6月 10 2009
時は糞なり——あるヒポコンデリアックの手記
太陽をいかにして腐敗させるか。
いや、いかにして醸成させるか。
それだけが当面の問題だ。
野生の雄牛のそれのように過剰な太陽の性欲。
マテリアルという意味においても、
イデアルという意味においても、
この欲望はちと異常すぎやしないか?
太陽のゾーエーは今や貨幣という名の贋金に姿を変え、
世界を壊滅へと導きつつある。
ヤツが何を食っているかは知らないが、
(月か?それとも死霊か?)
ヤツの肛門から次々と排泄されてくるのは、
いつも贋金だ。
よく言ったものだ。
時は糞なり——。
この糞を巡って有象無象のスカトロジストたちが都市を徘徊する。
だから、オレはふと思う訳だ。
いっそのこと、この顔面から目玉をくりぬき、
太陽の中に投げ込めたらどれだけ幸福(しあわせ)なことかってな。
太陽を醸成させるにはそれしか手段がない。
だろ?
6月 18 2009
地球から広がる空間について、その8
地球から広がる空間についてダラダラと駄弁を弄してきましたが、ここで地球、月、太陽が精神構造においてどのような役割を持っているのかについて簡単にまとめておきます。今まで示してきた地球や月の自転、公転の話ともいずれドッキングしてきますので、それが楽しみに思える方はどうぞ楽しみにして下さい。
まとめの前に、まずは僕の会社の取引先の会社の通信誌に掲載されたインタビュー記事を紹介しておきます。この記事は毎回、映画をネタにヌース話をくっちゃべる「NOOS DE CINEMA」というコーナーで、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を題材にしたときのものです。
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
「人間は一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」
今回のヌースDEシネマは「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を題材にヌーソロジーの独自な視点で語っていただきます。
* * * * *
藤本 今回の映画は、オフ・ブロードウェイで大ロングランを記録したロック・ミュージカルを映画化した『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』です。デヴィッド・ボーイやマドンナなどのロックスターもオフ・ブロードウェイでミュージカルを観劇しています。デヴィッド・ボーイはその後ロス公演に出資したりマドンナは劇中で歌われている曲の2曲を自分のレーベルからリリースしたいと申し出たそうですね。
半田 とにかく楽曲が素晴らしかったね。特にテーマ曲ともなっている『愛の起源(The origin of love)』はミュージカル史に残る名曲だね。作曲を担当したスティーブン・トラスクもバンドのギタリスト役で出演してる。サウンド・トラックを買っても損はしないと思うよ。
藤本 そうそう僕もCD買いました。ツタヤで借りようかなと思ってたら、半田さんに強く勧められて、博多のキャナルシティに一緒に行って買いましたね。(笑) どの楽曲もとても素晴らしいと思います。その中で『愛の起源』は一番気に入っています。この曲はプラトンの『饗宴』にモチーフを得た寓話を物語としてバラードにしたとCDの説明書に書いていました。
半田 そうなんだよね。『響宴』での議論のテーマが「愛」だったんだ。その中でソクラテスがまず愛を永遠のイデアとして語るんだけども、アリストファネスが語った愛の起源の寓話の方が有名になっちゃったんだよね。世界が生まれたばかりのころの人間は二人一組で背中合わせの生き物で、両手両足がそれぞれ4本ずつあった。しかし、人間が地上を支配するのを嫌った神さまは、この最初の人間を二つに引き裂き、それぞれ今の人間の形にした。以来、人間は失われた半身を求めて愛を渇望するようになった。という話だね。テーマ曲の『愛の起源』はそのストーリーをとても分かり易くアニメ仕立てにしていて、映画のセンスをぐっと引き立てていたよね。
藤本 その話なんですけど、今の人間が生まれる前=愛が生まれる前=人間が二人一組だった頃は「三つの性」があった。男と男が背中合わせだと『太陽の子』。女と女が背中合わせだと『地球の子』。そして『月の子』はフォーク・スプーン、太陽と地球、娘と息子の中間。今は男と女だけど、この「三つの性」について解説していただけますか?
半田 この三つの性というのはね、世界というものが生まれるための三位一体を象徴させて言っていると考えていいんじゃないかな。まず男・男の『太陽の子』というのは精神、女・女の『地球の子』というのは物質、そして男・女の『月の子』が意識。物質と精神をつなぐものが意識なんだけど、今の人間は人間自体の精神が自己と他者という双子関係で作られているということに気づいていないので、世界の成り立ちを単に男性原理と女性原理の二元論で見ちゃってるんだよね。それだと両性具有的な原理が見えない。結果、精神と物質が対立してしまう。そして間をつないでいる両性具有の部分が無意識の中に沈んでしまうんだね。月はその沈んでしまった無意識を象徴するものなんだよね。
藤本 男・女の『月の子』は、物質と精神をつなぐ意識であり、両性具有的な存在と考えていいのですか?映画の中で主人公のヘドウィグは、西ベルリンで男として生まれ育ちますが、アメリカの兵隊に求婚され、アメリカに渡るために性転換手術をします。その手術が失敗して傷跡が1インチ隆起してしまう。題名になっているアングリー(怒りの)インチ(1インチ)。ヘドウィグは、『月の子』ですね。
半田 主人公のヘドウィックがゲイだという意味ではそうだね。しかし、別の解釈もできる。そもそもこの作品が面白いのは至るところに月に象徴される人間の無意識世界を目覚めさせろというメッセージが様々な比喩となって盛り込まれているところなんだよね。たとえば、ヘドウィッグが歌う挿入曲の『ヘドウィグ&アングリーインチ』では「オレのオチンチンはもともとは6インチあった。それが1インチだけ残されてしまった、こんな半端な状況で一体どうしてくれるんだ!!」ってその何ともやりようのない怒りを歌ってる。これは全体の5/6がどこかに消えてしまった中途半端さに対する怒りなんだ。5/6というのは10/12でもあるんだけど、「12のうちの10がどこかに消えてしまった」という話は古代の宇宙論ではよくある話で、たとえばユダヤの「失われた10支族」の伝承なんかもそうだね。12で完全なのになぜか2しか残っていない。残りの10を探さなくてはならない、ってね。12のうちの2というのは不吉さを表していて、東洋占術なんかでも天中殺で使われてる。ヌーソロジーの宇宙観もそうだよ。
藤本 奥深い話ですね!では顕在意識が2で残り10が潜在意識。そしてこの映画のテーマは、「人間の無意識世界を目覚めさせろ」ということですか?どうしたら人間の無意識世界が目覚めるんでしょうか?
半田 ズバリ、最初に紹介したこの映画の主題曲でもある『愛の起源』の中にそのヒントは隠されているんじゃないかな。『愛の起源』の中で、もともと人間は背中合わせでくっつき合っていて、手足が各4本ずつあったと言ってる。このことが何を意味しているか、そのナゾを解くということだよ。実際、こうしたことを言ってるのは何もプラトンの『響宴』だけでなく、アフリカのドゴン族の神話にもノンモという生物がいて、これまた男・女の背中合わせのかたちをしてるんだ。日本にも両面スクナという伝説が残っているしね。
藤本 そうなんですか。アフリカや日本やでもそのような神話が残っているのですね。手足が4本ずつある意味って何ですか?それが「人間の無意識世界を目覚めさせる」ことと関係あるんですよね。
半田 これはヌーソロジーの根幹とも関係があることなんだけど、人間という生き物は本来、自己と他者で成り立っているということなんだ。つまり、ほんとうは二人で一人であって、個体が独立して存在しているように考えるのは誤りだということ。おそらく、大昔はそうした「二人で一人」という人間像が当たり前に思える意識状態で人間が存在していたのかもしれない。もっとも、それを人間と呼べるかどうかは分からないけど(笑)。
藤本 手足が4本とは、自己の中に他者が存在している。自他共にひとつであると言うことですね。それを神が引き裂いた。他者を取り戻そうとすることが愛ということですか?
半田 他者を取り戻すとも言えるし、ほんとうの自分を取り戻すとも言えるよね。なぜなら、自己とは他者によって与えられているものだから。『愛の起源』が語る背中合わせの男・女とはその意味で言えば、愛を成就した人間のかたちそのものと言っていいのかもしれない。愛が成就しているのだから、そこには愛なんてものはない。今の人間が愛と呼んでいるものはそうした失われた半身を取り戻そうとするあがきのようなものかもしれない。
藤本 「人間の無意識世界を目覚めさせる」・「ほんとうの自己を取り戻す」ことは、「愛を成就した人間のかたち」・「手足が各4本ずつあった」・「6インチあった」・「12」に戻ることですよね。この映画は、ヘドウィックが今の人間として、その道を彷徨っている姿を描いているのだと思います。
半田 そうだよね。その意味で言えば、愛が成就できない今の僕らはすべてがヘドウィグであり、そこに怒りや苦しみをぶつけるアングリーインチとも言えるね。
藤本 ヘドウィグは、現在の人間の象徴的存在ですよね。この映画の最後のシーンで、ヘドウィックは、化粧が剥がれ落ち、カツラを取り裸になって、雨が降る夜の街角をフラフラと歩いていきますよね。最後のシーンとしては、寂しい終わり方です。これも何か意味があるんですよね。ヘドウィグは、どうなるのでしょうか?凄く気になります。
半田 そうだね。一見するとこの映画は、結局「人間は魂の片割れを追い求めて永遠にさまよい続けるしかない」というメッセージを発しているように思えるけど、僕は違う見方をしてるんだ。ラストの少し前のところで、ヘドウィグが女装を脱ぎ捨てて男の姿に戻って額に十字架を描いて歌うシーンがあるよね。そのとき衣装は純白に変わっている。このシーンは実は無意識の覚醒を描いたものじゃないかと思うんだ。だから同時に、ヘドウィグと対照的な関係にあったイツハク(彼女はいつも男装をしていた)も、本来の女自身の姿に戻り、隠されていた美しさを開花させる。ここはこの作品でも一番大事なところで、本来の男と女に戻った人間の姿が現れているとこなんだ。さっき言ったよね。今の人間は皆がアングリーインチなんだって。つまり、「無意識を目覚めさせる能力」が去勢されて、悩み苦しんでいる。だから、本来の男と女に戻るということは、無意識の目覚めを寓意させているんだよね。そして、この映画が素晴らしいところはそこで物語を終わらせなかったところ。無意識がたとえ目覚めて愛が成就したとしても、また、別れがやってくる。最後にヘドウィグが雨の街を裸で放浪するシーンはその意味で「新しい始まり」と解釈した方がいいだろうね。そうやって、世界は流転し続けているんだと。決して愛が究極ではなく、成就した愛は、また別れの物語を作り上げ、人間という存在のストーリーは永遠に続いて行く。愛の成就というゴールよりも変化していくプロセスこそが最も大事なものなんだよ。—— 「いきいき生活通信」 2009年5月 1日号より転載
ということで、次回、地球、月、太陽の話を、架空のインタビュー形式にして続けてみることにしましょう。次回はコテコテにヌースロジカルに話します。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ • 0 • Tags: プラトン, ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ, ユダヤ