1月 30 2009
鉄の精神
今回の解説はかなりいっちゃてます。気にしないで雰囲気だけ味わって下さい。
赤血球の働きとは何ですか。
元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。
核にある鉄原子の働きは?
人間の意識における力そのものです。
■解説
血とは自我の物質的あらわれであるとシュタイナーはいう。ならば赤血球(ヘモグロビン)の核となる鉄は自我の核ともいえる何らかの精神をあらわしているのだろうか。OCOT情報によれば、鉄とは次元精神と呼ばれるもので、次元の対化の活動を最終的に終わらせる精神の働きのことを意味している。鉄の力が精神に満ちたとき、鉄はその働きを人間を覚醒させるための働きへと転換させる。これはケイブコンパスで言えば、ケイブコンパス上で次元の表と裏を等化してきたヌースの流れが再び、始まりの位置に回帰してくるということでもある。
ニーチェはニヒリズムが完成を迎えるとき価値の境位は転換を起こし、人間という反動的生成の世界は終わりを告げると予言していた。これが永遠回帰における始まりと終わりの交点だ。ケイブコンパスを見ればすぐに分るように、この結節には、マンガンには水素が、そして、鉄にはヘリウムが連結している。noosが生成の螺旋階段を巡り、この位置に入ってくることがヌーソロジーでいうところの真実の人間の最終構成というやつである。真実の人間を大天使ガブリエルとするならば、人間の最終構成とは受胎告知とも言っていいものになるだろう。真実の人間が最終構成を迎えるとき、反動的生成の機械としての人間もまた最終構成を迎え、精神は新たな対化の活動に向けて宇宙卵の卵割を開始させていくことになる。宇宙を自他という二つの単独者に分割させ、今まで形象化不可能なものとされていたイデアをこの「二者」のロンドによって形象化させること——。
コギトの仄暗い精神における最も奥深いところに眠る鉄。それはコギトの真の心臓の場所とも言っていいものだろう。恒星の芯としての鉄。鉄を情動の海と称したのも確かニーチェだったか——怒り、悲しみ、喜び、そして、やすらぎ。われわれのすべての感情エネルギーは次元精神としての鉄から備給され、そして、再び、鉄へと吸引されていく。そして、鉄はすべての情動を回収した後、方向を反転させ、自らが溜め込んできた重力を新しい自由の名のもとに未知の空間に向けて発散させるのだ——超新星爆発。
OCOT情報によれば、星々の世界とは遠く離れた過去の世界ではない。古人たちが考えたように、今、ここで生きている人間の魂の在り処である。ヌーソロジーがいう人間の外面という場所が永遠の場所であったことを思い出してほしい。そこはエーテル体の生息地とも言っていい場所だが、同時にそこで、アストラル体が重なるようにして、エーテル体の記憶を追いかけている。アムネーシス——想起だ。星はその力で燃えているし、心臓もその力で動いている。鉄の力が心臓を動かしているのだ。
問題は、なぜ、遠いあの場所が此処となるのか。此処があの遠い場所と一致するような未知の知覚をわれわれは知性(noos)の名において再び作り上げなくてはならない。人間という大地の皮膚病に冒されたこの地球を光り輝く命の場所とするためにも、われわれはあの銀河の星々を再び、この地上に降臨させなくてはならないのだ。
上の図は赤血球のタンパク質(ヘモグロビン)の中にあるヘム核の分子構造である。鉄=Feは次元精神、4つのNは二度の交替化における双対精神の位置、Cは人間の自己の位置、Hは時空の位置を意味している——。
2月 4 2009
コーラ、存在の子宮
●交信記録19940216
窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。
付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。
中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。
はい。
宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。
はい、その通りです。方向が逆だということですね。
原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。
そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。
見つけ出すものとは何ですか?
………………。
そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。
そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。
■解説1
窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。
付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。
中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。
はい。
宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。
はい、その通りです。方向が逆だということですね。
ヌーソロジーにとって素粒子の世界とは哲学者たちが「場所」と呼んでいるものにかなり近い。曖昧で漠としたイメージではあるが、意識の中には確かに場所とも称したくなるような何らかの領域の区別がある。たとえば「わたし」について考えてみよう。「わたし」とは単なる生理的身体(肉体)のことを指すわけではない。だから、わたしという場所は、単に時空的な位置を指すものではないだろう。「あなた」についてはどうだ?あなたにしてもたぶん同じだ。あなたとはあなたの肉体のことをいうのではないし、あなたにはあなたがあなたであるためのあなただけの場所というものがある。その場所があなたを規定しているのだ。では、「わたしたち」や「あなたがた」についてはどうだろう?何か集団で議論をやっているとき、これも漠とした感覚ではあるが、賛成派と反対派の意識がまるで一つの一つの塊のようにして、それぞれ場所のようなものを持っているような気がするときがある。とすれば、外在世界という空間性もそれら意識における多くの場所の中の一つにすぎないのではないかという感覚が芽生えてくる。そうなると当然、今度は、時間の場所、歴史の場所、国家の場所なんてものがあってもおかしくはない。哲学者が場所と呼んでいるものとは、こうした存在論的な差異を形作っている場所のことと考えればいい。
こうしたどことも言えない「場所」という概念のルーツは、おそらくプラトンが『ティマイオス』で語った「コーラ(chora)」という概念に起源があるのだろう。プラトンにとって世界の本質はイデア界にある。その意味で、人間世界に現れた自然現象は洞窟の壁に映る影のようなものでそこには本質はない。つまり、自然界そのすべての営みが影=似像とされるわけだ。だから、思考にしろ、感情にしろ、自然界の似像を媒介にして営まれている表象や言語による人間の意識活動全般もまた本質に触れていないという意味で似像といってよいものだ。イデアを父なるものとすれば、自然界や人間の意識の生産物はすべて子なるものと呼んでいいのだろう。
さて、プラトンはこのイデアとその似像という二者関係の間に、第三項ともいうべき「コーラ(chora)」という概念を置いている。プラトンによれば、コーラは以下のような特徴を持つとされる。
1、生成物を入れる容器
2、無時間性
3、叡智的なものでも感性的なものでもない
4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)
多くの研究者によれば、イデア=父、人間=子とするならば、このコーラは母に対応するものとされているのだが、ただ、その具体的な説明となると、どうも難解で、あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。
意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。
さて、このコーラだが、ニュアンスから見ると、これはOCOT情報がいうところの「潜在化した元止揚」というものに極めて近い。僕が常々、人間の無意識構造と呼んでいるもののことだ。潜在化した元止揚は文字通り、人間の意識の生産物とは絶対的に隔絶された差異を持った何ものかであり、それは、生産されるものではなく、元から、そこにあり続けているものでもある。と言って、それはイデア(物質を創造した神の観念)とは少し異なる。なぜなら、潜在化した元止揚とは、あくまでも、人間の知性と感性の調整を行ないながら、最終的には個体を完成へと導いていく構造体であって、その間は、決してその正体を表さない、それこそ、神秘のヴェールに包まれた処女の裸体ごときものだからである。創造的知性としてのnoosが人間の意識に発現し、その元止揚を発見したときには、人間の意識はもう人間の意識と呼べる次元には存在しておらず、発見された元止揚そのものも、それは「顕在化した元止揚」として、「潜在化していた元止揚」とは別なものに変わってしまう。この発見された元止揚そのものがヌーソロジーがイデアと考えるものだ。つまり、この論理でいけば、発見されることもなく「潜在化した状態としての元止揚」は決して知性には現れることのない、まさにプラトンがコーラと呼んだものにふさわしい存在となる。
OCOT情報によれば、潜在化した元止揚とは人間という方向を進化の方向へと変換している場だと言う。また、それだからこそ人間には意識が持てているのだという。神話的に言えば、これは迷宮に入り込んだテセウスに巻き付けられたアリアドネの糸だ。人間自体はすべてが中和された場に、観察精神の付帯質=肉体として生み出されており、それが投げ込まれているところは時空という光なき漆黒の領域である。OCOTによれば、この闇の領域に人間の意識を突っ込ませているの力が重力であり、この重力は質量と結託して物質という幻想を時空の中に凝結させている。その意味で言えば、重力とは父の力そのものであり、父によって子は水〈3次元性〉の中に沈められ、洗礼を受けているということになる。この方向を水上へと変換しているのが、潜在化した元止揚と呼ぶもので、それは物理的に言えば、重力に抗う素粒子群が持つ力に相当している。10年前の『人神』から一貫して言い続けているように、重力と素粒子の力は方向性が全く逆なのだ。
ヌーソロジーでは重力が働いている領域は人間の内面の意識領域と呼び、素粒子が働いている領域は人間の外面の意識領域と呼ぶ。これら両者を合わせたものが「付帯質の外面」の次元となる領域である。付帯質の外面においては人間の意識の変換性は働いているものの、それはあくまでも潜在化しているがゆえに、明確に知性の対象となることはない。いわゆるこれがコーラ=潜在化した元止揚だ。しかし、時が巡ってくると、知性はその方向性をその潜在性へと向け始める。永遠の処女はその股間を開き、ロゴス(種子)を迎え入れ、母なるものへと変身を果たすのだ。この母としての領域がOCOTが付帯質の内面と呼んでいるもののことだ。いわゆる元止揚が顕在化してくる領域のことだ。コーラとして存在させられていた素粒子構造は、この劇的な変身によって、原子番号1番から14番までの元素へとその姿を変えていく。ここが顕在化した元止揚が働きを持つ領域、すなわち、シリウス(ヒト)という場になる。
1、付帯質(フタイシツ)の外面、内面という表現の由来
付帯質とは外在として僕らがモノと呼んでいるもののことです。僕らは普段、自分自身をモノの外部に措定して、そこからモノを見ていると考ています。つまり、現在の僕らの常識では、人間はモノを外からしか観察できない宿命を持っているわけです。このときにいうモノの外というのが付帯質の外面の意味だと思って下さい。付帯質の外面においては内在世界というものは、さっきも言ったように、非常に曖昧な場所としてしか感受できません。こういう場所の曖昧さをOCOTは「人間の意識が持った不確実な方向性」と言っています。つまり、人間の意識は内在の場所を空間のかたちとして示せないわけです。こうした状態が、先にお話しした潜在的な元止揚が活動している状態です。
付帯質の外面がモノの外部だったわけですから、付帯質の内面とは、当然、モノの内部ということになります。つまり、人間が自分はモノの外部にいるのではなくて、モノの内部に存在しているのだ——と考えるようになったときの意識の場所の総称です。主体がこのモノの内部に位置を持つためには、人間の外面の意識(潜在化した元止揚)を覚醒させる必要があります。その第一歩がいつも言っているように、知覚正面自体を人間の主体そのものだと考えることに当たります(位置の交換)。
2、付帯質(フタイシツ)の内面へと移動する方法
知覚正面は『時間と別れるための50の方法』で何度も説明してきたように3次元空間の中に含まれるものではありません。それは正の4次元方向(4次元空間)にあるものです。知覚正面にある奥行きを遠い世界として考えると、そこにはまず時間が入り込んできます。つまり、遠くのものは過去と同意となり、奥行きは時間という負の4次元を重ね合わせてくるわけです。しかし、知覚正面そのものに映し出されている像そのものはベッタンコであり、そこには奥行きは存在していません。いかに遠くの世界であれ、知覚正面ではココにあるわけですから、このココは過去から現在に至るまでの時間をすべて含んだココになっていると考えられます。ヌーソロジーの考え方は、そうしたココこそが主体の位置ではないのか、と言っているわけです。その意味でこのココは時間を持ちません。4次元の長さが限りなくゼロに近いところまで縮められているということです。ですから、何かモノを見た場合、知覚正面上での視線は3次元的な感覚で言えば、すでにモノの中に入り込んだただ方向だけを持った極小の線のようなものになってしまいます(スピノール)。これが付帯質の外面から付帯質の内面へと移動する方法だと考えて下さい。4次元の人間は自在にモノの中と外を出入りできるのです。
写真はウォーターハウス「アリアドネ」(http://blog.goo.ne.jp/chimaltovより借用)
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 0 • Tags: コーラ, プラトン, プラトン立体, ロゴス, 人類が神を見る日, 付帯質, 位置の交換, 内面と外面, 素粒子