10月 10 2008
時間と別れるための50の方法(42)
●4次元知覚の世界へ(脱-表象化の世界へ)
さて、「時間と別れるための50の方法」と銘打って『人神/アドバンストエディション』で補填した小論『トランスフォーマー型ゲシュタルト――ベーシックプログラム』の内容のより噛み砕いた解説を試みてきましたが、この次元観察子ψ5~ψ6レベルの説明の段階に至って「4次元空間の方向が観測者の絶対的前そのもののことである」という内容にかなり戸惑っていらっしゃる方も多いのではないかと思います。かくゆう僕もこの結論に達するまでかなりの紆余曲折がありました。
約10年前に例の「立方体鉛筆」(『人神/アドバンンストエディション』p.179)でその位置に接近遭遇したものの、そこから4次元の論理をどう組み立てていいものか見当もつかず、シリウスファイルはもちろんのこと、哲学書や慣れない物理書や数学書と睨めっこする日々が続きました。「前が4次元空間の方向である」とする言説が思考として力を持つためには、もしそのように世界を見たときに、一体、どのような新しい知識が僕らにもたらされるのか、さらには、そこで獲得された知識によって、これまでの世界がどのような意味の変更を迫られるのか、その具体的なビジョンが得られる必要があります。つまり4次元から見た知の体系、概念の体系の素描が求められてくるわけです。そのビジョンが構築できる可能性がなければ、この言説は、巷に氾濫している「霊界とは4次元である」といったようなトンデモ言説と何も変わるものではなくなってしまいます。
4次元世界に関する考察は『光の箱舟』にも書いたように、百年以上も前からたくさんの思想家、哲学者、科学者によって為されています。しかし、未だにその正体は解明されてはいません。もちろん、4次元なんてものは所詮、人間の想像力の産物であって、理性自体が3次元認識をベースとして構造化されているのだから、理性によって4次元を捉えることなど不可能だ、と考えることもできます。しかし、時代は今や高次元の知覚を要求しつつあります。というのも、物質という存在をそれこそ信念体系としていた物理学自体が、物質の大本の成り立ちに4次元空間は言うに及ばず、それ以上の高次の空間の構造体が暗躍していることを明らかにしてきているからです。
物質を確かな存在だと認めるならば、当然、そのもととなる高次元空間も確固たる存在だと言わざるを得なくなります。しかし、物質という概念に捕われている思考(人間型ゲシュタルト)には、それらの高次元がいかなる意味を持っているのかについては皆目、見当もついていないというのが現在の思想状況です――このように、4次元以上の高次元空間とはいわば人間の宇宙に対する理解を阻んでいる強固な障壁となっているわけです。わたしたちが近代以降培ってきた思考の道具ではおそらくこの障壁の乗り越えは不可能でしょう。4次元空間とは何かという問いに対する回答には、当然、この壁を乗り越えられるだけの力がなくてはなりません。上にも書いたように、世界を別の風景へと変貌させる意味の連結、連動、連鎖が存在しなければならないのです。
さて、もう一度いいましょう――4次元空間の方向とは観測者の絶対的前そのもののことである。
果たしてここからいかなる新しい世界の展望が開けてくるというのでしょうか。今まで書いてきたことを念頭において、ヌーソロジーが4次元空間を考察していくに当たっての前提とする内容を箇条書きにまとめてみましょう。
- 4次元空間を通常の意味で「知覚する」ことは不可能である
- 4次元空間は知覚対象というよりも、知覚そのものが持っている空間的機構と深く関係している
- その意味で4次元知覚というものがあるとすれば、それは知覚の機構自体を知覚するメタ知覚といえる
- よって、4次元知覚においては従来の表象(触覚、視覚、聴覚等によるイメージ物)は一切存在していない
- 4次元空間は光速度状態において見える空間である(奥行きを同一視するということ)
- よって、4次元空間においては従来の時間概念は意味を持たない(光速度では時計は止まるということ)
- 4次元空間における一つの方向、つまり、線には主体という概念が配置されている
- この線には長さという3次元的な尺度は存在しない(∞=1/∞という対称性が成立している)
- 4次元空間上に引かれた複数の線はおそらく「比」という関係だけを持つ
- その意味で、4次元空間とは真の形相(カタチ)が存在する場所だと考えられる
- ここでいう真の形相(カタチ)とは物質を創造していくための思考物体のことである
- この思考物体がヌース(旋回的知性)が知覚対象とするイデアである
この諸前提に留意しながら、もし4次元知覚の獲得に成功した知性があるとすれば、自己や他者、さらにはモノといった普段、接し慣れている諸事物が一体どのように見えてくるのか、もう少し具体的な描写を試みていくことにします。そこに予期しなかった意味の連結や連動が起こってくるならば、それこそ「ガッチャ!!(Gotcha!!)」です。——つづく
10月 12 2008
時間と別れるための50の方法(43)
●ψ*6上でψ5はどのように見えるのか――位置の等化の風景
わたしが自分の周囲に広大な空間の広がりを意識しているとき、その広がり自体が人間の内面*としてのψ*6になっているということを前々回にお話しました。このとき実際に見えている人間の外面としての知覚球体=ψ5自体は、何度も言うように奥行きが同一視されることによって超ミクロの微小領域の中に3次元球面として丸められており、ψ*6が意味する時空の原点Oに貼り付いたようにして入り込んでいます。
このように、次元観察子という概念を通して見ると、僕らが普段「わたしを中心とする空間の広がり」と何気に称している空間は「わたし」を規定するψ5と、「わたし」からの広がりを規定するψ*6が二重に重なり合うことによって成り立っていることが分かってきます。ヌーソロジーの考え方からすれば、前者は哲学者たちが実存(知覚の場所)と呼んでいるもの、後者は科学者たちが実存(物質の場所)と呼んでいるものにとても似ていると言えます。
また、このような空間の二重性を前提におくことによって、「現時刻」という瞬間性の中にすべての時間が集約された形で現象化している人間の意識の在り方をうまく説明することができるようになります。つまり、周囲の空間を時空=ψ*6として捉えているときには、その中心点では刻一刻と時間が刻まれ、毎瞬、毎瞬という点時刻があたかも車窓から見る風景のようにあっと言う間に過去へと流れ去って行き、その反対に周囲の空間を自分自身=ψ5として捉えたときは、そこでは過去、現在、未来へと至る時間はすべてその知覚球体の直径の中に4次元空間として凝縮されおり、そこには、永遠の現在が現れるというからくりになっているわけです。人間の意識において、瞬間と持続が「今」という現象において重なり合い、想起や直感がつねに「現在」として起こるのも、人間という存在が4次元時空と4次元空間が持つこのような二重性の接点として存在させられているからでしょう。
さて、時空*=ψ*6の原点にこうして知覚球面=ψ5が貼り付いているとするならば、僕らが時空として世界を眺望したとき、周囲の風景のいたるところに知覚球面が張り付いていても不思議ではありません。原点とは単に便宜上定められたものであって、時空上のどの位置であろうが原点となり得るからです。たとえば、3日前のこの同じ時刻にもわたしはこの椅子に座っていたとします。その時間を原点と考えれば「いつでも今」としての知覚球体はその3日前に移動していることになります。このときは文字通り主体が三日前にタイムトラベルを行っているわけです。物理的に言えば、当然、そのときの光は3光日(光速度で進んで3日かかる距離)の彼方に飛び去っていることでしょうが、奥行き方向はψ5においては常に同一視されているわけですから、知覚球体自体は時間の経過に対して何の影響も受けません。
では、空間的な移動の方はどうでしょうか。あそこに見えるビルの屋上を時空の原点としよう、と思えば、そこに「どこでもここ」の知覚球体は一瞬にして移動することが可能です。もっとも、このときは時間の移動とは違って、3次元球面として表された知覚球体内部では、原点の空間的移動(x,y,z方向への並進運動)に伴って3次元球面上でそれぞれの3方向への回転が起こることになります。しかし、知覚球体自体としての3次元球面自体はやはり全く同一のものです。
つまり何が言いたいのかと言うと、知覚球体(3次元球面とその自転軸)としての「自己=ψ5」が「いつでも今、どこでもここ」としての存在ならば、時空認識の中ではあらゆるところに偏在することができるということです。となれば、時空上のすべての点は客体であると同時に主体と呼んでいいものになります。このことは、「真の主体は客体の中に息づいている」というベルクソンの達観の幾何学的説明に相当していますが、こうした「遍くわたし」の様子を『人神/アドバンストエディション』では空海の言葉を借用して「即身」と表現しました。
重々にして帝網のごとくなるを即身と名づく――空海が『即身成仏義』で著したこの言葉は華厳経に登場するパールネットワークのイメージを彷彿とさせます。重々帝網とは、いかなる部分にも全体が映り込み、無際限にその像が反射し合っているような状態のことを言います。今風に言えばホログラフィーやフラクタルのイメージです。即身成仏というと、物質概念にまみれた僕らはすぐに即身仏を連想して、お寺の中でミイラ化しているお坊さんを連想しますが、空海が説いた意味は全く違います。もともとサンスクリッド語での「成仏(アビサンボーディ)」という言葉は「仏に成る」ということではなく、「仏である」ことの意で、仏であることとは「現等覚(げんとうかく)」のことであるとされています。現等覚とは読んで字のごとく「あらゆるものが等しいものとして見える」ということです。いわゆる差取り(悟り)ですね。まさに、重々帝網の風景とは、いつでも今、どこでもこことしての、即身成仏の姿そのものであるわけです。
ヌーソロジーではψ5が人間の意識に顕在化を起こした状態を「位置の等化」と言いますが、この状況はまさにこの空海が語った「即身成仏」の風景に酷似しています。主体の位置と客体の位置が同一のものに感じられてきたとき、世界はどのように見えなければならないか——それはまさしく空海が言うように、世界のあらゆるところに世界自身が重々帝網を為して映り込むということです。しかし、こうした描写だけではまだ自我の拠点たる時空概念を解体させるほどの意味の強度は生まれません。見るものは見られるものである、主体は客体の中にいる、これら過去の神秘家や哲学者たちの達観が人間の意識を変えるだけの力を持てなかったのも、その意味の強度に不足していたからだと言えるでしょう。問題はこうした達観をどのようにして僕らの現実的な知識に接続させていくかということなのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 6 • Tags: ベルクソン, 人類が神を見る日, 位置の等化, 内面と外面