7月 28 2010
カバラは果たして信用できるのか?
去年の8月に始めた今回のヌースレクチャーシリーズもいよいよ来月21日でフィナーレを迎える。途中1回の休みを挟んでの月例12回のレクチャー。ほぼ計画した内容通りに終われそうで少し安堵している。今回のヌースレクチャーはDVDとして残す計画もあったので、自分の理解が中途半端な部分の露出、紹介は極力避けた。その意味で物理数学的な構造的内容が少し不十分だった感がある。これからしっかり学習し、次回のレクチャーで雪辱を果たそう。
今シリーズの最終レクチャーのタイトルは「ヌーソロジーとユダヤ神秘主義」とした。これは実はレクチャーをスタートさせた時点ですでにオーラスに持ってこようと考えていたテーマだ。今の文明はユダヤ的なるものに支配されている――僕自身、ずっとそういう直観があって、この霊的呪縛とも言えるような強力な思考様式の拘束力からどうやって縄抜けするのかがヌーソロジー構築の目的でもあるからだ。もちろん、ここで言っている「ユダヤ的なるもの」というのは、フリーメーソンとかやれクラブ・オブ・アイルズとか、そういった陳腐な陰謀論のことを言っているのではない。ユダヤ神学の骨格として脈々と受け継がれてきたカバラ神秘主義による無意識的な抑圧のことである。
西洋オカルティズムの魔力に取り憑かれた人たちはいつもカバラを引き合いに出し、いかにもそこに込められた秘教的知識が何かとてつもない真理を含んでいるかのように誇張して語りたがる。確かにそこには人間理性では推し量ることのできない神聖なる智慧がユダヤ的精神独特の言語的感性の中に秘沈しているのかもしれないし、厳格な歴史の中で継承されてきた一民族の知的結晶をやみくもに批判するほど僕自身オカルティズムに精通しているわけでもない。ただ、僕自身、自分の育った環境も手伝ってか、ユダヤ思想全般が漂わせているオイディプスコンプレックス臭がどうも苦手で、その元凶がその密教的側面としてのカバラ神秘主義にある気がしてならないのだ。不敬なこととは知りつつも「ヤハウエかハハウエか知らんが、おまえらの神がなんぼのもんじゃい」と言いいたい欲求についつい駆られてしまう自分がいる。
もちろん、ヌーソロジーが様々な秘教的伝統の中でも特にカバラにこだわるのは、ユダヤのラビたちが研磨し続けてきたカバラの智慧が構造的にはOCOT情報が伝えてきた宇宙像に極めて類似しているからではある。しかし、OCOT情報との間に一点だけ決定的な違いがある。その一点の違いがカバラに対して僕自身どうしても合点がいかない部分となっていて、その一点の欠落がカバラをその本来の性格とは真反対のものにしているのではないかという懸念を感じてしまうのだ。
その一点とは、一言で言えば「カバリズムの逆転」である。つまり、セフィロト理論のベースとなっている「生命の樹」の構造は実は上下と左右を逆転させた構造を合わせ持って見なければ、真の叡智とはなり得ないのではないかという疑念である。旧約的に言えば、従来、継承されてきた「生命の樹」とは実は「知識の樹」ではないかということだ。その意味で、未だ誰も「生命の樹」自体の秘密を解き明かしてはいないのではないか——また、そのことがカバラ思想をオイディプスコンプレックスの権化とさせてしまっている原因ではないのか、そう思えてならないのだ。
カバラの発祥は学術的には定かではない。その原形はモーゼがシナイ山で受けた神託にあるというのが定説だが、それ以後カバラは地中海地域の思想の変遷とともに、ネオプラトニズムやグノーシス主義などを吸収し、様々な形で修正を余儀なくされていった。もっとも劇的な修正(というか革新?)は16世紀半ばのイサク・ルーリアによる「ツィムツーム(神性の収縮)」「シェビラート・ハ・ケリーム(容器の破壊)」「ティックーン(器の修復)」という三段構えのセフィロト理論だ。僕の直観ではカバラはここで大きく変質を被っている。それがいい変質であったのか悪い変質であったのかの判断は微妙なところだ。16世紀と言えばちょうど近代理性が顔を覗かせる前夜といった時期だが、カバラ思想自体もそうした人類の無意識構造の切り替わりにいち早く敏感に反応したということなのかもしれない。とにかくカバラは新しく登場してきた「human(人間)」という概念に備えてその姿を変える必要があった——近代という砂漠的な精神性に順応するために衣替えの必要があったのだろうと思う。
そこで歴史が必然的に用意してきたのがモーリス・コルドヴェロとイサク・ルーリアの二人のキーマンである。ルーリアの師的友でもあり良きライバルでもあったモーリス・コルドヴェロが「ゾハールの書(13世紀末に書かれたというカバラの聖典)」のセフィロト論にベヒノト(各セフィロトにおける六つの内的諸相)という概念を付加し、より動的にセフィロトの解釈を試みたことに続き、ルーリアはコルドヴェロ以上により大胆なセフィロト理論の修正を試みた。それが上に書いた「収縮ー破壊ー修復」という三重のプロセス理論だった。コルドヴェロの方は優れた理論家でありその論立ては修正というよりも緻密化であり、カバラを踏襲してきた過去の伝統的なラビのイメージを出るものではないが、ルーリアは違う。日本で言えば空海のような、突然、現れた霊的な天才といった感がある。彼には決まった師匠がいたわけでもなく、自らに降りて来た霊感(一説によれば預言者エリヤと交感していたとも言われる)によって長い歴史を持ったカバラに大胆な修正案を提示していったのだ。
――つづく
7月 30 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その3
——前回よりのつづき
アッシャー(活動界)で機能する5つのセフィラー群(ティファレト、ホド、ネツァク、イエソド、マルクト)において、マルクト以外は「器の破壊」によって粉砕された容器の痕跡が残響させているいわば陽炎のようなもので、極めて弱々しい微光しか放ってはいない。そのため、アッシャー自体はマルクトが反映させる物質に内在する神のペルソナを明確に感受することができない。それどころか、マルクト自体がケテルの倒立像と言ってもいいようなセフィラーでもあるため、ケテルの力をそのまま創造とは逆の方向へと倒錯させる性質を内包させている。マルクトの上位側に弱々しい上昇の残光が立ち上る一方、その下位側では倒錯した流出界の三幅対(トライアーデ)であるケテル・コクマー・ビナーの発する強烈な光が、存在の逆光を作り出しているという構図である。アッシャーを支配するこれら両者の霊的な力学関係は圧倒的に下位側に有利な状況を作り出す。つまり、存在の全体性はマルクトを起点として真反対側に自身の鏡映を作り出す性格を所持しているのである。ここに生まれる鏡映がルーリアがクリフォト(殻)と呼ぶ世界である(ヌーソロジー的には「止核」が作り出す「内心」と考えればよい。自我が他我化した世界である)。クリフォトはルーリアによれば宇宙の邪悪な勢力が跋扈する世界とされる。
ルーリアが何故にここでクリフォトという新しい概念を提示したのか——そこには、当時、ユダヤ人たちが置かれていた政治的状況が深く関係していると言われている。本来、唯一絶対の創造主が、なぜ世界に悪などといった不純、不要で有害なものをもたらしたのか——ユダヤ教が持ったこの根底的な矛盾のためかユダヤ教自身、悪の形而上学を詳細に展開することに対しては躊躇いがあった。しかし、1492年にスペインでユダヤ人追放令が発令されて以降、ユダヤ人たちは自分たちの歴史が持った追放と流浪という悲壮な境遇について、ユダヤ教の教義の上から再度、理屈づけする必要に駆られた。もちろん、そこにはユダヤ人たち個々における自意識の目覚めという時代的な変化もあったに違いない。ユダヤ教の教義を剽窃したキリスト教がヨーロッパを席巻し、その本家であるユダヤ教徒たちが異端、邪教の烙印を押され謂れのない迫害を受け続けていく。当然、彼らが世界を覆い尽くしている悪の存在を強烈に意識化させられるのは当然のことだ。ルーリアの霊感はこの悪の闊歩によって危機的状況に陥っている民族のアイデンティティーを堅守、保持することを自身の使命と感じたのかもしれない。事実、ルーリアが展開したこの理論は、当時、各地に散在していたユダヤの共同体、特に一般民衆たちから熱狂的に迎え入れられた。絶望的な状況に出現したまさに一条の光だったのである。伝統的に、厳格、保守を重んじてきたユダヤ教のラビたちも大衆のあまりに熱狂的な支持にルーリアに準ずるしかなかったのだろう。そうやってルーリアの思想はユダヤ思想の一大革新運動へと発展していったという。
では、ルーリア思想の何がそれほどユダヤの大衆を魅了したのか。「収縮」「器の破壊」に続くルーリアの筋書きはおおよそ次のようなものである。マルクトを基点としてアッシャーを仄かに覆う創造への微光とは神の花嫁としてのユダヤの民の精神そのものことである。そこにはこの微光の成長を阻止、妨害しようとするクリフォトの力の勢力が存在するが、アッシャーの存在意義はこの破壊されたイェッツェラーをそのクリフォトの力に惑わされることなく、再度、復旧させ生命の樹全体に託された創造のプロセスを完遂させることにあるとされる。これが三番目の「ティックーン(器の修復)」と呼ばれる作業だ。ルーリアが与えたのはまさに救済の具体的なシナリオであり、世界におけるユダヤ民族の存在意義だったというわけである。
(以上、参考文献 『ユダヤ神秘主義』G・ショーレム、『カバラーと批評』ハロルド・ブルーム)
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 0 • Tags: カバラ, クリフォト, マルクト, ユダヤ, 生命の樹