11月 28 2006
天と点
米国出版が決まったということで、「人類が神を見る日」を7〜8年ぶりに読み返している。この本のキモは「無限遠点にいるわたし」のところなのだが、どうもその描像が弱い。英訳本では少し補足が必要かもしれない。
僕らの魂を天上へと帰還させるための第一歩がヌースでいう「位置の交換」という作業である。これは自他においてモノの手前に感覚化している自身の位置をモノの背後側の無限遠の位置へと移せという意味だ。では、なぜ、モノの手前側にいる「ボク」を消去する必要があるのだろうか?このボクは文字通りボクが自意識を持って以来、常に世界の中心であり続けてきた。世界中に散在するどのような「ボク」もおそらくこの中心から世界を観察し、周囲に展開される風景の中で思い思いの人生を歩んで来たはずだ。しかし、この位置にボクが居座っている限り、かの雷鳴は轟かない。真の恋人たちに打ち降ろされるあの雷光の一撃は中心と周縁の反転によってこそもたらされるのだ。そう、交換不能とされたものの交換、すなわち主体の交換を達成するために——。
3次元認識の中では対象(figure)の背後側には背景(field)としての空間の延長性が想像されている。その背景は対象の認識においてはかかせないものだ。地と図の関係でも明らかなように、僕らはこの背景としての「不在」をベースにすることによって、対象としての「在」を認知している。だから、普通はこの不在としての場所、すなわち空間は客体とは呼ばれない。
さてこの対象の背景として在る空間はどこまで続いているのだろうか?天文学者たちは今や数十億光年の彼方に銀河団やクゥエーサーを発見しているが、当然それらの場所にも背景としてしかと空間が映り込んでいる。事象の地平線というものがあるために観測は不可能とされているが、深宇宙の底なるものは物理的には特異点と呼ばれる場所にあたる。これはこの宇宙における実質的な無限遠の位置であると言っていいだろう。そこは同時に約137億年前の宇宙の始源の姿でもあるが、大事な事は、それが観測者を中心とした天球面そのものでもあるということだ。
さて、近代的思考はいとも簡単に観測者の位置を空間上の一点と見なすが、観測者であることの絶対条件として、観測者という点はそれが観測位置である限り、この特異点としての天球面を必ず具備していなければならないということが分かるはずだ。なぜなら、世界が自己の前に開示しているということは周囲に天球面が張られていることと同じ意味を持つからである。これは言い換えれば、天球面が観測者の認識位置を規定しているということでもある。ヌースで観測者の位置が無限遠点にあるという意味はおおよそそのような意味と考えてもらっていい。観測の位置が単なる点ならば観測者は単なる物体と何も変わりはない。
こうした宇宙大の自己の位置が地上へと引き降ろされる契機は他者からの眼差しによってもたらされる。周囲に浮かぶOs-irisの機能としてのの他者の目。その眼差しによって宇宙大の自己、すなわち光は物質的な肉眼へと収縮を余儀なくされるのだ。実存の位置としての「天」が、地上世界の「点」へと引きずり降ろされる事件である。Os-irisの瞳孔とは水の鏡でもある。他者の目に映った自分の目を想像するといい。その目はポツンと3次元空間の中を彷徨っている。これこそが水の受難でなくて何であろう。水に沈められた魂は自らを肉眼の内部、頭の内部、肉体の内部にいるものと信じ込み、その存在(意識)の起源は、その内部性を辿りにたどって脳の電気的作用にまで還元される。こうして、モノの手前に自分の住処があるという信仰は魂を去勢された科学信仰によって徹底して強固なものにされていく。この魂の閉じ込めの圧政は強力だ。
対象と観測者を結ぶ線、その本来の姿は3次元空間上の1/∞と∞を結ぶものだ。こうした線分は数学的には4次元方向の線分として解釈されることになる。その意味で観測者と対象との距離は4次元の距離とならざるを得ない。つまり、モノとわたしは4次元空間として隔てられているのだ。もちろん、相対論はこのことを語っている。わたしから広がる空間は3次元空間ではなく時空なのだから。しかし、問題は、モノの手前の空間とモノの背後の空間の区別がつけられていないことだ。なぜそのような暴挙が平気でなされているのだろうか。それは観測者の位置を押し並べて「点」と見なしていることによる。自他それぞれの知覚においては、1/∞と∞は全く逆の関係にあることを僕らは知らなくてはならない。光は双子なのである。
そろそろ君の目にもこの宇宙挟んで対峙する自他という4次元空間の反転関係が見えてきた頃だろうか?所詮、時空なんてものは君一人だけの世界なのだ。
2月 2 2007
差異と反復………13
●運動量の量子化
px → -i(h/2π)・∂/∂x
py → -i(h/2π)・∂/∂y
pz → -i(h/2π)・∂/∂z
量子の世界は「差異と反復9」で挙げた回転運動であるe^iθをベースとする波動関数ψ(r,t)(r=x,y,z t=時間)で表される。粒子の運動量p(の確率)を知るためには、上に示したように波動関数ψを位置座標(x,y,z)で微分して、-i(h/2π)を掛けることで取り出せる。古典力学では単なる物理量としての運動量(質量×速度)であったものがが、どうして、量子力学ではこのような演算子へと置き変わってしまうのか、今のところそのことについては誰も明確に答えることはできていない。ただそうすれば量子世界の実験結果とうまく符合するからそのようにしている、という程度のものだ。しかし、空間認識を単純な3次元認識から、自他の差異を考慮したキアスム認識へと変えると、この量子化という操作が単なる数学的技法ではなく、厳然と存在する現実的な空間構造に基づいて要請されてきたものではないのかという推察が生まれてくる。つまり、古典力学の範囲では観測対象は単に人間の内面認識で構成されたものだったのだが、量子力学では物質の本質をミクロの極限にまで遡ったことによって、ついに人間の外面と内面が絡み合う観測者(主体)の実存の場である4次元空間(4次元時空のことではない)の構造にぶち当たってしまったのではないか、ということである。
一方、位置演算子の方を見てみよう。運動量演算子が微分で表されるのに対して、粒子がどのへんにいるかという確率を知るための位置演算子はそのまま、
●位置の量子化
x → x
y → y
z → z
というかたちで横滑りに置換される。これは当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。物理学が対象の「位置」と呼んでいるものとは内面認識そのものを支えている概念だから、ここにi軸がダイレクトに関わることはないし、またi軸が関わらなければ微分も起こらないだろう。こうした見方で、光子(複素平面上の単振動)とは一体何かと考えると、当然それは、自他間が持っているψ3-4、ψ*3-4という3次元空間自体に潜在しているキアスム構造の中を反復している意識(空間をイメージし象るための想像力)なのではないかということになってくる。
以上のような考え方を持って、複素平面をもう一度見つめてみよう。すると、量子力学における運動量の量子化とはψ4-ψ*4(複素平面上の実軸)という人間が持った3次元空間の概念を90度回転(微分)させて、ψ3-ψ*3という外面に接続させるための、まさに差異化の物理学的表現のように思えてくる。このことはe^iθ上において実空間側は微分されると虚空間側に反転する、ということの意味でもあるのだろう。言葉ではとても難しく聞こえてしまうが、これはとても単純なことを言っていると考えていい。すなわち、空間認識の視線を左右方向(客観的視座)から、奥行き(主観的視座)に向けてみろ、ということだ。前に説明したように、空間認識の視線が奥行き方向に向くことによって、そこには射影空間が持つ「内と外の捩じれ」の性質が顕在化する。内部と外部の関係が自他で相互に反転しているとするならば、その捻れは、自他間でイマージュや言葉を行き交わさせている交通空間のカタチの在り方と言えないこともない。そこで、君と僕はつながっているよ、というわけだ。
ψ4-ψ*4軸(実空間)からψ3-ψ*3軸(虚空間)への反転。この反転によって僕らか宇宙と呼んでいる外延空間の広がりは、そのままプランクスケール大の点的な球空間の中に直結する。つまり、主体が定位している純粋知覚の場においては4次元という方向が直立し、そこから見ると宇宙半径とプランクスケールの世界は同じものに見えてしまうということなのだ。前回、ψ3とψ*3とはそれぞれマイナスとプラスの点電荷のことだと何の断りもなしに言ったが、どうして、ψ3が点状の対象として見えるのか、今回の内容で少しは理解していただくことができたかもしれない。実際、場の量子論の中では運動量の確率密度は電荷密度と同じものと見なされているようだ。
ψ3から見て無限大と無限小が同じものに見えるならば、ψ3にとってはψ4もまた、微小領域の振動として把握されているに違いない。なぜなら、ψ4-ψ*4軸がψ3-ψ*3軸へと反転した時点で、今度はψ3-ψ*3軸がψ4-ψ*4軸へと反転していることが予想されるからだ。その意味で、自他間における主客認識のキアスムが、差異を知らない人間の内面認識にとって光子という粒に見えたとしても何の不思議もない。ちなみにOCOTたちが語り伝えてきている幾何学はこの複素数平面に始まる複素n次元空間の幾何学の可能性が高い。それはドゥルーズが常々語っていたイデア=高次元多様体の世界のことでもある。
90度とは何ですか?
反転する力のことです。
正方形とは何ですか?
位置を変えていくための方向性の相殺です。
方向性の相殺のためには何回の反転が必要なのですか?
3回です。位置の交換、位置の等化、位置の変換。
(シリウスファイル)
こうして、僕らは次のステージにおける差異、つまり、ψ3とψ4の差異であるψ5とは何なのかを考える必要が出てくる。なぜなら、ψ3-4を反復させている力の正体はそれらを等化した精神にあるだからだ。
お〜い、早くやめろぉ〜っ。って声が聞こえてこないでもないので、次で締めますかね。
By kohsen • 差異と反復 • 1 • Tags: イマージュ, ドゥルーズ, 位置の交換, 位置の等化, 内面と外面, 差異と反復, 量子力学