけれども、覚醒が起きなければ特異点は特異点として、生成空間との間に永遠にカベを作るように働くことになります。つまり、物理学のいう特異点とは「人間の内面」という次元を限界づけている仕切りだということです。僕がよく「人間は生成から疎外されている」「人間は宇宙の創造活動に何一つ寄与していない」「人間は神のうんこだ」「人間は出血している」と、半ば確信犯的に人間批判を繰り返しているのも、創造や生成がこの久遠の場所とも言える虚時間宇宙の中で為されていると考えているからです。もっとも、うんこをしなければ神も具合が悪くなるでしょうから、人間は神にとって必要不可欠な存在とも言えるわけですが。。今度の人神アドバンスト・エディションで約100ページにわたって付け加えた内容は、こうした虚時間宇宙に見えてくる最初の風景のスケッチだと思って下さい。
虚時間宇宙である4次元球体の表面は3次元球面というカタチになっていますが、現代物理学においては、この3次元球面というカタチはとても需要な役割を占めています。たとえば、電子や陽子、中性子などは、すべてこの3次元球面をベースとした幾何学構造体になっています。というのも、これらの粒子のスピンが生まれている空間のカタチはSU(2)(複素2次元特殊ユニタリー群)という群で表され、この群のカタチが3次元球面と同じものとされているからです。
前回、幾何学の形成は時空上では決して成立し得ないのではないかという話をしました。物理学は素粒子をスピン(角運動量)の大きさ等で分類しますが、このスピンという概念には当然、素粒子が何らかの回転をしているという暗黙の了解が含まれています(もちろんモノの回転のような回転ではありませんが)。しかし、それはあくまでも時空という概念をベースにして高次元のカタチや運動を描像しているからだろうと思います。虚時間宇宙の中には通常の意味での時間は存在しないのですから、素粒子はいかなる回転もしていないとも言えます。永遠の中では回転という運動は、円環という幾何学構造体としてスタティックにただ「在りてあるもの」として存在しているとしか言い用がありません。無境界仮説により創造の瞬間という問題を一応はクリアしたホーキングも次のように言います。
「宇宙は創造されたものではなく、消滅することもなく、ただ存在しているだけです。従って、創造主の出番はどこにあるのだろうか。」
この「ただ存在しているもの」の中には創造のマトリックスとしての神聖なる幾何学が息づいています。その幾何学領域こそが神のスペルマが注入される女なるものの子宮のことであり、哲学者たちはそれを「コーラ(容器)」と呼び、物理学者は素粒子と呼び、宗教者たちはそれをサンサーラの環と呼んでいる………おそらく、それらはすべて同じものを指しています。ヌース理論が「次元観察子」と呼ぶんでいるのもこの永遠の器のことなのです。
さて、改めて自身の「前」に久遠を見てみましょう――ここにはもはや時間はないわけですから、身体を回転させてどの方向を見ようと、そこにはもう回転は存在していないと考えなければなりません。そして、事実、そこにはただ「前」という一つの方向性があるだけです。こうして、わたしの周囲を取り巻いていると考えられていた知覚球体は、虚時間概念の導入のもと、もはや球体とも呼べないものとなり、ただ無限小の長さを持つ4次元の線分として見えてきます。この顕在化した4次元の線分のことをOCOT情報は3次元空間から垂上する力という意味で「垂質」と呼びます――こうして物理学が電子のスピンと呼んでいたものの実体が僕らの意識に、自己そのものの器(コーラ)として顕在化してくるわけです。電子のスピンとは「わたしの前」のことであったのだと。。
コ : 変換人の意識にはモノはどのように見えてくるのでしょうか?
オ : 位置の等化においては、それは垂質に見えてくることでしょう。 (シリウスファイル)
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 1 • Tags: 人類が神を見る日, 位置の等化, 内面と外面, 素粒子