4月 16 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その3
●前後からの光と左右からの光
この絵画の中を満たす光はどこから来ているのだろうか。フーコーは次のように書いている。
「絵は右端のところで寸のつまったパースペクティブにしたがって表象されている窓から、光をうけている。見えているのはほとんど窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは交叉しているとはいえ、ひとつには還元しえぬ二つの隣り合った空間を、おなじようなゆたかさをもって同時にうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の、鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。」(M・フーコー『言葉と物』p.29)
画家とモデルの間を満たす光。それは互いの視野の中にその出口を求めようと先に示した交叉円錐の幾何学に従って溢れ出してくる。しかし、これらの光の出所は結局のところ、この絵の中ではキャンバスの右端のところに位置する輪郭もはっきりとしない窓からである。この窓からもたらされる光線はこれら一連の出来事が起きているサロン自体を柔らかい光で包み込み、この作品自体の不可視の中心となっている王-王妃の瞳孔へと流れ込み、絵に表されている視野空間の情景を作り出している。そして、それはまたこの作品自体のコンポジションを構成したベラスケスの脳裏へもフィードバックされ回収されていることだろう。
しかし、こうした構成だけではこの絵画のフレーム自体を自らの視野とする王はまだ世界の中心たる自分自身のポジションをはっきりと自らの意識に表象化することはできていない。窓から差し込んでくる光は室内に充満して、様々な人物、画家のキャンパス、鏡を照らし出し、そこに視覚では捉えることのできない種々の像を意識のうちに表象化させてはくる。が、しかし、結局のところ、王自身も鏡に映された自分や画家のキャンパスに描かれているであろう自分を表象化することによって、部屋の中の一住人と化し、この作品の視点そのものとしての不可視の中心が持っている本質的な役割は、ただ窓から入射してきてキャンパス内を満たし室内を渦巻く光に委ねられたままだからである。この絵を描くことを可能にしているこうした窓からの光をこの作品のコンポジションに即して「左右からの光」と呼んでみることにしよう。
作品として描かれた光は見紛うことなく「前後からの光」としか言いようのないものであるが(鏡の光も含めて)、ここで前後からの光に照らし出された事物の諸関係をあらわにしている(表象化している)のは実は左右方向からの光(窓から差し込んできている光)だということだ。そして、前後からの光は左右方向からの光の存在に気づいてはいるものの、その光を自分と同一視することはこの時点ではまだできてはいない。
そこでベラスケスはもう一つの仕掛けをこの作品の中に忍び込ませる。つまり、この部屋全体に渦巻いている前後からの光と左右からの光が行っていることの全体性、すなわち前後の光によって画家とモデルとの関係を表象させ、左右の光によって画家とモデルとの関係を表象化していたものを表象化させること、この二つに加えて、今度はその第二の表象化を行った認識の視座自体を表象化する者を象徴として作品の中に盛り込んでくるのである。
それは絵画の中央に配された鏡のすぐ右隣、部屋の出口の階段のところにいるひとりの男として描かれている。この際、彼が何者であるかは問題ではない。いずれしろこの人物は、この部屋で今起こっていることの全体を俯瞰できる立場にある唯一の人物であろう。彼は画家としての描く立場、王-王妃としての描かれる立場、そして、その情景を見ている家臣たちの立場、それらをすべて一望のもとに眺められる立場に立っている。その意味において、彼はこのサロンという閉ざされた一つの全体空間から抜け出る開口部を知っている何者かである。彼が佇むその開口部は単に部屋から水平方向に穿たれた出口という形を取るだけではなく、次元を異にすることを暗に示すために「階段」という形で描かれている。この階段は部屋全体を支配していた二つの光の方向であった前-後、左-右から、さらに上-下という抜け道を知った意識の表象化の力の象徴でもあるだろう。
窓から差し込んで室内に充満していた光とともに不可視の中心となっていたこのモデル(王)の視点は、この第三者たる「階段の男」によって露なものとされ、結果的に、この階段の男の眼差しは王の視点さえも自らのうちに表象化することを可能にしてくる。つまり、世界を客観視する眼差しそのものがここにおいて意識のうちに表象化されてくるのである。これは哲学的に言えば、超越と内在の合体ともいっていい出来事であるだろう。思想史的立場から見れば、この絵画が描かれた古典主義の時代を契機としてあのデカルトの「我思うゆえに、我あり」という言葉で有名な近代理性としての「我」が立ち表れてくることは言うまでもない。
多少、まどろっこしい描写になってしまったかもしれない。次回はこれらの構造をヌーソロジーらしく簡潔な表現で解説することにしよう。
——つづく
4月 23 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その4
さて、この『ラス・メニーナス』の中に組み込まれている幾つかの視線が織りなす構造についてヌーソロジーの観点から大まかな分析をしてみることにする。以下の内容は、まもなくこのブログで連載しようと考えている『4つの無意識機械』の内容の伏線とも言っていいものなので、とりあえずはヌーソロジーが意識構造をどのように読み解いていくのかその方法論についてのダイジェストとして目を通していただければ幸いである(最下部に示した図1参照のこと)。
まずは次のような前提を設けて構造の骨格を抽出してみよう。
1、この作品は王の視野空間が表象化されたものである。
2、窓から入って室内を満たしている光は作品内の向かって右手側からの光の入射によるものである。
3、鏡に映し出されている空間は王が感覚化している王の背後の空間である。
4、画家には王の背後の空間そのものが見えている。
5、キャンパスに描かれている像は画家に見えている像の模写である。
6、階段の男はこの部屋全体で起こっている出来事を俯瞰する位置にいる。
7、他の人物や犬についてはとりあえずここでは取り上げない。
1、第一の軸——王VS画家、もしくは前と後
王の前方に画家が立ち、王はその画家に見つめられる存在としてキャンパスの背後側に立つ。しかし、ここでいう王とは、この作品によって示されているように王と呼ばれるようになる以前の者の目前に生起している現象でしかなく、「王」という自意識の種はまだ視野世界そのもののと一体化した混沌としてウロボロス的状態を保っている。そのような状態としてこの絵を見れば、当然、この絵にはいかなる意味も与えることはできない。画家も鏡も鏡に映る王自身も、そして、画家のキャンバスも、窓から入り込んでくる柔らかな光線も、それはサルトルのいう木の根っこと同じく、嘔吐を催すような不気味な光の模様でしかないだろう。それは言葉で名指される以前の風景であるがゆえに世界のありのままの様態とも呼べるし、そこからやがて王が立ち上がってくるという意味において主体の起源とも言える。
「前」が現象として文字通り現前した後、前はいかにして「後」の存在を知りうるのだろうか。本来、決して見えることのない「後」を「前」に架空させているものとは一体何なのか。それはおそらく「眼差す」という能力を持った特異な点が主体=「前」の中に混入されて出現しているためだと考えられる。それがヌーソロジーが「真実の人間」と呼ぶ他者そのものとしての他者である。この他者は普段、われわれが日常的に対面している他者ではないことに注意してほしい。主体はこの「眼差すもの」によって眼差されることによって「わたし」というイメージを確立させ、その後、その類似したイメージをこの「眼差すもの」に当てはめることによって「他者」という概念を形成する。だから「わたし」というイメージが生まれてくる以前の「眼差すもの」に対してはそれが誰なのかを言い当てることは原理的に不可能である。このようなアンタッチャプルな他者のことをラカンは「大文字の他者」と呼んだ。未だ意味を与えることのできない原光景の中にはこのように大文字の他者が特異点として入り込んでいる。
その把握不能とされる大文字の他者の眼差しをこの作品における画家の眼差しに重ね合わせてみよう。画家はモデルとしての王を見つめている。ここで画家が筆を下ろしているキャンバスには画家自身の目に映っている風景が描かれているのだろうが、キャンパス自体は王に対しては背側を見せているために、王はその風景、つまり、画家に見えている自分を直接知ることはできない。王にできることは奥まったところにある鏡に映し出された像を通して自分の像を想像することだけである。しかし、キャンパス上に描かれた王の像と鏡に映し出された王の像には絶対的な差異がある。なぜなら、鏡像は左右を反転させてしまうからである。このことは画家に見えている世界と王が画家が見ている世界を認識することには本性上の差異があることを暗示させている。
画家の眼差しに晒されることによって王は自分という存在の位置を空間の中のある一点として定めることが可能になる。しかし、その位置を自分が認識する限りにおいて、それはあくまで鏡像の位置である。ウロボロスのまどろみにいた現象そのものとしての意識の居場所はこうした原光景内部にセットされた他者の眼差しによって世界からべりべりと引きはがされ、やがては肉体(瞳孔)と呼ばれる位置へと見事に遷移させられていく。世界の内部にまどろんでいた主体が世界から追い出されるという意味では、この引き剥がしは世界自身の排泄行為とも言える。世界とのカオティックな一体感から鏡像段階を通しての外部への疎外。これをフロイトのいう口唇期から肛門期の意識発達に対応させてみるのも面白いかもしれない。
世界から排泄される運命にあるもの――これがヌーソロジーでいうところの付帯質の意となる。作品自体に表された原光景を光に満ちた昼の世界とするならば、原光景たる王の視野空間が自身の肉体を感じとっているこの付帯質の位置は「後」であり、それは光を失った闇の世界でもある。つまり、王が「わたし」を目に映し出された光景の手前側に想定するということは、後ろを見ているということと同意であり、この後ろは画家にとっての前(それは昼の世界であるはずだから)とはまた違ったものとなっているということである。
画家に自分がどのように見えているかを王がいくら正確に描像したとしても、それが王側からの描像である限り必ずや鏡像と化してしまう。われわれが人間と呼んでいるものの観念的基盤はおそらくこの鏡像体にある。「前」そのものであった主体としての面はそこで裏面へと反転させられ、仮の面(ペルソナ)としての顔(パーソナリティー)を持たされるのだ。しかし、世界は一体何のためにこのような合わせ鏡の仕組みを用意してきたのか?世界に人間が存在しなければならない理由。世界に自己と他者が存在している理由。自己と他者のそれぞれがお互い自身の発生の起源として相互反照的に位置づけられている理由。それは一体何なのか。ここにヌーソロジーのいう「対化」という概念の本質がある。創造が「二なるもの」の分化から始まったとするならば、われわれはこの「二なるもの」をわれわれが自己と他者と呼ぶ「我」と「汝」の中に見出さなければならない。そして、その「二なるもの」とはわれわれが「前」と「後」と呼ぶものと極めて深い関係を持って構造化されている。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: サルトル, フロイト, ラカン, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト, 付帯質