1月 29 2018
今日のヌース用語 【顕在化】
【顕在化(けんざいか)】
人間の意識において潜在的なものとして働いていた「イデア-理念」の構造が高次知覚として露わになるということ。位置が作る次元の〈カタチ〉が生まれること。生成世界(なる世界)へと入ること。付帯質の内面の次元へ入ること。「人間の意識の覚醒」と同意。
例によって、シリウス言語は言い回しが固くて分かりづらいが、早い話、幅(延長)で支配された空間認識から、奥行き(持続)支配による空間認識へと宇宙が方向性を変えるということを意味している。
幅支配というのは、〈他者-構造〉による支配と同じ意味だと考えるといい。人間は他者の眼差しの中において生み出されている存在だということ(これによって、奥行きの上に幅が覆いかぶさり、ほんとうの主体が隠蔽されてしまうわけだね)。
わたしたちは奥行きが作っている持続空間の構造というものをまだ知らない。その残滓はかろうじて「秘教」などと呼ばれ、古代由来の宗教思想や神秘主義の中に残されてはいるが、人間の権力欲等によって大きく歪曲されている。下の図でいうなら、それらはそのほとんどが「ヒトの感性」による産物であり、そこには多くの付帯質的幻想が入り混じっている。
シュタイナー的にいうなら、これらは、そのほとんどがルシファー的なものであり、OCOT情報の言い方を借りるなら——それらには方向性はあるが力はない。
力とは宇宙的な能動力(これがヌース=創造的知性)のこと。
下の図の右側に示した「定質」は「確実化した力」という意味を持っている。この力が潜在化においては人間の意識を構成するための超越論的なものとして働いている(破線で表した部分)と考えるといい。超越論的なものとは人間の中に鳴り響いている定質への呼び戻しの声のようなものだ。この呼び戻しの声が響いているからこそ、人間には意識というものがある。そう考えるといい。
幅支配の世界では、この構造が物質を作り出す素粒子として見えている。それを、持続空間における私たち本来の身体性として「顕在化」させようと追跡しているのが、ヌーソロジーの空間思考だと考えるといい。
だから、正確に言うと、素粒子を高次の持続空間の生態として見出したときのそれは、もはや素粒子ではないという言い方もできる。OCOT情報は、そのとき生まれてくる認識のカタチが「元素」その意味で、定質が形作っていくΩ1〜8(ψ1〜14)までの力の流れは原子番号1番から14番までの元素の本性に相当している。
意識のこの領域への進入は、同時に、人間が太陽的なもの(自我=同一性を担保する力)から離脱することを意味してる。太陽の核融合の中に見られるプラズマ状態の水素-ヘリウムは人間に進化の方向を見失わせないようにするために、精神が与えている変換性の物質的現れと考えるといい。OCOT情報はこれを第一次精神核と呼んでいる。
最高にエキサイティングな話であるが、ヌース的思考に不慣れな人は半分はSFとして片付けておくのが賢明。
2月 6 2018
核質・無核質・反核質——なぜ、わたしはあなたを殺してはいけないのか
付帯質が世界を背後に捏造し、主体を一つの仮面へと変えてしまう問題。そこでは、もはや世界に浸透した主体の精神は忘却され、ただ、対象と化した物質だけが残される。その中に浮かび上がる本当の顔としての他者の顔貌。レヴィナスはそこに「汝、殺すなかれ」という倫理的要請が記されていると語った。
しかし、この言葉は深く理解されてはいない。自己と他者の間にあるほんとうの距離感というものが、わたしたちにはまだ正しく理解されていないのだ。
OCOT情報は「他者とは上次元です」と味も素っ気もなく言う(笑)。これはレヴィナス風にいうなら、他者とは超越であり、自己とは同じ地平には存在していないということを意味している。
僕ら現代人は、基本的人権や自由、平等といった出来合いの社会通念を通して、自他における倫理の関係をイメージしてしまうが、そうした近代的理念がむしろ僕たちの倫理観を混乱させている。僕たちは、他者との距離についてもっと思考しなくてはならない。というのも、ここには平等と言うにはほど遠い隔たりがあるからだ。
他者とは絶対的な外部性だということを再認識しよう。だから「愛」のメッセージもまたこの外部に向けて囁かれなくてはいけない。ただ、それがどのような方向なのか、僕たちにはまだまったく分かっていない。OCOT情報が「後ろ=自分の仮面の方向」ではなく、なぜ「前=奥行き」に認識を向かわせようとするのか。それはその不可能な「愛」の方向へと向かわせようとするためだと考えてほしい。
後ろで支配された付帯質が持った共同幻想の空間を支えているのは言葉の力である。言葉とは、言ってみれば、本来、絶対的差異を持つべき自他の関係を無効にしている同一性の血流のようなものだ。物質の内部に巣食う肉汁と言ってもいいだろう。僕たちは外から物に名が付けられていると思っているが、事実は全く逆。
言葉は光の内部から滲み出て、この世界に物質を出現させている。物に重さを与えているのも、この言葉の中に潜む霊力だと考えるといい。重さの中には言葉の霊が住み着いている。
言葉とは反核質の力。物質とは核質の力。——by OCOT。
これらはそのまま、言葉とは「他者が自己と出会うところに生まれる力」、物質とは「自己が他者と出会うところに生まれる力」というように置き換えが可能だ。そして、事実、こうして君と僕とが出会うところで言葉と物質が活動している。
しかし、これだけでは最も大事なものが欠けているのが分かる。ここには、自己が他者へと変身を遂げていく場所がない。自己が他者のもとへと歩んでいく場所がないのだ。それを今から作り出さなくてはいけない。その場所の力のことをOCOT情報は「無核質」と呼んでいる。そして、物質はそこから落とされてくるのだとも言う。
僕自身は、自己が世界にこうして存在するのは、上次元たる他者に変身を遂げるためだと思っている。「わたし」が主体として代替不能であるのは、まさしく「わたし」がこの上次元にいる「あなた」の呼びかけの声に応答するためなのだ。そして、その応答を成し遂げたものたちの記憶の累積が今、こうして物質となって姿を現している。
汝、殺すなかれ——。
他者とは、そのような存在なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報