2月 26 2009
地球、月、太陽の本質(1)
●交信記録19940320
地球に対する月の公転周期28日とは何を意味するのですか。以前に付帯質が等化を行うまでの次元の数とありましたが、それは正しいのですか。
はい。
太陽に対する地球の公転周期1年とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における覚醒を起こす対化の数です。
1年の間に月は地球の周りを約13回公転します。このときの「13」とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における進化への反映を起こす対化の数と考えられるといいでしょう。
地球の一自転、すなわち一日とは何を意味するのですか。
精神が精神を交差する位置です。
1年が約365日になるのはどのような意味があるのですか。前に「365とは等化のカタチを持ったものすべてを表す次元数」といわれましたが、それは「精神の内面と外面を等化したものが再び付帯質を形作るまでの次元数」と同じような意味ですか。
方向性としては全く同じですが、正確には変換作用における対化の等化における次元数に当たります。
地球に対する月の公転と自転の周期が全く同じなのは付帯質の内面と付帯質の外面が全く等しい力で働いていることを意味するのですか。
はい、そうです。付帯質としての力の方向性が全く同じ力で働いているからです。
月の公転が付帯質の内面の次元で、月の自転が付帯質の外面の次元と考えてよいですか。
はい、よろしいです。
それは人間にとっての善なるものと悪なるものの関係と同じですか。
人間が本来の方向性を反転させていることを悪とするのならば、同じことを意味します。
■解説
さて、いよいよ天体についての情報が出てきた。例によって「難解な、あまりに難解な」OCOTによる説明が綴られている。「取りつく島もない」というのはまさにこのことだ。
以前、『シリウス革命』にも書いたように占星学や神秘学などとの擦り合わせで、ある程度、惑星の持っている意味はヌーソロジーの観点からも辻褄合わせを行うことはできる。しかし、ミクロ空間と違って、マクロ空間に対しては僕自身まだ肝心の描像がしっくりときてはいない。ここでいう「描像」とは、ちょっと抽象的な言い回しになるが、「大陽系空間が一体、どのような観念の表現空間であるのか」という意味での描像だ。いや、一気に大陽系空間にまで飛躍するのは身のほど知らずと言うべきかもしれない。それ以前に地球の外部に広がっている空間とは一体いかなる意味を持つ空間なのかをヌーソロジーの思考から深く再考する必要性がある。近代理性の目で大陽系を見て、そこにいくら問いかけたとしても、おそらく大陽系は自身の出生の秘密を微塵たりとも明かしてはくれないだろう。
哲学でもよく言われることだが、人間の理性の目というのは架空のオールマイティーな視座から世界を見て、あたかも自らが神であるかのように振る舞っている。例えば、科学番組ではよく原始の地球の姿がCGで再現されたりする。ドロドロの溶岩が地表を覆い、そこに分厚い雨雲が覆い、長期間、雨が降り続け、溶岩を徐々に冷やして行く様子がCGのカメラアイによって描写される。しかしここで僕らは慎重になる必要がある。一体、誰がその様子を見ているというのか。そこで原初の地球を見ている目とは一体誰の目なのか。この科学自身が描く宇宙史の中では、原初の地球においては世界を見ることを可能にする眼球どころか未だ微生物の元となる有機物さえも発生していないのである。科学的理性はこの矛盾、ならびにその越権行為に対してあまりに無頓着すぎるのだ。
科学的理性は自らが思考対象とする物質というシステムの中では極めて精緻で素晴らしい理論構築を行う。これはもちろん賞賛に値することは言うまでもない。しかし、その一方で、認識や意識の問題を全く考慮していないために、世界が差異で成り立っていることをほとんど忘却している。世界は観察者という差異を含んで初めて世界として成立し得るのであり、この観察をなし得ている力は時空に散在する物質という同一性の中で説明し得るものでは決してない。脳内のシナプスの発火が意識を生じせしめているとして、一体、その発火がどのように意識の発生と結びつくというのか、それに対して科学は語る言葉を持たない。
この生の現場に、様々な関係性のタベストリーで織り込まれた者。それが現存在、世界内存在としての「わたし」である。それは意識という現象の名のもとに立ち表れた存在を構成しているであろう諸関係の総体の綴じ目のようなものでしかない。この綴じ目のもとに時間や空間、さらには地球や大陽系が存在しているのであって、その逆では決してないのである。自身の今見ている現実(リアル)、そしてそれを支えている諸観念から乖離することなく世界を見つめることが肝要なのだ。それによって初めて「わたし」は星の秘密と接続することが可能になる。いつも言ってることたが、惑星は決して単なる土塊として機械的に回転しているのではない。科学的理性にはまだ見えてきてはいないが、それは僕らの精神を形作ってい高次元精神の活動の痕跡(トレース)なのだ。
とは言ったものの、一体いかにして、世界内存在としての「わたし」から見た地球や惑星にアクセスすることができるというのだろうか。そのためにはまずは身体から広がっている空間というものがどのような観念を含んでいるかを注意深く探索しなければならない。その諸観念が見えてきてこそ、僕らは真の地球に、不動の大地としての地球に立つことができる。当然、その先には不動の月、そして不動の太陽が待っていることだろう——つづく
上画像はhttp://www.ne.jp/asahi/tk/7777/universe/pastuniverse.htmより借用しました。
3月 3 2009
地球、月、太陽の本質(2)
■解説
さて、前回の交信記録19940320の内容をについてだが、構造を丁寧にやっても退屈だろうから、今回は寓話調でざっと解説してみよう。地球と月の回転に対するイメージをまずはつくっていただきたい。では、はじまり、はじまり。。
旧約の信徒たちは地球を回しているのは天使たちだという。大天使ルシフェルが神に謀反を起こしたとき、ルシフェル側に着いた天使たちがいて、その数が365人だったというのだ。そして、その反対に神側についた天使たちも365人。その指導者はミカエルだ。ルシフェルの軍勢VSミカエルの軍勢。力は互角。この勢力の拮抗は月が決してウラを見せないことに表れているという。
地球の自転は僕らに時間という認識を与える。日が巡り、星が巡り、その移り変わりによって四季が息づき、地上にはたくさんの命が同じように新しい生命を生み出しては死に行き、死しては生まれる。しかし、いつの頃からかこのような円環的時間の巡りは忘れ去られ、直線的時間が人類の意識を支配するようになった。ミカエルの軍勢の時間が「円」ならば、おそらくルシフェルの軍勢の時間は直線だ。いや、それはより直裁的に歴史と言い換えてもいい。年表がつねに直線に沿って記述されていることを思えば、歴史というものがいかに直線的時間に魅せられているか一目瞭然だ。
「直線とは究極の迷路である」というボルヘスの言葉を信じるならば、僕らが現在抱いている歴史の観念もまた迷路と言える。何処に行き着くのか分からない歴史の果て。その先に希望があるのか、それとも絶望が待っているのか。歴史の上を歩み続ける人間はまるで判決のときを待つ囚人のようではないか。
OCOTとの交信が始まる以前、僕はNOMIという意識体と交信をとっていた時期があった。もう25年ぐらいも前のことだ。この愛すべき暗黒の友は地球は魂の流刑場だと語っていた。そして、地球は虚無に向かって絶えず落下し続けているとも。もちろん、この落下は単純な直線的落下ではなく、クリナーメンのように絶えずズレを作り、渦も巻くし、多少の停止もする。しかし、全体的に落下し続けていることに変わりはない。NOMIに言わせれば、文明とはそうした流刑者たちの強制労働の結果であるという。まぁ、暗黒の友だから口は悪い。ご勘弁を。
人間が地上に都市を建築していくこと、そして、そこで鉄骨を天に向けて空高く積んで行こうとすること。それは建築ではなく落下だということなのだ。そして、この落下を背後で阻止し続けているいる力があり、それが月だという。月はちょうどクルーザーの上で巻き取られていくリールのように、海底奥深く沈んで行こうとする地球の落下をそれこそアリアドネの糸で懸命に引き戻そうとしているというわけだ。
例えば、地球が28回回るということは、28×24=672時間の直線的時間を落下したことになる。月は地球とは反対方向にそのリールを1回転回して、地球の落下を食い止めようとする。地球の落下を作用とするならば月はその反作用として回っているというわけだ。グルグルと機械的に回っているようにしか見えない地球と月。しかし、漆黒の宇宙空間ではまさに闇の天使の軍勢と光の天使の軍勢の熾烈な戦いが繰り広げられているということなのだろう。それにしてもこの戦いは恐るべき精度で拮抗している。作用と反作用と言われればそれまでだが、この拮抗は戦いというよりは、むしろ闇と光の調和と呼んだ方がふさわしい。
しかし、ここでふと疑問が頭をよぎる。なぜ、地球は落下し続けなければいけないのだろうか。歴史という闇、直線的未来という不透明な場所に向かって、なぜ、地球は堕ちていかなければならないのか。それが分からない。NOMIは言う。「地球を流刑場に決めたのは神だ」と。確かにルシフェルを天上界から追放したのは他ならぬ神であった。では、なぜ神は天使長たるルシフェルを堕天させなければならなかったのか。旧約には神が自分を出し抜こうとしたルシフェルに怒り心頭して追放したとあるが、こんな傲慢な神こそ世界から追放するべきである。だからその類いの記述は真実には触れていない。
おそらく事実は全く逆なのではないか。神はルシフェルに絶対的信頼を置いていたに違いない。だからこそ地上に落としたのである。神が自らの成長のために敢えて汚れ役をルシフェルに頼んだのだ。ちょうど、イエスに諭されてユダが密告者の役を買って出たように。
そういう経緯だらこそ、神とルシフェルの間には誰にも知られていない密約があると考える必要がある。そして、その契約が交わされているところが月。大いなる女の場所なのだ——ルシフェルよ、おまえが引き連れたかわいい365人の部下たちが無事、天上世界へと戻れるように、わたしはミカエルに命じて、その365人の天使たちの妻を月に住まわせよう。もちろん、おまえの部下たちは天上での記憶を忘れているので、それが自分の妻とは知らず敵と思って戦うことだろう。しかし、時が来たら必ず、妻の顔を思い出すように手配しておく。時が来ればおまえにも召還命令を出すことになろう。そのときは二人して世界の成就を祝うときだ。
月はこうして神とルシフェルをつなぐ固い絆となった。365人の堕天使の妻たちは神の聖数である「13」にちなんで13のグループに分けられ、28×13=364として一年を形作るための力となった。これは月のリールがアリアドネの糸を13回巻き取とることを意味しており、神がルシフェルとの友愛を保証していることの証左に他ならない。364+1=365の1において、一年と一日は一致を見、この一致が天上と地上の一致の証左となる。ピラミッドテキストにいう「神々の1日は1年であった」という円環的時間の本質がこの一致にあるわけだ。
このことから、一年=地球の公転とは1日=地球の自転(落下)を促進させている本質力と言えるだろう。地球の自転に対して月の公転がそのウラを取り、そして、その月の公転のウラを地球の公転が取る。ヌーソロジーの言葉で言えば、付帯質の外面(オモテ)→付帯質の内面(ウラ)→精神の内面(ウラのウラ)という関係で、1日と1月と1年は結ばれているということだ。
天動説と地動説とを和解させるためには、この1日と1月と1年との対称性を取り戻さなければならない。それがヌーソロジーのいう不動の地球、月、太陽の意味なのである。
上画像はhttp://www.nashica.com/astro/feature.htmlからの借用です。
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 1 • Tags: 付帯質, 地球の自転