1月 21 2009
シャンバラ、地底人、そして大気的人間
前回解説した「宇宙空間から大気圏への反転」という図の内容について、何を言っているのか意味不明に感じている人もいるだろから少し捕捉しておく。
わたしたちは地球を見ていると思っている。大地に立ち、地球は何て美しい場所なんだとわたしたちはときに感動する。だから、わたしたちが地球を見ているのは事実だと言い張る人がほとんどなのもよく理解できる。しかし、慎重に考えてみよう。果たしてそれはほんとうだろうか。わたしたちはほんとうに地球を見ているのだろうか。
他者が見ているモノと自己が見ているモノが互いに反転しているということは、このブログでも何回も話してきた。通常、僕らの意識にそのように見えないのは意識が自らを他者化させて認識しているからである。意識はわたしを外側から見る視点を作り出し、他者が存在している空間と同じ場所にわたしの身体を放り出す。それによってわたしは他者と同類頃となり、そこに想定された無数の視点の下でモノを捉えているので、モノの界面は単なる2次元の球面に見え、他者が見ているモノとわたしが見ているモノとは同じ3次元の中に浮かぶ3次元の球体だと判断しているのだ。
こうした自分を他者空間に投げ込んだ視線をまずは消そうと言っているのがヌーソロジーの入口だ。これは哲学で言えば、フッサール現象学が生活世界と呼んだ世界にまずは戻れ、という意味である。実際、自分に見えている世界の中では自分の目は見えない。生活世界の中では自分の目は世界の中心に位置し、その位置をわたしが外部から見るなど到底不可能なことである。しかし、ほとんどの人がそれを外部から見ている気になっている。いつも言っているように、これは鏡像空間だ。実際のリアルな空間ではない。
そこでもう一度、尋ねてみたい。君はほんとうに地球を見ているのか?アポロ宇宙船の飛行士たちが青く輝く地球を初めて球体の映像として捉えたのは記憶に新しい。地上では果てしなく続くように見える大地も、上空に昇れば丸みを帯びてきて、成層圏を超えれば、確かにこの大地は球体に見えてくることだろう。しかし、それを実際に見ることと、その様子を想像することには雲泥の差がある。なぜなら、前者はリアルな空間だが、後者は鏡像空間だからだ。鏡像空間の中で地球を見ると、わたしは地球上を這い回るちっぽけな一匹の微生物のように見えてしまう。アポロからの地球を見て、その中で日本列島を探し、またその中で、自分が住んでいる街を探す。わぁ〜、地球と比べるとなんてオレはちっぽけなんだ。。。こうした想像がマクロ宇宙という概念を支えていると知るのは容易い。
確かに、わたしたちは地球を見ていると思っている。しかし、それは鏡(他者の視野)の中の空間を通して見ているだけなのだ。わたしたちが宇宙空間は広大で巨大なものと思っているならば、そこはすべて鏡の中と思ったほうがいい。そうした鏡の中の空間に客観的点を打ち、そこから空間の広がりを自在に象っている意識。ヌーソロジーはそれが水素原子核とその周囲を回る電子だと言っているわけだ。ヘリウムはそれをリアル空間の方に引き戻そうとしている。宇宙空間が水素とヘリウムに満たされているのは、そのような僕ら現代人の認識が天上を覆っているからだ。
OCOTはかつて面白いことを言っていた。
曰く、あなたがたが見ている宇宙はすべて地球の中です——。
鏡映は4次元をひっくり返す。ある意味,内部と外部の反転だ。他者が見ている地球が存在する空間に自己がはまり込めば、わたしにとって確かにそれは地球の内部だということになる。となれば、逆もまた真なりで、ほんとうの地球の外部は、僕らが現在、地球の内部と呼んでいる場所に存在していることになるだろう。そこは現在の僕らにとっては「地底」と呼ばれているところだが、実際にはモノ自体ならぬ地球自体がそこに存在しているのだろう。そして、そこは自己の場が知覚世界そのものとして見えている、無時間に住む意識たちの住処でもある。彼らはかの伝説のシャンバラに住む地底人だとも言える。こうした内と外の存在に鏡像たちが気づけば、鏡像は大気的人間へと生まれ変われるはずだ。
1月 23 2009
観察精神と肉体
交信記録19940205-3
骨の主成分がカルシウムなのはどうしてですか。
骨とは力の形成される方因をいい、次元の形成と関係があります。人間の骨格や関節は第一関与における方向性の構成を意味しています。
塩とは何ですか。
元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。
赤血球の働きとは何ですか。
元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。
核にある鉄原子の働きは?
人間の意識における力そのものです。
葉緑素の働きは何ですか。
元止揚の中性質を持つ部分です。
■解説(長くなりそうなので数回にわたってやります)
ヌーソロジーの考え方では、人間の肉体というものは「観察精神が中和を持った状態」として見なされる。「観察精神」というのは、「次元の対化を二回に渡って等化した精神」のことで、ここでいう「次元の対化」とは自己と他者における超越論的主観性そのもののことをいう。超越論的主観性というのは、分り易く言えば、人間というものは結局のところ生まれて死ぬまで一人であって、宇宙には実はわたししかいないのだと考えるときの「わたし」のことだ。世界をどう見ようと、結局は、それは「わたし」が考えているのであり、いかに共通了解としての客観を唱えたり、「すべては一つ」と言って愛を叫んだとしても、結局はそれらはすべてわたしが考えていることであり、わたしという主観によってしか表現できない。そういうどうしても逃れようのない主観性のことである。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったときの「われ」と言い換えてもいいだろう。このような「われ」が現代人のわたしたち、いや、わたしの根底には生という名の下に巣食っている。
そうした「わたし」にとって、他者という存在は絶対に接触不可能な彼岸である。それは死の向こうにあるものがわたしにとっては接触不能であるということと同じくらいに接触不可能な彼岸である。しかし、「わたし」はこのわたしの世界の中において、その接触不能な他者と擬似的に交わり、その他者によって名付けられ、社会の中に組み込まれ、「わたし」という存在を持ち得ている。この意味において他者とはわたしの起源も同然である。わたしをその根底で支える者でありながら、わたしは決してほんとうの他者には触れることはできない。他者とは父の幻像のようなものなのだ。こうした他者世界のことをOCOTはオリオンと呼ぶ。此岸としてのプレアデスと彼岸としてのオリオン。こうした関係がヌーソロジーのいう「次元の対化」と呼ぶものとイメージしてもらえばよい。
では、わたしはどうすれば、ほんとうのあなたのもとへとわたしのほんとうの声を届けられるのか、わたしはどうすれば、あなたが見ている世界をあなたの眼差しを通して見つめることができるのか――わたしがあなたの立つその彼岸へと渡るには、わたしはわたしとあなたの間に介在している物質の垣根を超えていく必要がある。わたしとあなたの間には「創造」という名の永遠の距離があるのだ。一度、モノとなって死に、そして復活するときに、わたしはあなたとなって目覚めるのである。そして、もちろんこの「わたし」のあなたへの呼びかけはあなた側からの応答をも引き起こすことになるだろう。存在の声によって呼びかけられたものは、存在の声を以て「然り-Yes!」と答えなければならない。そこにresponsibility(応答する能力-責任)の真の意味がある。そこで行なわれる語らいこそが自他における真のつながりであり、存在の結び目としての物質そのものの意味なのだ。よってすべての倫理の起源は物質に淵源を持っているといえる。今、こうして目の前に無数の物質が存在するということは、そうした〈呼びかけ-受け答え〉のルートを辿った者たちがどこかに存在しているということでもあるのだ。これら物質の中に眠る聖霊たちを再び覚醒させ、この地上へと降臨させること。そして、存在の38度線とも言えるこの場所において「久しぶり」と言って互いに微笑み合いながら再会の抱擁を交わすこと。ヌーソロジーの目的はそこにしかない。
位置の変換の開始――OCOT情報が伝えるには、こうした奇跡的な恩寵の光が2013年以降、この地上に降り注いでくるという。それがほんとうなのかうそなのかを詮索しても何も始まらない。その光を降り注がせるも遮断するも自分自身の行ないの問題である。なぜなら、この世界には「わたし」しか存在しないのであるから。ヌース用語で言えば、これは定質と性質の等化と呼ぶもののことである。ここでいう定質とは自我(超越論的主観性)を作り出したものの本源力のことであり、性質とは自我として働いている本源力のことと考えていい。そして、この定質と性質もまた自己と他者の間では定質=性質*、性質=定質*という例のキアスムのかたちによって構成されているのだ。
定質と性質の等化とは別名、次元の交替化とも呼ばれる。つまり、定質と性質における性質を定質*へと生まれ返らせていき、同時にそのプロセスによって定質を性質*へと変化させていくこと。これが交替化の原理である。そして、この交替化を二度果たし終えた精神が先に挙げた観察精神と呼ぶものだ。その影が肉体であるのならば、人間の肉体とは「わたし」から「あなた」へと渡り、かつ、「あなた」から「わたし」へと渡って再帰してきたある崇高な精神の力によって作り出されたものであるということになる。ならば、人間の肉体を構成しているすべての器官、さらにはそれらの中で行なわれているすべての生化学的な反応の中には、この交替化の履歴がすべて映し出されていることになるだろう。わたしたちが意識と呼んでいるものはこの履歴が作り出している反響である。わたしの意識とあなたの意識がこの地上で交わるとき、当然、これら二つの履歴も交わり合い、そこに迷宮が生まる。社会という名の迷宮。善悪という名の迷路。平和という名の迷信。おそらく、肉体はこの地上で生きている限り、これらすべての迷いをも履歴の中に刻みこんでいる。OCOTは定質の対化が等化を行いつつ、かつ、意識(性質)の対化が等化されているときは肉体には病は存在しないと言っていた。その意味では,現在の肉体を蝕んでいる病気とは、存在の中におけるこの迷いの現れが肉体に投影されたものということができるのかもしれない。人間の世界における二人のわたしという存在自体が彼岸に存在する二人のあなたの病(やまい)なのである。
――つづく
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 2 • Tags: オリオン, プレアデス, 中性質, 表相