11月 10 2008
時間と別れるための50の方法(49)
●たて、よこ、高さ、そして「誰が」という次元
スピノールの回転が次元観察子ψ5とψ6の等化運動を意味しているのならば、次に問題となるのは、4次元空間上に生まれるこのスピノールの回転の位相(角度)とは何を意味しているのかということです。スビノールが4次元空間上で回転しているとすれば、それこそ回転のどの位相にもスピノールが巡ってこなくてはならないわけですから、スピノールが円形状にグルッと無数並べるような自由度が必要となってきます。そして、その中でわずか0.1度でも回転させたこのスピノールは、一つの位相のスピノールが自己の知覚球体を綜合したものだというのであれば、自己から見たものとはまた違う知覚球体を綜合させている必要があります。こういう状況をセッティングするためには、下図1のように一つの対象を取り巻いている無数の主体というシチュエーションを設定する以外、方法はないように思えます。
つまり、彼の視線、彼女の視線、誰々の視線というように、視線が各々の主体の一人称を反映させたものであるならば、その視線自体がスピノール的意味合いを帯びたものになっているのではないかということです。このとき、この対象を見つめている周囲の無数の主体(知覚球体)は、4次元空間ではそれぞれが一つのスピノールとなって、対象の内部空間を下図2のように埋め尽くしていることになります。
このとき、対象を取り巻いている無数の観測者には、その各々の位置で認識されている知覚球体がおそらく存在していることでしょう。二人の観測者が同じ位置を占めるのは不可能ですからそれぞれの知覚球体にはどれとして同じものはありません。この差異がそれぞれの観測者の単独性を保証していることになります。そして、この単独性が4次元空間では、対象の内部性を形成しているスピノールの各位相に対応してくるのではないかと考えるわけです。僕はこうした描像から、空間の第4番目の次元とは「who――だれが」を決定する次元だと『人神/アドバンストエディション』で書きました。ですから、ヌーソロジーが解釈する4次元空間とは、タテ、ヨコ、高さ、という従来の3つの次元に「誰が」という自由度の次元を加えたものになります。
さて、こうした回転が何を行なっているかはかなりイメージしやすいのではないでしょうか。それは人間の意識における現れの部分では、一つの対象(背景面も含む)に対する様々な観測者の視線の綜合に対応してくることになります。実際、そのような回転が皆さんの意識の中でもごく普通に起こっているのが分かるはずです。一つのモノを取り巻いて、その周囲から次々にその対象の違った側面を眺めているような意識の運動です。もちろん、このとき「わたし」の視野の中に他者の視野に見えている像が直接リアルに入り込んでくるわけではありませんが、意識には対象を様々な角度から同時に見ているような力が想像力として働いています。言い換えれば、わたしの意識に対象が立体的事物であるという認識が成立しているウラには、このような「もし、彼、彼女、彼ら、彼女らがいるあのそれぞれの位置から見ればこの対象はおそらくこれこれこのように見えるに違いない」という可能的現実が意識に作用しているからです。この可能的現実の存在はとても重要なものです。なぜなら、もしそのような可能的現実への探知能力が意識に備わっていなければ、主体にとって世界は全く断片的なバラバラの平面像の連続としてしか映らないと思われるからです。立体の正面像がわたしの視野に「図」として浮かび上がっているとき、他の見えない側面の像の一群は「地」として潜在化しています。しかし、その見えない潜在化した像を存在としてウラで支えているのは、まさに他者の知覚野とその知覚野に対してわたしの意識が感じ取っている可能的現実なのです。つまり、他者とは客体世界が成立するための絶対条件となっているわけです。こうした他者は普段僕らが気軽に「あなた」と呼んでいるものとも違いますし、また、別の「わたし」としての他者でもありません。なぜなら、客体を形作るために必要不可欠な他者なわけですから、これは「わたし」の一部を為している他者と言ってよいものです。
主体はこのように可能的現実としての他者の絶対的前を包含することによって主体の意識を拡張し、その拡張を支えているのがスピノールの回転ではないのか、というのがヌーソロジーの考え方です。つまり、スピノールの回転は人間の意識に3次元的な客体概念の場を形成させる働きを持たせている精神作用の現れでなかろうかということです。
一つの事物に対するこうした多視点からの同時的知覚の張り合わせ状態は、『光の箱舟』にも書いたように20世紀初頭にピカソやブラックが分析的キュビスムで用いた手法です。その意味で言えば、キュビストたちはスビノールの回転の次元に自身の眼差しを置き絵画制作に勤しんでいたと言えるのかもしれません。このキュビスム的感覚は現代では「バレットタイム」というデジタル技法によってよりリアルな映像表現として映画やCMクリップなど身近なところに氾濫しています。これについては以前、『マトリックスに未来はあるか』というタイトルでエッセイにまとめていますので、興味がある方はそちらを読んでみて下さい。
→→マトリックスに未来はあるか
さて、今までの説明はあくまでもスピノールの回転が人間の意識にどのような働きとして現れてくるのかということに関する説明です。しかし、ヌーソロジーからの真の問題提起とは、スピノール自体が実は真の主体そのもの姿であるということにあります。ということは、スピノールの回転している次元とは無数の主体が集合した高次の精神の場だということになってきます。となれば、もはや次のような言い回しをしても皆さんに怪訝な顔はされないと思うのですが、いかがでしょう。
4次元知覚を獲得した者にはモノは3次元球体ではなく3次元球面として見えてくる。そして、そのときのモノとはもはや客体というよりも、個体性を脱したトランスパーソナル的主体の姿と言っていいものである――。
3次元球体に重なって存在させられている3次元球面という観念のカタチ。4次元知覚の獲得によってモノがこうした形象として見えてきたとすれば、もう皆さんの認識力は物質と意識の垣根を超えた領域に侵入を開始していると言ってもいいでしょう。過去の神秘家や哲学者たちが直観や深い思索の果てに垣間見た「見ているものと見られているものとが一致する主客一体の空間領域」を来るべき進化に向けてヌース(旋回的知性)の働きが逆探知させてきているのです。近代以降、主客二元感覚を頑なに遵守してきた人間の意識がモノ自体との邂逅を求め始めていると言ってもいいかもしれません。物質の内部へとその内側から意識を侵入させ、神の思考を辿って創造のルートを想起していくこと——4次元知覚とはまさにそのエントランスに相当するものなのです。
――つづく
11月 15 2008
時間と別れるための50の方法(50)
●「陽子とは愛」が意味すること
スピノールの回転のヌーソロジー的解釈を一通り終えたところで、OCOTがなぜ「陽子とは愛」と言ったのかを考えてみましょう。
陽子は、皆さんもご存知の通り、物質の核をなす粒子です。この陽子は現代物理学では二つのアップクォーク(u)と一つのダウンクォーク(d)で構成された複合粒子として存在しています。
陽子 uud(アップクォーク2個とダウンクォーク1個の意)
uクォークとdクォークはスピン±1/2を持つ粒子でその自転角運動量は電子と同じでスピノールになっています。ここで、今までお話してきた次元観察子ψ5をアップクォーク、同じく次元観察子ψ6をダウンクォークのスピンとして解釈してみます。すると陽子に含まれている二つ目のアップクォークが持つスピンは、この次元観察子ψ5とψ6を等化する回転が持ったスピンとして解釈することができます。この回転が意味するところは、自他を統合するところに無数の自他関係の対化を構成する自由度を設けているということでもあります。結果的にスピノールの回転の次元そのものは、主-客関係が形作られていた空間より、より大きな対称性を持った次元観察子ψ7を作り出してくることになります。物理学ではこのようなスピノール自体の回転によって生まれるスピンをアイソスピンと呼んでいて、ψ5やψ6のスピンとは区別して考えるようです(下図1参照)。
アイソスピンはスピノール空間における球空間の回転軸のようなものに当たると考えば分かり易いかもしれません。その意味で、このアイソスピンの内部自由度もSU(2)=S^3になります。この自由度が形作られている空間がψ7の球空間で、シリウスではこれを「球精神」と呼んでいます。球精神……どこかで聞いたことがある言葉ですね。いやいや、あれは「精神球」だったような。精神球とは現在の人間が巨大な空間の広がりとして認識している場所のことです。それが反転したもの。。。これが球精神です。あ〜、もう面倒臭いったらありゃしない。。果たして球精神って何でしょ?
実はOCOT情報は球精神は人間の意識では客観的な点概念として働いている力のことだと伝えてきています。目の前の空間の中に、「ここに客観的な点を打ちます」と言って、多くの人がそれを了解したときには、その点自身が陽子になっているということです。もちろん、前にも言ったように、点概念とはそのまま「点球」のことを意味しますから、これはモノとしての客観的球体概念と言い換えても同じです。人間は点や球の概念の背景にこうした球精神の力が働いているということも露知らずに、そのまま、無意識に球精神の力を借りて、モノの境界面の描像を宇宙空間の果てにまで拡大して、空間の広がりを概念化している………それが精神球だということです。この球精神と精神球の反転関係は次元観察子ψ9の領域に入るとはっきりと見えてきます。
さて、クォークのuスピンが観測者の絶対的前を意味し、それが主体の精神の在処だとすれば、この陽子のアイソスピンとは人間全員の「前」を綜合した空間であり、そこはまた人間の意識における持続の全体性が息づいている場でもあるということになります。このことは言い換えれば、主体が人間全体の観察の視線が焦点化されていると考えているところには陽子が生じるということでもあり、モノが陽子でできているのも、このような主客認識の一致点が空間構造として物質生成の根底にセットされているからです。観念論と実在論の見事な調和がここにはあります。これまで哲学を呪い続けてきた「もの自体」という亡霊を払拭することができてくるわけです。
コ : では、愛の達成が人類の最終的な目的ではないのですね。
オ : はい、さきほども申し上げたように、あなたのおっしゃっている愛とは、人間に進化の方向を与えているものであって 目的ではありません。むしろ、スタートです。
コ : 愛がスタート………。
(『シリウス革命p.98』)
人類の過去の歴史の中で何度も声だかに叫ばれながらも空しいリフレインとなり続けてきた「愛」。OCOT情報によれば、その愛が2013年から結実を開始すると言います。正直、「ほんまかいな」というのが大方の人たちの反応でしょう。現実の世の中を見てもそのような気配は一向に感じ取ることはできませんし、むしろ、社会のいたるところでルサンチマンが増殖してきており、世界全体が受動的ニヒリズムへとまっしぐらに堕ちて行っているようにも見えます。一体OCOTは人間の何を見てこのような予言めいたことを言っているのでしょうか。このことについては僕自身、いろいろな可能性を探りました。結果的に下した決断は、OCOT予言の真意の理解のためには、人間が長年抱き続けてきた愛のイメージをその根底から変える必要があるということです。
普通、「愛」というと、男女の性愛や、隣人愛、人類愛など、他者に対する慈しみの感情を指します。こうした感情は今までは人間の精神面や心の問題とされ、認識の問題とは区別して語られるのが常でした。しかし、認識を無視したこのような愛の在り方は虚妄だとも言えます。なぜなら、人が他者への愛を諭すとき、大方の場合、他者は自分の外部に想定された別の主体的存在となっているからです。「他者」をはじめから〈外部〉において、そこで「他者」との融合を切々と訴えたとしても、実際には「他者」を遠ざけていることにしかならず、せいぜい、折り合いをつけてうまくやっていく程度のことしかできません。こうした疎遠さの中で、どんなに「わたしはあなたを愛しています」と叫んでみたところで、そこでは「他者」は永遠に自己の〈外部〉に放擲されたものでしかなく、根本的に断絶を持った「他者」でしかありえないのです。
ですから、自他一体という愛のかたちを形成するためには、人間におけるこうした旧態依然とした〈自己-他者〉図式を払拭し、他者を絶対的外部に置かないような世界像を作り出す必要があります。たとえば、前回示した図のように、多くの人間が一つのモノを取り巻いて観察している様子を想像してみましょう。そのとき僕らは見ている主体が「多」で、見られている客体が「一」だと考えています。この認識は僕らにとって極めて自然なものであり、別に無理してそのように見ているわけではありませんね。モノには無数のアスベクトがあるにもかかわらず、そのアスベクトの「一」への統合がなぜかモノ側ではいたって自然に起こっている。それならば、いっそのこと、主体が今見えているモノの像側にいるとする考え方と感覚を作り出せば、主体の交換がいとも簡単に成立し、愛が一気に現実化することになるわけです。
このためには、いつも言っているように、モノの手前側に想定されている鏡像を消してしまわなければなりません。もちろん、この作業は鏡像的自我自体が時空という概念で統制された世界体系(人間の内面の意識)によって幾重にもガードされているので、そんなに容易なことではありません。しかし、もし、そのガートを突き崩せるだけの別の認識の体系が作り出されてくれば、愛はごく自然な身振りで天から舞い降りてきて、人間を次なるステップへと進ませることができるのではないかと考えています。愛とは陽子である——これほど痛快な落ちを用意している神さま。あなたはつくづくセンスがいいお方だ!!——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 5 • Tags: クォーク, シリウス革命