1月 24 2022
メタアースで送る非日常的な日常
存在の鋳型というものがあるのなら、それは〈行って-帰る〉ことにあると言えるだろう。この〈行って-帰る〉はフラクタルである。陽子が行くことなら、中性子は帰ること。男が行くことなら、女は帰ること。君が行くことなら、私は帰ること。私たちは未だ行くことさえも知らない。
OCOT情報が「次元の交替化」と呼んでいるものも、この〈行って-帰る〉という存在に内在する運動のことだ。他者存在と自己存在の間で常に行き交う存在の血流のことと言ってもいい。そこでは行くことは帰ることでもあり、かつ、帰ることは行くことでもある。
このような〈行って-帰る〉ことを経験した意識の前に出現してくるもの。それをOCOT情報は「真実の地球」と呼んでいる。別名オリオン星。オリオン星などと言ってしまうと、どうしようもなく胡散臭さが漂うものだが、OCOTの口から出ると、何やら詩的に聞こえる(笑)
この〈行って-帰る〉プロセスを知らないものが「地球」であり、そこに生きる人間という存在だと考えよう。「嘘の地球」と言っていいかもしれない。中身のない地球。空っぽの地球。未だに地球化していない地球。それは地球を単なる物質としてしか見ず、精神化させられていない現在の人間のことでもある。
地球をこの「真実の地球」へと精神化させていくために働いているのが太陽系のようだ。太陽系はその意味で、地球に始まって地球に終わる。そこに大系観察子というヒトの意識構造が働いている。「宇宙には太陽系しかない」というのも、太陽系が存在の内部構造を受け持つ諸器官のようなものだからだろう。
じゃあ、太陽系外部の恒星って何よ?という話になるのだが、OCOT情報では、それはさっきの言い方をするなら行って帰ってくるものたちの意識の痕跡に当たるらしく、「ヒトの性質」という言い方をしている。これが人間における無数の自己意識を支えているという。太陽が行きなら恒星は帰りだということ。
そして、このような恒星の集まりである銀河系は「真実の地球」の反映のようなものだと言っている。地球という大地の内なる精神を支えているのは実は銀河系なのだと。つまり、存在の秩序の中で、この幅の空間の中に反転して表現されているわけだ。
シュタイナーとタメを張るような壮大な宇宙像に目眩がする思いだが、こうした超絶的な言明の背後にある存在のリアルを執拗に追い求めることが自分の日常になっているという・・・生きててよかった(笑)
7月 26 2022
存在を開こう
@jikucafe
返信先: @kohsenさん
核質で覆われた世界のなかでは、無核質は弱く、それを利用するという転倒したかたちで見られてしまうのでしょうか。アワとサヌキのように。
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半田広宣
@kohsen
はい。人間の経験的意識が活動している位置が核質と呼ばれるものに当たります。無核質は核質においては素粒子の全体性として反映されています。その意味では電子を始めとした素粒子を利用したテクノロジーは無核質を転倒させて利用していると言えますね。シュタイナーにいう堕落したエーテルのことです。
以下、雑感。
素粒子を土台にした物質世界全体が霊的世界(エーテル界・アストラル界・神界)の転倒として表現されているということが人間の意識にはまだ見えてない。その原因は自己が自分を他者と同類の存在と思ってしまっているからだね。自己存在が無意識化していて、まだ立ち上がっていない。その位置が核質という人間型ゲシュタルトの場所。
物質世界を「所与」と呼ぶなら、所与を与える当のものの世界があって、それをドゥルーズなんかは「差異」と呼んでいる。ハイデガーの「存在」も同じ。ヌースの言葉で言うなら、この「差異」や「存在」の世界が無核質に当たる。核質は対象概念の力と言い換えもいい。無核質は、その意味では主客未分離の意識領域のようなものだ。
精神的個や霊的個体というのは、この無核質が意識に形作られたときに初めて自覚的に生まれる。これは哲学でいうところの超越論的なものが構成されている場のこと。つまり人間の経験的意識を作り出している側の世界。この無核質は付帯質の内面領域(物の内部)で働いている。それを顕在化させようともがいているのがヌーソロジーの営み。
科学的唯物論というのは核質膜で世界が閉じている状態。存在者のみで世界を見てしまっているということ。それこそ所与を与えている当のもの側について一切思考しようとしていない。それがハイデガーが云う”存在忘却”というやつ。私たちが「ある」と思っているものは、むしろ全き無なのではないかと勘ぐったのがハイデガーなんだね。
この状況のことをOCOTは「付帯質の妄映」って呼んでいた。世界が目の前に見えてはいるのだけど、中身は空っぽで、ハリボテだということ。存在者の世界が存在を構成する高次元の影なら、まぁ、そういうことになるわな。
だから、ほんとうは、存在を通して存在者が見えるようにならないといけない。そのためには一度、物の内部に入ってそこから外に出て、”存在”のルートを目覚めさせる必要がある。それがヌーソロジーでいうところの位置の等換という作業。持続側から時間を出現させるということだね。存在は持続→時間によって存在者として花開く。
私たちはそこに至って初めて、世界のこの多様な現前を自分や他者との関係性の中で問うことができ始める。
これからの時代はその方向に向かうべきじゃないかと思うけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, ドゥルーズ, ハイデガー, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 素粒子