11月 16 2016
惑星たちの思惑
ヒト(人間の上次元知性体)の精神の対化がマクロ世界に映し出されたものが木星と土星だとOCOT情報はいう。木星は魂的世界の顕在化をすべて持ち霊的世界の礎を作っている。一方、土星はその力を相殺する側に回る。そして、この関係は鏡の向こうとこちら側という形で双対になっている。シオリズムでいう双子のカムナとアマナの世界というイメージだ。その意味で木星と土星の精神風景はすべてが美しいキアスムで結合している。
プラトンの『饗宴』を思い出そう。太古の昔、人間は背中合わせで繋がった手が4本、足が4本のアンドロギュノスだった。しかし、彼らがあまりに力を持ちすぎたために、神ゼウスはウラノス(天王星)に命じてこの接合を切り離す。
切り離された世界ではこの双子の関係の転倒が起こる。女だったものが男化し、男だったものが女化する世界とでも言えばいいのだろうか。土星が産み出した美しい物質たちは殺伐とした構造物へと成り下がり、木星が産み出した創造の精神の方は共感度の高い女の心へと変質する。
男は思考、女は感情というあのお決まりのステレオタイプ化したゲシュタルトが転倒世界の中に組み込まれるわけだ。
この二つに切り裂かれた手足各2本づつの生き物は「人間」と呼ばれ、彼らの活動は内惑星たちに委託される。地球、月、水星、金星、太陽、火星。ここで統括を任されるのが天王星から人間統治の命を受けた太陽だ。太陽は人間が再びアンドロギュノス化することのないよう人間であり続けることの歯車を回し続ける。
と言って、神ゼウスは人間を永遠に人間という檻に閉じ込めておこうとは考えなかった。アンドロギュノスであった頃の夢見を海王星を通じて与え、その記憶を完全に忘却してしまわないように取り計らった。神々のエネルギーが枯渇しないために、再び、人間を木星と土星に招き入れる必要があったからだ。
招き入れる役割はゼウスの兄であるプルートー(冥王星)に任された。神々の事情を知らない人間たちは、このプルートーを冥界の神として恐れた。太陽を中心に築き上げた自分たちの世界が破壊されてはたまらないと思い込んでしまったからだ。
歓迎されるべきものが恐れられ、本来、恐れられて然るべきものが歓迎される。この倒錯感覚は人間社会のここかしこに見ることができる。第9惑星の地位の座から引きずり降ろされてしまった冥王星だか、果たして、冥王星は無事に木星への扉を人間の前に開くことができるかどうか。。
その達成の徴(しるし)が惑星Xの発見となって現れると考えるといい。
――この物語はすべてフィクションだからね(笑)。
12月 14 2016
「嘘の鏡」についての補足
前記事について、もう少しイメージを広げられるように仏教(密教)的な説明を加えておくね。自己側のみについてだけど。。
転換位置(対象の外部の自他がいる場所)から見ると変換位置(対象の内部の自他がいる場所)の方は、すべての対象の内部に偏在していると考えていい。これは空海の『即身成仏義』にある「重々帝網なるを即身となす」のイメージに近い。―2008年『人類が神を見る日アドバンスト・エディション』の記述内容より。
「即身成仏」と聞いて、お寺の中でミイラ化しているお坊さんなんかをイメージしちゃアカンよ。それはバリバリ、ニンゲシ(人間型ゲシュタルト:笑)。「即身成仏」というのは奥行きの純粋持続感覚がまさにそれではないかなと感じてる。
その感覚を強めていくために、具体的な構造概念が必要となるんだね。そのうち、こうした空間認識が力を持ってくれば、転換位置感覚と変換位置感覚の主従関係が逆転していくことになる。
要は肉身のまま即時に成仏していくということだね。しかし、それは決して世界から消え去るということじゃないのね。世俗化した仏教はこのへんの話をうやむやで終わらせてしまうから、ついついモヤモヤが募るんだけど、まだまだ先があるんだよね。っつーか、ここからが実体の世界の始まりなんだよね。
ちなみに、このビジョンは「後ろの正面だあれ」の話でもあるし、カタカムナの「アマヤドルマリ」の話でもあるし、プラトンの「背中合わせの人間」の話でもあるし、ドゴン神話の「天上の二人のノンモ」の話でもあるし、十種神宝の「ヘツカガミとオキツカガミ」の話でもある。。。挙げるとキリがない。
大事なことは、こうしたイメージはすべて”素粒子世界の構造”になっているということ。ここがとても重要。そして、ここにはまだまだ続きがある。その世界を探査していくのがヌーソロジーだと思うといいよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カタカムナ, ドゴン, プラトン, 人間型ゲシュタルト, 人類が神を見る日, 十種神宝