12月 8 2010
久々の東京でのミニレクチャー
去る12月4日は東京での久々のミニレクチャーと忘年会。まずは参加していただいた皆さん、どうもありがとうございました。温かい雰囲気に終始包まれた集まりでしたね。2次会〜3次会もほぼ全員参加で賑わい、講師として呼ばれた本人としてはとても嬉しい時間を過ごさせていただきました。参加してくれたメンツの職種もほんと多彩でしたね。デザイナー、アーティスト、プログラマー、DJ、会社員、無職、整体師、ライター……。一人一人が自分の意見をしかっりと持った主体的な人たちが多く、年齢層も下は20代前半から上は60代までと幅広い世代をカバーしていました。こういう幅広いレンジの人たちが思い思いに自分の考えをぶちまけられるのが、いつもながらヌーソロジーが作り出す空間の心地よさなんだろうなと改めて感じました。会を主催をしてくれたヌーソロジーロッジの管理人のRicardoさん、そして受付を担当してくれた日比野さん、撮影を手伝ってくれたSimoonさん、ほんとにありがとね。
さて、ミニレクチャーの内容は「ヌーソロジーの世界ビジョン」というタイトルで2時間弱話させてもらいました。正直、この手の話をコンパクトにまとめるのはちょっと難しかったかなぁ。ちょっと散漫になってしまったと改めて反省しています。なんせ東京でヌーソロジーについてまとまった話をするのは約7年ぶりです。この間、僕自身が持っているヌーソロジーに対する立ち位置も随分と変化していて、今は次の思索段階への準備期間といったところ。とりあえず、これまでの思索遍歴をまとめてみると………。
■ 90年代前半………OCOT情報をリアルタイムで受け取っていた時代です。この頃はOCOT情報とオカルティズム関連の思想体系を並行させながら何とか霊的宇宙の全体像を描くことに苦心していました。
■90年代後半………95年にオウム事件が起こり、オカルティズムを全面に出すのはまずいと感じ、今度は物理学との接続へと方向転換。そうしているうちに『人類が神を見る日』と『シリウス革命』の二冊を上梓。
■ゼロ年代前半………この頃、ゲージ論の研究者の砂子さんと知り合う。その路線で構造の精緻化をはかり『光の箱舟』を上梓。合わせてその頃、ドゥルーズを知る。これによってケイブコンパスのモデルが出来上がる。
■ゼロ年代後半………ドゥルーズを筆頭として、フロイト、ベルクソン、フッサール等の20世紀の思想家たちの様々な理論とヌーソロジーの類似点をいろいろな角度から探っていく作業が続いた。
現在は、ヌーソロジーとドゥルーズ哲学の類似点をより深く理解していくために、スピノザやライプニッツの思想を知り、さらにはスピノザ-ライプニッツから、今度は再びルーリアカバラへと至り、結局はまた近代オカルティズムのルーツとなるネオプラトニズムやグノーシス思想へと回帰して、結局のところそれらを含めた古代思想全般の大海の中に舞い戻り、再び、スタートラインに立っているといった感じだ。OCOT情報に対する最初の解読の契機がカバラ思想だったことを考えれば、この間、西洋思想が取り組んで来た形而上学を巡る歴史全体をごく大雑把にではあるがグルッと往復させられたことになる。
ということで、今回の東京でのミニレクチャーはその思索の往復運動によって見えてきた存在の巧妙な構造について新しいモデルを持ち込んでその概要を紹介してみました。そのモデルが………ワン、ツー、スリー……これだぁ〜。
noosとnos、noos*とnos*による「8」の字型の二重サーキット——あえて名付けるならば「ツイン・ツイスティッド・ウロボロス」とでも言おうか、要は、存在の円環は二組の自己双対的なエネルギー流動を内包する「8」の字型のサーキットで互いに捩じられ、互いに双数的関係を持って4値的に構成されているということだ。今回のミニレクチャーではこの地図を土台にして好き勝手なことを喋らせてもらいました。ライブ映像が新春にもヌーソロジーロッジのUSTの方で公開されるということなので、興味のある方は是非、チェックしてみてね。
2月 4 2013
「見ることが起こっている空間」と「見られることが起こっている空間」
世界の認識は「見ることが起こっている空間」と「見られることが起こっている空間」の二重化で成り立っている。しかし、人間は一般に「見られることが起こっている空間」でしか空間をイメージしていない。なんでそういうことになるのかと言うと、人間という存在は「見られる」ことによって自我の基盤的位置を確保するように仕向けられているからだ。
だから、人間においては「見ること」はいつも「見られること」に従属して認識されることになる。つまり、「見られている」空間の中で「見ること」が起きていると思っているのだ。幅の空間で片方に目を置き、もう片方に対象を置く。そしてそれを線で結ぶ。そして、「はい、これが見ることです」と。。この何とも平板的な空間認識の在り方が実際の宇宙の在り方を大きく歪曲している。
「見ることが起こっている空間」と「見られることが起こっている空間」の差異は、実は量子論において初めて出現してくる。それが位置空間と運動量空間の関係になっている。だけど、物理屋さんたちは相も変わらず「見られることが起こっている空間」の中で、その差異について考えているものだから、「量子における位置と運動量の不確定性」という曖昧な概念で片付けるしかなく、それより先に進めないでいる。
早い話、位置空間とは幅の空間で構成された3次元性のことであり、運動量空間とは奥行きの空間で構成されたソレのことなのだ。両者は互いに反転している。前者で「見られること」が起きており、後者で「見ること」が起きている。物理的時間(継起する現在)というものは「見ること」が「見られること」に支配されてしまった状態において初めて出現してくる。「見ることが起きている空間」にはもともと「永遠の現在(純粋持続)」しか存在しない。この「永遠の現在」が世界を、そして、人間を支えていることに僕らは早く気づくべきである。
ライプニッツはすでに運動量の概念をこの「永遠の現在」に近い「コナトゥス(自己保存力)」という概念で捉えていた。だけど、これをニュートンが台無しにしてしまった。今の物理学は、言うまでもなくニュートンの系譜で成り立っている。運動やエネルギーという概念から、この内在性の基盤力としてのコナトゥスの力を排除してしまったのだ。だから、物理学はごくごく表層的な世界認識しか持てないでいる。素粒子の体系をいかに高次元で数学化しようとも、それは存在を数学的形式として舐めているだけにすぎず、その形式が内包している真の深みの中へと侵入することはできない。素晴らしい成果なのに、ほんと勿体ない話なのだ。
「永遠の現在」が息づく空間を僕らは新しい宇宙的知性の名のもとに奪回しなくては行けない。でないと、人間は宗教と科学が持った相異なる超越性の中で常に不毛な対立を続けるしかない。宗教的権威と科学的権力から人間精神が自由になるためにも、僕らには新しい知性が必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: コナトゥス, ニュートン, ライプニッツ, 素粒子