4月 5 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』——人間型ゲシュタルトの起源、その1
ロッジの方でnooobie(ヌービー)さんという方がご自身の日記にベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』(上図)という絵画をUPされていた。この作品がヌーソロジーの観察子概念であるψ3〜ψ4と関係があるのではないかという問題意識からである。無意識というものが視線の幾何学によって構造化されていると考えるヌーソロジーにとっては、このnooobieさんの問題提起はヌーソロジーの王道をいくものであり、僕はすぐに以下のようなコメントをつけた。
>nooobieさん、こんにちは。フーコーの『言葉と物』のしょっぱなにこの絵のことが解説されてますね。nooobieさんのおっしゃる通り、この絵には様々な観察子のレベルが幾重にも入り込んで、秀逸なアイデアを以て表現されているように感じます。ψ3~ψ4は言うに及ばず、ψ*3~ψ*4、そしてそれらが織りなすキアスム、さらにはそのキアスムを統合する視点まで盛り込まれていると解釈することも可能ですね。
『言葉と物』においてフーコーは、この絵画上における視線の交差の分析を通じて古典主義時代(ルネサンス期から近代の橋渡しの時代)における知の在り方についての分析を行っています。知の在り方というのが分かりにくければ、主体の在り方と言ってもいいかな。主体がどのようなやり方で自身の意識を綜合させているかということを、この絵画の中で交錯している様々な視線の関係性から解説を試みています。 フーコー自体の分析はかなり難解なので(というか、言い回しがまどろっこしい)、僕のレビューにも挙げた大澤真幸さんの『資本主義のパラドックス』を是非、お読みになられてみるといいと思います。大澤氏はフーコーが言いたかったことをもう一歩分かりやすく解説してくれていまから、nooobieさんをクラクラさせている幻惑が少しは明晰な幾何学となって整理されてくるかもしれません。
ちなみに、大澤氏の解説を読む限り、この絵画に含まれているすべての視線ははヌーソロジーでいうψ9~ψ10のシステムまでをすべて網羅して、ψ11~ψ12の段階へとまさに突入せんというところの状態だと言えそうです。ヌーソロジーの文脈では、古典主義の時代というのは、実際、ψ9~ψ10からψ11~ψ12に向かう転換点のような時期に当たると考えていたので、そのへんの論説を補強する材料として使えます。新著でもこの絵を題材にして、思形や感性の説明をしようと思っていたところだったのですが、nooobieさんのいきなりのUPにちょっとビックリです(笑)。
* * *
絵画を思考によってこと細かく分析することを感性の蹂躙だとして嫌う人たちもいるが、絵画の歴史の中には「さぁ、この絵のナゾを解けるもんなら解いてみろ」といわんばかりの作品が時折、登場してくる。このヴェラスケスの作品もその中の一つと言っていいだろう。人間において実際に見えている世界、つまり「人間の外面」という場所に精神が息づくと考えるヌーソロジーにとって、絵画史とは精神の有り様の履歴でもある。絵画が意識の表象を表象するものである限り、人間の創造力が見えている世界をどのように表象するのかというその表象の仕方、させ方の中にその時代時代の精神の様態が表象されていると考えるのはきわめて自然なことでもある。そして、多くの絵画評論が語るように、絵画における表象の在り方は人間の歴史の進展とともに多くの変遷を見せてきた。
フーコーがこの『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析で言いたかったことは、古典主義の時代(17世紀〜18世紀iにかけての西欧)において表象を通しての思考体系の基盤が完成されたということである。「表象を通しての思考体系」とは、簡単に言えば、見えるものにすべてが還元され、思考がその中から一歩も出られないような場のシステムいったような意味だ。古典主義の時代に確立されたこの思考体系は同時にデカルトの「我思う、ゆえに我あり」における「我」なる存在を生み出したと考えられるのだが、これは近代という時代を絶えずリードしてきた近代理性の主(あるじ)としての「わたし」のことにほかならない。理性=明らかにする力。そして、この明らかにする力というのは目の力のことでもあり、それは隠されていたものを表層へとえぐり出す行為、すなわち表象化する力のことにほかならない。しかし、ここで注意しなければならないのは、表象とはその原語がre-resentation=再-現前化することの意でもあるということだ。それはあくまでもリプレイされた現前であり、事物そのものの現れのことではない。リプレイされた像によって世界がすべて覆い尽くされてしまうということは、むしろ事物のそのものの現れをすべて隠蔽するためのシステムとも言える。そして、このリプレイする力こそがヌーソロジーで「人間型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのである。世界が人間型ゲシュタルトで覆い尽くされしまう契機がこの作品には表象されている、というわけである。
では、一体、この作品の何が、世界を表象で満たし、その表象が作り出すシステムから一歩も出ることのできない「わたし」を表象させているというのだろうか。ここではフーコーの分析を下地にしてヌーソロジーからの分析のあらすじを簡単に書き加えてみることにしよう。
——次回につづく
4月 8 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その2
●〈見ること-見られること〉の相互反転
この作品の第一の特徴を一言でいうと「見られること」が表象されているという点である。通常の写実的な絵画は風景画にしろ、人物画にしろ、画家の視野上に映し出されている視像がそのままキャンパスに描き出されたものとなっている。つまり、「見ること」が絵画によって表象されているわけだ。そのとき絵画空間はそこに描かれた風景世界の中だけで完結している。言うなればそれは対象世界だけで閉じているとも言える。しかし、この『ラス・メニーナス』はいくつかの仕掛けを施すことによって「見ること」のみならず「見られること」をも表象し、かつ、「見ること」と「見られること」との間にある境界を無効にするような効果を醸し出している。
向かって画面左に大きなキャンパスがあり、そのすぐ右手に絵筆を執っている画家がいる。これがおそらくベラスケス自身だろう。彼は自分が描いている絵が正確にモデルと一致しているかどうかを確認するかのように首をわずかながら傾げながら、モデルらしき対象の方を見ている。その傍らにいる少女、そして道化師、その背後にいる召使い風の男もまた画家が描こうとしているモデルの方に視線を向けている。これら複数の視線の効果によって、鑑賞者には画家が単なる静物画を描いているのではなく、某かの人物をモデルにしているのではないかと思えてくる。そして、さらなる絵の細部に注意が向かうことによってその思惑を確信し、人物の正体までもが明らかになってくる。
それは部屋の奥まった位置、ちょうど少女の頭の上あたりにそのモデルとなる人物が映し出された鏡らしきものを発見するからだ——鏡の中には大人の男女のペアが仲睦まじく並んでいる様子が窺える。おそらく、この少女の父と母ではないのか。二人はこの館の主に違いない(実際、このペアは時のスペイン国王フェリペ4世とマリアーナ王妃とされている)――こうした連想によって鑑賞者は結果的に、この絵画のフレーム自体がモデルである夫妻どちらかの視野世界であることを知る。つまり、この作品においては描く者と描かれる者とのコンポジションが通常の写実画とは正反対の方向へ反転させられた形で表象されているのだ。
このコンポジションの反転において、キャンバスと鏡が果たしている役割には絶大なものがある。向かって左側に立ててあるキャンバスには画家の目に見えている情景がおそらく正確に描き写されていることだろう。そこにどのような情景が描かれているかは中央奥の鏡が保証してくれている。もし、鏡によるこの保証を絵画から取り除けば、この絵はある裕福な画家の一族を描いた肖像画とも受け取れないこともない。しかし、この絵画を支配している計算高い光学はそのような解釈を決して許さない。なぜなら、奥まったところに立つ壁には用意周到にも何点かの絵画がかけてあり、それらはすべて薄い暗がりの中に沈み込んでいるからだ。薄闇の中に沈殿したこれらの画との比較によって、壁の中央にかけられた男女の像を囲う額が肖像画などではなく、それ自身光を反射する鏡の枠であることが鑑賞者にはすぐに分かる。
画家は見るものであると同時に見られるものでもある。と同時に、モデルとなっている夫妻も見るものであると同時に見られるものである。こうして、互いの視線は合わせ鏡のように互いに互いを反照させ合い、その軌跡は〈含むー含まれる〉の関係を無限に反復させることになる。
ここに展開されている幾何学的関係はヌーソロジーではおなじみの交差円錐のモデル(下図参照)で表すことができるが、参考までに観察子での対応を示しておくことにしよう。
1、次元観察子ψ3……モデルとなっている人物の視野空間そのもの
2、次元観察子ψ4……夫妻像が映し出されている鏡の中の空間
3、次元観察子ψ*3……夫妻像が描かれていると想像される画家のキャンパスの画布
4、次元観察子ψ*4……この作品自身の構図に表されている遠近法。
反転のコンポジションがない場合、つまり一般的な写実画の場合、絵画は大方がψ3とψ*4を表象化していると言える。このときにいうψ3とは絵画の画布面そのものに対応しており、ψ*4の方はその面上に遠近法として与えられた奥行き表現に対応する。しかし、この絵画は、作品自体の中に画家の描くキャンパスと鏡を描くことによってψ3とψ*4の関係をそれぞれ反転させ、ψ4とψ*3の関係を絵画の中で表象させることに成功している。ここでいうψ4とは鏡に映し出されたモデルの顔およびその背後の空間に想定されている奥行きであり、ψ3はキャンパスに映し出されていると想像される画家自身が見ている視野である。モデルの立ち位置からは決して窺い知ることのできない画家の視野は鏡によって表象(代理)され、夫妻はこれによって自身の顔や背後を表象することが可能になる。
さて、この当たりまでならば僕らレベルの頭でもどうにか分析が可能だろう。しかし、この作品が表象化しているものは実はそれだけではない。フーコーはこれらに加えて、画面右奥に描かれている今まさに部屋から出て行かんとする男の視線やこの絵画の中を満たしている光、そらにはこの絵画を鑑賞している当事者についても鋭い分析を行っている。実はこの分析によって抽出されてくるものが表象のシステムの完成体と深く関係を持つものなのである
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト