6月 26 2018
ヌーソロジーはハイデガー哲学とも似ている?
ヌーソロジーには本来的歴史性の構造として、26,000年を下のような6,500年の四段階に区分する考え方がある。
1.付帯質の外面
2.付帯質の内面
3.精神の内面方向
4.精神の内面
これと似たようなことを考えた哲学者がいないかと探していたら、ハイデガーが同じような考えを持っているのが分かった。
ハイデガーの場合は、この本来的歴史性をプラトンの「洞窟の比喩」との関連性で語っている。
1.地下の洞窟における人間の状態
2.洞窟の内部における人間の解放
3.根源的な光への人間の本来的な解放
4.洞窟への自由な者の帰還
ハイデガーにおいては、この歴史的変遷は存在の取り戻しを意味する。
つまり、ハイデガーは、洞窟の外と内を往還する「解放者」の在り方を、本来的時間における歴史と捉えているわけだ。ただし、ハイデガーには、この段階の切り替わりが6,500年云々~といった話はない。
とにかく、人間を被造物の枠に幽閉している一神教の精神から逃れることが重要。この精神が「付帯質の外面(あるものの世界)」のガードを強固に固め、存在を隠蔽している。人間は物体的な存在でもなければ、生物学的な存在でもない。「付帯質の内面(なるものの世界)」が開けば、それは見えてくる。
※付帯質の外面から付帯質の内面の移行とは、いつも言っている「幅認識」から「奥行き認識」の世界への移行と同じ意味です。
9月 12 2018
付帯質先行の力を減衰させていくために
付帯質先行の力を減衰させていくためには、物理学的世界観が作り出している世界幻想を、物理学に内在する論理を使って一つ一つ消していくことが必要だ。
たとえば、素粒子は複素空間で記述される。しかし、素粒子とは本来、人間が他者構造によって時空側を世界と見なしたがために、そのズレを是正する変換性として出現しているものにすぎない。人間がその是正に意識的になれれば素粒子は存在の意義を失う。
つまり、不要なものとも言える。だから、世界は素粒子でできているわけではない。ハイデガーの言葉でいうなら、素粒子とは、被投性としての存在者の領域と、存在へと方向づけられた現存在の領域(被投的企投)が表現されているものだということ。どちらも、被投性の産物であり、存在そのものの領域ではない。存在自体は元素に反映されている。
つまり、素粒子の世界とは人間の意識の内面と外面の構成が、時空に表現されたものだということだ。内面(中和系)がボゾン。外面(等化系)がフェルミオン。ケイブコンパスで表現するとこんな感じになる(下図上参照)。
精神の対化間(自他)における空間の捻れ(相互反転性)が見えていないのがボゾン。見えているのがフェルミオン。そのそれぞれのカタチの違いがスピン1(整数)とスピン1/2(半整数)という各粒子の性質の違いに反映されている。幅認識の支配がボゾン、奥行き認識の支配がフェルミオンという解釈でもよい。奥行き認識が作り出している空間の方は人間のアプリオリとして無意識化している。奥行き認識は無限遠点を持っているので、空間の捻れを了解しているということ。
無限遠点は精神の連続性を担保しているものでもある。観察位置が無限遠点ということ見出さない限り、精神の連続性(存在の一義性)が思考に上がることはない。言い換えれば、無限遠点=観察位置の覚知は永遠回帰の絶対的条件であるということ。
奇妙な言い回しになるが、無限遠点に観察位置を見出すことによって、時空はコンパクト化を果たし、人間の空間認識は内部空間に移行する。全く住む場所が変わるということ。主客一致の空間にワープするということ。ミクロ系が世界になるということ。死が持続に姿を変えて現れ始めるということ。
空間のコンパクト化と観察位置の関係についてはシュタヌー本では下のような図で示した。直線は観察位置を取り込むと円環になる。観察方向は射影線となり実数では表現できず、虚数軸となる(下図下参照)。
知覚正面そのものの絶対的不動性(視野空間をモニターとして見た空間)は、この虚軸によって担保されている(時空内には存在していないということ)。
わたしたちは、本当は物の中にいて、他者構造(奥行きの幅化)を使って物の外を作り出し、物の中から、肉体と物を見ている―それが意識的真実。
付帯質先行の力の減衰はすでに始まっている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, ハイデガー, 付帯質, 素粒子