7月 26 2017
『人間の建設』が忘れ去られてしまった世の中
出版者の友人O氏から小林秀雄と岡潔の対談本『人間の建設』が贈られてきた。ざっと目を通す。昭和40年に為された対談なので、もう5O年以上も経っているわけだが、少しも古さを感じさせることなく、大変面白い。岡潔が何度も「知力の低下」を嘆いているのが印象的だった。
岡潔が言う「知力の低下」とは何も知識を学ばなくなったことを意味するわけじゃない。もはや心を思考や知の母胎としなくなったということ。これは最近にいう「感情の劣化」とも深く関係していることだろう。人々から世界の肌理を感じ取る感受性がどんどん失われていっているということ。
以前、ヌーソロジーの波動関数解釈について少し話をしたが、僕自身は、こうした話もこの岡潔のいう「知力の低下」と無関係な話じゃないと思っている。
今回も、また過激に次のように吠えた(笑)
「素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは人間の意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。」
嬉しいことに、この一文に対して、専門家のS氏から次のようなコメントが寄せられた。
「これは非常に重要なポイントですね。科学者は通常、素粒子を物質の延長として捉えている。」
僕のレスは次の通り。
「はい、素粒子の哲学的理解のために、文字どおり物の見方の転換が必要ですね。「所与を与える当のもの」という差異の考え方が必要だと思います。」
ここで言ってる「差異」とはいつも引き合いに出すドゥルーズの概念なのだけど、差異とはドゥルーズによれば次の通り。
「差異は、雑多なもの(le divers)〔感覚されるもの〕ではない。雑多なものは、所与(le donne)〔感性に与えられるもの〕である。しかし差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。―ドゥルーズ「差異と反復」P.333
かなり難しい言い回しをしているけど、要は、差異とは所与を与える側の能動的な知性のことを言っていると思えばいい。これはヌーソロジーの「ヌース」とほぼ同じ意味だ。ヌーソロジーの考え方から言えば、素粒子とはその意味で、受動的知性(人間)から見た最初の能動知性の姿だと言うことができる。
この知性にあっては、知るものと知られるものは常に同じ一つのものだ。つまり、主客一致が現実化している。観測者が関与しなければ観測対象も姿を現し得ないという、量子論的世界の特徴がそれを端的に指し示している。
アリストテレスは能動知性のみが、人間のうちにあって不死にあずかるとした。彼の霊魂論である。あえて、古めかしい言い方をするなら、ヌーソロジーにとって素粒子とは霊魂のことでもある。目に見えるもののすべては目に見えない力によって支えられている。その世界像を思い出さないといけない。
人は知性において宇宙の原理、はじまりに参与し、不死にあずかる。知性とは本来そういうものだということ。単なる知識の蓄えや、操作的思考は知性とは真逆のものだと考えていい。岡潔の言う「知力の低下」という言葉の本意も、こうした本来の知の匂いを全く嗅ぐことをしなくなった、今の「知る」の現状のことを言っているのだろうと感じる。
世界を対象として見ることをしない、もう一人の自分を作って行こう。そのためには、自分の内に深く分け入り、その内を外へと繋いでいくことのできる思考を立てていかなくてはいけない。そうした思考が立ち上がってこない限り、世界は何も変わらない。そして、私自身も。
『人間の建設』、いい本です。興味がある方は是非、ご一読を。
9月 15 2017
木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び
目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シリウス革命, トランスフォーマー, 素粒子