5月 27 2009
地球から広がる空間について、その4
●超越論的という言葉の意味について
前後がちょっと逆になりましたが、ここで前回少し触れたフッサールが提唱した「超越論的な意識の構成」という内容について少し捕捉の説明を加えておきます。ここではポイントだけを手短にまとめておきます。
フッサールが創始した現象学という哲学の分野はデカルトやカントの流れを組んだ思考の枠組を持っています。その考え方のキーワードとなるのが僕もよく使用する「超越論的」という言葉です。超越論的というと経験を超越した神のような立場から物事を考えることと受け取られがちですが、それは「超越的」の意であって決して「超越論的」の意ではないので注意が必要です。「超越論的」とは超越的とはむしろ正反対の意味で、経験以前の場所に立って意識が成り立つ条件を問い正していく思考的立場のことを言います。例えば、目の前に何らかのモノがあるとして、僕らはそれを自然にモノとして認識しています。「超越論的」とはこのようなモノの認識がいかにして意識に成り立っているのか、それを認識しようとする、まぁ簡単に言えばメタな認識の立場に立った思考的態度のことを言います。この認識は通常のモノの認識を超えてはいますが、と言って、神のような超越者を認識することではないのが分かります。
こうした超越論的な思考方法を取ると、モノがなぜモノとして認識されるのかに始まって、それを見ている主観としての「わたし」が「わたし」という主観として認識される条件、さらには客観世界が客観と認識される条件、挙げ句の果ては、その客観を取り入れて思考しているメタな主観としての「わたし」が成立する条件等、つねに超越論的に思考を連鎖させていく必要性に駆られていくことになります。こうした思考態度をその限界にまで徹底させたのがフッサールの現象学です。
ということで、フッサールが行った超越論的思考の足跡を簡単にまとめておきます。
フッサールは世界が客観性(自体性)をもった世界として僕らの認識の中に現出してくる条件を次のような三つの段階で考えました。
1、時間意識における超越
これによって意識は現在を超えることができ、現在を起点に過去や未来を相対化することができます。
2、空間意識における超越
これによって意識は空間的に隔たった様々な対象の見え姿の想像を可能とすることができます。
3、他者意識における超越
時間的超越も空間的超越もある意味では主観内部の意識形成にすぎず、この第三の超越によって意識は初めて主観を超越することが可能となり、他者との相互了解のもとに客観という合意形成に至ることができてきます。
そして、ここが重要なところなのですが、このような3段階の超越を経験しても尚、意識はつねに「わたし」の意識であり、そこでもなお一つの主観を保ち続けているのが分かります。このような超越論的統覚を果たした自我意識をフッサールは単なる心理学的な自我と区別して超越論的自我と呼びました。
参考までに、これらフッサールが辿った超越の内容をヌーソロジーが用いる次元観察子に対応させると次のようになります。
1、時間意識における超越………ψ3(時間意識を超越できる場所の条件を規定すること)
2、空間意識における超越………ψ5(主観における知覚的統覚が起きている場所を規定すること)
3、知覚的統覚の超越………ψ7(客体の位置が生まれる条件を規定すること)
4、他者意識における超越………ψ9(客観の位置が生まれる条件を規定すること)
5、超越論的自我の位置………ψ11(主観が客観を取り込める位置が生まれる条件を規定すること)
現象学の考え方ではこのような条件が揃って初めて、わたしたちの前に客観世界という場所が現れ、さらにはそうした客観を自らの中に統合した超越論的な統覚者である近代的人間としての「わたし」が意識として現象化してくることになります。つまり、ヌーソロジーは現象学が明らかにしようと試みた意識における客観的世界の成立の根拠を単に言語による哲学的観念の中に探るのではなく、それを高次元の幾何学的な空間構造に置き換えて表現、把握することを目的としているとも言えます。
では、なぜ、そのような幾何学的な置換を模索する必要性があるのか――ここがヌーソロジーが「ヌース(創造的知性)」を標榜する所以となるところでもあるのですが、それは、ヌーソロジーがその先験的(人間の経験以前にすでに存在していると考えられるもの)とも言える意識空間の構造をそのまま物質の起源と目される素粒子世界の構造の中に重ね合わせて見ることが可能ではないかと考えているからです。もし、それが是となれば、物質生成の始源を人間の無意識構造に想定し、物質空間と精神空間を一体として見なせるような創造空間の中に人間の理性が介入を果たしていくことになります。そこに到来してくる超理性と、その超理性が育む超感性——この両者を持った者たちがヌーソロジーが「トランスフォーマー」と呼ぶものたちのことなんですね。
——つづく
5月 30 2009
地球から広がる空間について、その5
●ミクロとマクロが同じ方向だということのほんとうの意味
さて、冒頭でOCOTの世界観の中では人間が認識している空間のミクロ方向とマクロ方向の関係も「対化」であるという言い方をしましたが、これは自己と他者の間では身体空間の方向性が「人間の外面」と「人間の内面」という形で互いに反転して現れているということと同じ意味を持っています。
たとえば目の前に他者がいるとしましょう(下図1)。自己にとって他者の身体は他の存在物と何ら変わるものではなく、いかにも物体然とした形態で目の前に出現しています(レッドで示した3次元)。ですから自己側から見た場合、他者の身体から広がっている空間は単なる物体から広がる3次元の空間と全く同じものにしか見えません。こうした状態で認識される身体周りの3次元性のことをヌーソロジーでは「核質」と言います。
一方、今までお話してきたように、空間に対する認識の原点を物体側から観測者である「わたし」の身体側へと反転させ人間の外面という場所から空間を観た場合、その身体周りの空間はもはや物体の延長線上で把握できるような空間ではなくなっており、前-後は4次元、左-右は5次元、上-下は6次元とも言えるような全く別種の空間として認識されてきます(ブルーで示した3次元)。このようなかたちで認識される身体空間のことを「反核質」と言います。
自己の外面認識が芽生え始め(顕在化のことです)、身体回りの空間を6次元として思考し始めると、当然のことながら他者の身体を取り巻いている空間も本来ならば6次元空間として見なさなければならないのではないかという認識が生じてきます。つまり、ここで核質の対化(自他の空間がともに3次元と認識されている場合)と反核質の対化(自他の空間がともに6次元と認識されている場合)の双方が認識に上がってくるわけです。このときの核質と反核質の関係がそのままマクロ空間とミクロ空間の関係に対応してくると考えるとよいでしょう。つまり、マクロ空間とは他者の身体周りとしての空間のことであり、ミクロ空間とは自己の身体周りの空間であるということです。このことから、当然、自他においてはミクロとマクロも例のキアスム(交差配列)の関係で構造化されているということになります。
自己 核質(マクロ) 反核質(ミクロ)
他者 反核質*(ミクロ) 核質*(マクロ)
こうした自他空間の相互反転関係に普段、僕らが気づけないのは、核質の対化(自他における人間の内面全体)を等化している精神の働きがウラで暗躍しているからです。この精神が次元観察子ψ13にあたる観察精神と呼ばれるものです。このψ13は別の言い方をすれば現在、世界をワンワールドへと持っていかせようとしている無意識的主体の力と言っていいかもしれません。民主主義や平等主義や資本主義が作りだしているグローバリズム、さらには現代文明の駆動力となっている科学主義や貨幣主義もおそらくこのψ13の統制下のもとで働いている様々な属性ではないかと思います。言うなれば人間型ゲシュタルトを人間の意識に与えている本源力のことです。
観察精神とはその意味で反核質の対化における等化そのものの精神ということになりますが、この精神活動は反核質の対化が作り出している6次元の回転群SO(6)とSO(6)*とを等化した7次元空間における回転運動として現れてきます。
4次元時空とは全く別のところで密かに活動しているこの7次元空間は自己側においては人間の外面側へと入り込み素粒子が持った内部空間の全体性を作り出してきますが、他者側においてはそれが人間の内面側へと映し出され、ある意味時空とは全く見分けがつかないマクロ空間側に射影されてきます。さらに、観察精神であるψ13自体が次元構造全体の中を回り巡ってψ1へと回帰する性質を持っているために、観察精神が持った等化の働きだけはψ1で示されるマクロ空間方向に某かの回転運動として射影されてくることになります。その回転というのがほかならぬ月の公転です。
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 人間型ゲシュタルト, 内面と外面, 素粒子