12月 22 2006
星を継ぐ者
言葉の第一の機能は事物の登録である。
「これはリンゴである」というとき、そこには他者との相互了解がある。僕がリンゴをみかんと呼ぶことも可能だが、そう呼んだときには、僕は社会的人間にはなれない。三者以上の人間が集まるとき、そこには言葉による権力の構造ができあがる。二人の人間の間では言葉の登録能力は極めて曖昧だ。「君がその丸い赤い物体をリンゴと呼ぶのは構わない。しかし、僕はみかんと呼ぶ。お互い意見が合わないのは仕方ない。それはそれでいいじゃないか。」ということで済む。二人では社会は生まれない。だから政治も生まれない。そこはいわばむき出しのリアルの格闘と友愛の場だ。だから、言葉の秩序の中に参加することは自己が第三者の視点を内在化させることに等しい。こうした移行は精神分析的には想像界から象徴界への移行として例えることができる。
観察子構造にも実はこれと似た構造がある。自他を規定するキアスムは3次元球面上の対極点として現れる。それは常々言ってるように(0,∞*)(0*,∞)という関係だ。この関係がある限り、自他間において空間の3次元性は互いに反転して見えている。つまり、モノの内部性と外部性は相互にひっくり返った状態にある、ということだ。そしてそれらはメビウスの帯状の捻れによって等化されている。これは言い換えればコミュニケーションの原器となる構造体と言える。君の表が僕にとっての裏となり、僕の表が君にとっての裏となる。話す事と聞く事に代表されるように、両者の間にはスムースな変換機構が機能しているのだ。その意味で言えば、ここには強固な形での自己-他者の対立はない。二つであって一つ、一つであって二つの生き物がそこには生息しているのだ。
しかし、前回話した、SO(4)対称性が現れるときに事態は一変する。具体的にはここでは書かないが、簡単に言えば、前後*-前*後として働いていた意識軸が左右方向へと90度回転を起こしてしまうのだ。これがどういうことかすぐに分かるだろう。対面する自他の関係を真横から見る視座が生まれてしまうのである。この回転によって(0,∞*)(0*,∞)としてコミュニケートしていた自他の位置は一気に(0,0*)(∞,∞*)に偏極を起こし、それぞれを同一化させてしまう。つまり、3次元空間の相互反転性を持った自他間の交通空間は下部構造として見えなくさせられ、上位に外界としての単一の3次元認識が出現してしまうのだ。前回が僕が「モノ概念」と呼んだものである。モノ概念はモノの外部性/外部性*の等化と内部性/内部性*の等化に支えられて、モノと空間というように、確固とした存在者としての概念を獲得するというわけだ。
こうした左右方向からの眼差しの侵入によって、僕らは、モノを挟んで対峙する自己と他者というイメージを内在化させることが可能になる。この視点が第三者的視点であることは言うまでもない。この眼差しは自他の間に置かれたリンゴがリンゴ以外の何ものでもないという判断を相互了解の下に下すジャッジの眼差しである。それは正しい、それは間違っている、それは真実だ、それは虚偽だ——等、登録の機能は了解可能性とともに否定的な力をも同時に呼び込んでくるのだ。空間構造との対応で言えば、実はR^3という3次元認識も、また、S^2という球面認識も、この眼差しの下に構成されている。つまり、モノ概念とは認識の統一を作り出す代償として、個々の知覚(リアル)=主体を否定する側面も持ち合わせているということだ。こうしたフェイズに無意識が入ることをヌースでは「表相の等化」と呼ぶが、ここに言語機能、つまり、ファルスが発生することになる。個人の意識発達で言えば、幼児が母親との想像界的関係から離れて象徴界的秩序に入ることを意味するし、歴史的無意識の発達で言えば、多神教世界から一神教世界への移行とも言えるだろう。
「表相の等化」から反対側の3次元球面へと入って行く段階は次元観察子で言えばψ9に入る。ψ9とはψ7とψ*7が合わさったものだ。ψ7が陽子とすれば、ψ*5〜ψ*7で電子のスピン(自転)と電子のs軌道(公転)を用意する。つまり、水素原子の誕生というわけである。中性子側は面倒なのでここでは触れないが、人間の無意識構造と水素-ヘリウム元素はおそらく同一のものである。その意味で言えば、今の人間の意識は未だ水素とヘリウムとして宇宙空間を彷徨っている。星を継ぐ者が現れるのはいつの日のことになるのだろうか。
1月 20 2007
差異と反復………7
単に3次元の広がりとしてしか認識されていないこの空間には反転したもう一つの3次元空間が重畳している。一つは客体の場(人間の内面)となり、そして、もう一つは主体の場(人間の外面)となっている。これがヌース理論がこの十数年の間言い続けてきていることだ(前者が次元観察子ψ4、後者がψ3に対応する)。
この二つの空間を可視的なイメージに置き換えることは可能だ。それには下図に示したよう正六面体のフレームワークを紙の上に描いてみるといい。この正六面体を3次元立体として見ると二種類のものがイメージできるはずだ。そして、それらは相互に反転していることが分かるだろう(ネッカーの立方体)。対象認識にはこうした2つの空間の存在が暗躍しているのだ。
このような描像を用いて対象界面をイメージしてみると、そこには対象の内壁と外壁が同居している様子が朧げながらも浮かんでくるのではないかと思う。つまり、反転した空間を考慮に入れると、モノと空間の境界面はその内部と外部それぞれの同一性を無効にするような形で存在させられているということになる。つまり、内部=外部、外部=内部という関係を成立させているということだ。内部と外部の向き付けが不能な面。。こうしたイメージはあのおなじみのメビウスの帯が提供してくれるのを僕らは知っている。実際に、前回紹介した2次元射影空間RP^2の切り口は縁のないメビウスの帯になることが幾何学的には分かっている。
つまるところ、僕らの対象認識においてモノの内部と外部を差異化させているのは、このメビウスの帯的な空間の捻れなのだ。これは別の言い方をすれば内部方向と外部方向を等化している力、つまりヌースでいう「最小精神」のカタチである。その等化に反映されているのが中和としての3次元空間だ。内部と外部の間に捻れがあるにもかかわらず、それが見えないと、その捻れ自体が境界のように見えてしまう。それがおそらくモノの界面の現出に潜むからくりである。トポロジカルな言い方をすれば、モノと空間の境界面とは4次元空間における2次元の結び目と言えるのかもしれない。僕らが慣れ親しんでいるのはひものような1次元図形の結び目だが、この結び目を作るには最低3次元の空間が必要になる。ひもの結び方を知っている者にとっては、結び目ができていようとそれは単なる一本のひもにすぎない。しかし、結び目が何か知らない者にとっては、それは奇妙なこぶのように見えてしまう。それと同じで、モノ概念は2次元の結び方を知らない3次元意識だけに存在するものなのだろう。
メビウスの帯の場合、捻りとは帯の幅方向の180度回転に当たるが、3次元空間の場合、捻られたのは無限小と無限大方向相互の180度回転である。このとき、人間が3次元認識の中で「点」と呼んでいたものは、無限大の球面(平面)のようなものに置き換わる。つまり、無限小と無限大の対称性が形作られたということだ。そこが背景正面としてのψ3の位置である。当然、その捻れが見えていないものが反映としてのψ4の位置となる。ψ4はψ3が持った捻れをψ1とψ2の境界のようなものに感じ、等化という回転(捻り)の働きが裏で暗躍しているがゆえに、ψ1(無限大方向)とψ2(無限小方向)の間を反復してしまうのだ。
こうして、等化=差異、中和=反復というヌース理論の文脈からの「差異と反復」の最も基本的な鋳型が幾何学的に構成されたことになる。ということで、次で終わろうかな。。長くなってしまった。。
By kohsen • 差異と反復 • 4 • Tags: メビウス, 内面と外面, 差異と反復