2月 28 2005
普遍的で新しいもの
では、芸術とは何か………って、ことだけど……。
Artという語は語源的にはギリシア語のTechne(テクネー)に由来している。そのためか日本では、最初は「技芸」と訳された。外界と内界が明瞭な分離を見せていない前近代的な意識では、人の手によって作り出される創造物はみな一括りに見られていたのかもしれない。「技」と「芸」が区別されるようになったのは、たぶんルネサンス以降だろう。実際、ダ・ビンチなんかは技芸家と呼ぶのが一番ふさわしい。その後、「技」は科学技術へ、「芸」は芸術へと呼び名を変えてくことになる。
ガリレオによる放物線の発見が大砲の製造技術に大きく寄与したように、科学技術は、重さ、長さ、時間という個々の要素間における関数的なアレンジメントの中で現象を操作する。一方、芸術は知覚や情動といった生きられたものに固有の体験、もしくは出来事の世界に関する表現を操作する。人間の手を介した現象化のこうした大別は、ヌース理論的には、人間の内面と外面における、いわゆるバロック的な二つの等化運動の現れと見なすことができる。ならば、芸術による生産には自我形成以前の、コミュニケーション以前の原型的な何かが組み込まれていなければならない。原型的なものは「かつて一度たりとも顕在化したためしはない」がゆえに、意識下においては絶えず普遍的な価値を携え、かつ革新的な様式を持って姿を現すことになる。それが芸術の真の姿と言っていい。芸術が「自己表現」や「コミュニケーション」の一メソッドなどと呼ばれるようになったら、もうおしまいなのだ。
芸術がPOPの名のもとに商業主義の中に侵攻していくのは個人的には大歓迎ではある。しかし、そうした原型の匂いを漂わせているPOPな作品が何と少ないことか。
インフルエンザにもかからず、無事、博多に戻ってきました。今日は、帰ってくるなり、自社製品の広告制作に追われてました。広告表現に身を売った芸術は売春婦やんけ〜と、いつも叫んでいるのですが、自分の作業はそのレベルにさえ達していない(;;)。努力がまだまだ足りません。今から、留守中にきたメールや手紙の返事を書きます。うっ、また、霊界おばさんから手紙が。。。いいかげんにセントジョーンズワート………広告制作の後遺症です。みなさん気にされぬよう。
3月 18 2005
ホームセンター
今日は会社帰りに、製作中のNCジェネレーターで使う部品の代用になる金具を探しに、久々にホームセンターに行った。わたしはなぜか昔からホームセンターが好きである。あの雑多な雰囲気がたまらんのよね。東京であれば、東急ハンズというシャレた店があるが、アレはだめ。ホームセンターはやっぱり平屋式で天井が高くて、倉庫風でないとね。ここはG×××D×Yという店だが、郊外型の典型的なホームセンターである。
店内に入ると、すぐに、おがくずと金属と機械油が入り混じったようなあの独特の匂いがプーンと漂ってくる。いい。いい。もっと嗅がせろ。わたしは、なぜか、この匂いが身体にフィットするのだ。さっそく、建具や工具関係のコーナーを物色。。。ハンマー、釘、ねじ、すのこ、やすり、電気工具、ドアの蝶番、etc、反対側に回ると、アクリル版や、接着剤、ラッカー、ペイントスプレーなどが例によって陳列してある。
ホームセンターの商品棚は、いわゆる製品化される前の部材類とそれらを加工するための道具類で埋め尽くされているが、よくよく見て回ると、訳の分からないものがたくさん置いてある。こんな金具一体何につかうんやろ?なんや、このハサミとペンチの間の子のようなものは?……そうこうしてるうちに、あっちの棚から、こっちの棚から、こっちにおいで、いや、ここだよ、と、いろいろな商品たちの声がぺちゃくちゃと聞こえてくるような気がしてくるのだ。それで、ついつい、いろんなところを見て回ってしまう。
「こやつらが、わしらの日々の生活を支えてくれているのかぁ。おー、よし、よし。かわいいなぁ、お前ら」などとやっているうち、あっという間に2時間経過。
釘を打つこと。ねじを締めること。ペンキを塗ること。ワイヤーを巻くこと。ホームセンターから連想される作業にはいろいろあるが、どの作業のイメージ一つとってみても、それが強いられた労働でなければ、身体に心地よく響く。そこには幼い頃の無垢だった自分がいる。晴れた日曜日の午後のトム・ソーヤーとハックル・ベリィ・フィンの気分。あの頃は日が暮れるまで、秘密の基地づくりに熱中したものだ。
道具とは何だろう?大工さん、絵描きさん、板前さん、機械屋さん、ひいては、お茶の先生に至るまで、道具を使う人は、身体と道具の関わりについてとても説得力のある発言をする。それは、科学者が物質の話をするよりも100倍も1000倍も面白い。それは、なぜか——。それは、道具ともに生きる人たちが「現実」に生きているからである。現実、つまり、身体性とともに生きているからである。道具は身体が持つ勘を100%の精度で伝達して対象に伝え、対象の思いを身体に伝え返してくる。こうなると、道具はモノというより、身体の延長、否、もう身体そのものではないかと思えてくるのだ。
さて、ここでわたしは何をいわんとしているのだろう。。
それは、目に見えている身近なもの、つまり、触れることのできるものの世界は実は身体の内部だということである。それは身体の外にあるのではない。内にある。
ハンマーで釘をとんとんと板に打ち付ける。ドライバーでぐりぐりとねじをまわす。はけでペンキをぺたぺたと塗りたくる。釘の先が板を穿っていく感覚、ねじがねじ穴に潜っていく感覚。塗料が板をぬめらせる感覚。こうした感覚が生起している場所は一つの強度的空間と言っていいものである。この空間がわたしたちの身体感覚というものを作り出す。「強度」という言葉、ヌース理論にもドゥルーズの影響でよく登場するので、ついでに説明しておくと、おおよそ次のような内容だ。
強度とは、中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコットゥスが言い出した言葉で、同じ力でも量化できないものを表すときの概念のことをいう。これは建築工学などで使われる耐震強度とかの強度とは全く違う概念である。痛さ、熱さ、重さ、明るさ、鮮やかさ、何でもいい。そうした感覚に訴えかけてくる表象には強さ、弱さといった力の度合いがある。それが強度である。その赤はどのくらい赤いのか。その痛みはどのくらい痛いのか。その出来事に君はどのくらい感動したのか——。この度合いは機械で計測できる類いのものではない。いうなれば魂だけが吸引することのできる強さである。感覚はまずは一つの強度としてやってくる。その後、諸感覚に分岐し、身体感覚の基礎を作るのである。
ヌース理論ではこういった強度が生まれている空間のことを「人間の外面」と呼ぶ。そこは、時空に存在するモノではなく、現実としてのモノが諸感覚として戯れている場所なのだ。それは感覚の坩堝と表現してもいい場であり、わたしがまだわたしになる前のわたしなのである。。。。ホームセンター。。。。
つまんねぇー。
とアレやコレや考えながら、自宅に戻ったはいいものの、わたしの部屋の汚さったら、ありゃしない。これが俺の身体の中だってぇ〜。。。。ぞぉ〜。うーむ、掃除でもするべぇーか。
あっ、あと、今日はヌース会議室の方にヌース本論に関する内容で、重要な書き込みをした。魂とトポロジーの幾何学に興味がある人は、ぜひ、下のヌース理論会議室を覗いてみて欲しい。この「強度」とも関係あるばい。
ヌース理論会議室By kohsen • 10_その他 • 0 • Tags: NC-generator, ドゥルーズ, 内面と外面