6月 29 2009
空間を哲学する——対話編その1
●男と女が潜む空間
藤本 男・男が『太陽の子』で精神、女・女が『地球の子』で物質、そして男・女が『月の子』で意識。これってヌーソロジー的に言ってどのような意味があるんですか?
半田 空間には男性的な性格を持った空間と女性的な性格を持った空間という二つの区分ががあるということだよ。そして、面白いことに空間が持ったこの性差は自己と他者の間では全く逆の構成を取っている。それによって、自己-他者が絡み合った空間では、必然的に、男・男、女・女、男・女、という三種類の力の流れを持った別々の回路が生み出されてくるんだよね。空間に内在しているこうした性差に僕らの意識はまだはっきりと気づいていない。それに気づき出すと、意識というものがこの空間に内在している性差が生み出す差異(力)の流れによって生み出されているものであるということが見えてくるんだ。
藤本 差異の流れ?
半田 違いがあるからその違いを埋めようと力の流れが発生しているってことだね。
藤本 気圧の差によってその間に風が吹くみたいな。。
半田 うん、そうだね。
藤本 確か『シリウス革命』でも書かれていましたね。性愛は必ずしも男・女の間で生まれているものではないって。
半田 もちろんだよ。ホモセクシャルもヘテロセクシャルもどちらもあり得る。宇宙的摂理からすればホモが異常なんてことは決してない。僕はホモじゃないけど、ホモセクシャルな性愛関係は決して否定されるべきものじゃない。
藤本 僕も女大好き派ですけどね。へへ。でも、男・男、女・女といったホモセクシャルな結合というのは何か深い意味があるんですか?
半田 うん、ある。さっきも言ったように、これは宇宙のエネルギー流動が単に(+,−)といった二値的な関係で動いているのではなく、(+,-,+,-)という四値をベースとして動いているために必然的に形作られる性関係なんだよ。具体的にいうと、[男・男]は精神の対化の結合を意味し、それは純粋な理性の世界を形作ってくる。一方、[女・女]は男・男の結合に反映されて付帯的に出現してくる空間でこれが物質世界のことを意味している。ヘテロ結合である[男・女(女・男)]は物質と精神との間を取り結ぶいわば中間の媒介領域としての聖霊が活動する中性領域のようなものだね。アリストファネスが語った「愛の起源」の寓話は、こうしたそれぞれのセクシャリティーの結合の在り方が太陽、地球、月という三つの天体の関係と深いつながりを持っていることを示唆している。
藤本 半田さんの言う空間に内在する性差というのは、ヌーソロジーがいつも内面とか外面とか呼んでいる幾何学的概念のことですか?
半田 うん、そう。簡単に言っちゃうと「人間の内面」というのが女、「人間の外面」というのが男。働きとしては内面が付帯質で、外面が精神だね。さらに付け加えると、外面から内面に向かうのが男のリビドー(欲動)、逆に内面から外面に向かうのが女のリビドー(欲動)だということになるね。
藤本 外面から内面が男のリビドー?内面から外面が女のリビドー?リビドーって?
半田 無意識の流れのようなものと思えばいいよ。無意識はある構造の中を流動している。これは僕がいつも使っているケイブコンパスの図で説明した方が分かり易いだろうね(下図1)。外面から内面というのはケイブコンパスでいう思形(=ψ9)を指し、内面から外面というのは感性(=ψ10)のことを指してる。ブルーの矢印が外面から内面に向かって、反対にレッドの矢印が内面から外面に向かっているでしょ。フロイト流に言えば、ブルーの流れが現実原則で、レッドの流れが快感原則だ。
藤本 図式だけではよく分からないので、人間の外面と内面を一言で簡単に説明していただけませんか?
半田 内在と外在、もしくは主体世界と客体世界という言い方ができるかな。いずれにしろどちらも意識の在り方の違いによって生まれているものだということ。外在が絶対的な客観世界として存在してそこで意識が生まれているのではなく、外在も意識の在り方の一つにすぎないということだ。
藤本 ということは、上に示されたケイブコンパスの図を参照して言えば、男のリビドーが外在世界の認識の方を作り出し、女のリビドーが内在世界の認識を作り出しているということですか?
半田 そうだね。悟性的なものと感性的もの。思考的なものと感情的なものの関係と言いい変えてもいいよ。神智学-人智学の言葉で言えばメンタル体的なものとアストラル体的なもの関係と言っていいかな。
藤本 男=悟性、女=感性。。何かフェミニストから殴り込みをかけられそうですが。。
半田 はは。美人だったら歓迎します。ユングのアニマとアニムスではないけれど、人間はこうした男なるものと女なるものの両性からなっているということを言いたいのであって、決して即物的に男と女のことを言ってるわけではないよ。
藤本 そうですよね、今までそうした言語的な観念としてしか言い表せなかったものをヌーソロジーでは空間の構造として幾何学的に描像しようとしているんでしたよね。
半田 その通りだね。そのような意識の類型の分別を空間のカタチとして知性の中に再表現しようと思っているんだ。ここで表現されるカタチこそがヌーソロジーがイデアと呼んでいるものだね。もっと卑近な言い方をすれば霊的世界を天上からこの地上に引きずり下ろして、天上と地上の区別を消すってことかな。
藤本 そのカタチを表現するために重要な役割を果たしているのが身体空間だということなんですよね。
半田 うん。科学のように数式や図式上の理解でもなく、宗教のような情緒的理解でもない。身体を通じて空間を見たときの構造的な理解だ。ヌーソロジーは意識変革のためにもっとも重要なことは、従来の空間に対する3次元イメージに大きな変更を加えることが何よりも重要なことだと考えているんだ。空間認識が変わらなければ意識が変わったとはとても言えない、ということだね。
藤本 では、人間の外面と内面を身体を中心にイメージした場合、どのようなものとして出現してくるのでしょうか。
半田 最も分かり易い言い方をすれば、身体の「前」と「後」と言っていいと思うよ。「前」が人間の外面。「後」が人間の内面。
藤本 う〜む。ということは、「人間の外面」というのは主体や内在が存在しているところだと言われてましたから、僕らが主体や心の世界と呼んでいるものは身体の「前」のことで、反対に客体や外の世界と呼んでいるものは身体の「後」のことということになりますね。
半田 だね。その通りだよ。そういうふうに主体や客体概念を変更していかなくてはならないということだね。なぜ、そういう変更が必要なのかを具体的に語っていくのがヌーソロジーの入口の醍醐味でもあるんだよね。とにかく最初のうちは「えっ!!」「うそでしょ。」「まさか!!」のオンパレードになると思うけど、そのうちいろいろなことがビシバシ繋がってきて深く合点が行き出すと思うよ。
藤本 う〜ん、まだまだわっからないなぁ。。。。でも、なんで身体の「後」側が内面で、「前」側が外面なんでしょうか?そのときの内とか外とかというのは何を基準に言っているんですか?
半田 実際に目に見えているか、見えていないかだね。見えている世界のことを外面と呼び、見えていない世界をを内面と呼んでいる。ただそれだけのことだよ。たとえばこうしてタバコを手にとったとき、タバコのパッケージは見えているよね。これはパッケージの「外面」だ。「外面」だから見えている。そう考えよう。だけど、バッケージが印刷されている紙の裏面、つまり内面側は見えない。同様にパッケージの裏側も見えないよね。だから、それも内面だ。それと同じで、人間にとって身体の前方向は常に見えている。でも、背後側は常に見えてはいない。だから、前者を人間の外面と呼んで、後者を人間の内面と呼んでいるんだ。
藤本 外面は見える世界。内面は見えない世界ということですね。確かに見えている世界は常に身体の前側であって後側の世界は見えてはいません。でも、なぜ、それを「面」と呼んでいるのかが分かりません。内面や外面に付いている「面」という呼び方があまりしっくりとこないのですが。だって身体の前方向も後方向もそれなりに奥行きを持っているでしょ。僕らは普通、面というと、テーブルの表面のように平べったい広がりのようなものをイメージしてしまいますから。
半田 そうだね。だから、ヌーソロジーの思考空間に入るためには、普段僕らが「前」や「後」に対して抱いている広がり(奥行き)の感覚を一度幼児に戻った感覚になって頭から消し去ってもらわなきゃいけないんだよね。純粋知覚というやつ。幼児の意識にはどちらが遠いとか近いとかそんな遠近感覚はまだ生まれていないよね。「前」はそれこそペッタンコに潰されて”面的”な空間として見えている。そうした認識に一度リセットする必要があるんだ。数学的に言えば目の前の空間を2次元射影空間として考えるということなんだけど。。
藤本 そうした見方をすることによって何が分かるというのですか?何か有意義な発見でもできるというのでしょうか?世界をより複雑に見て、返って頭を混乱させるようにも感じてしまうのですが。
半田 オッカムのカミソリかい?はは、今の段階ではそうかもしれないね。しかし、ヌーソロジーの思考に慣れてくると、世界をこれほど単純化して見る思考法は他にはまず存在しないということが分かってくるはずだよ。ヌーソロジーはあるがままに世界を見ているだけであって、今の人間型ゲシュタルトの方があるがままに世界を見れなくなっているから、逆にあるがままに世界を見ることの方を難しく感じてしまっているだけなんだよね。禅師が言うように、一度、君のそのお茶碗の中を空っぽにする必要があるね。そして、一からヌーソロジーの概念で自分の認識の成り立ちというものを再構成していってみるといいよ。するとヌーソロジーがなぜ、身体における「前」と「後」の差異を重要視しているかが自然と理解できてくる。保証するよ。
藤本 そこまで言われるなら一応、半田さんを信用しましょう。続けて下さい。
半田 OK。じゃあ、射影空間のところから続けるよ。射影空間というのはとりあえず視野空間を面としてみたときのことを言ってると思えばいい。僕がいつも使う「モノを中央に挟んで向かい合う自己と他者」という思考モデルがあるよね。
藤本 ええ、NC(ヌースコンストラクション)のもとになっている自己-他者とモノの配置図のことですね。
半田 そう。身体の「前」をもし2次元の射影空間(射影平面)として見ると、自己と他者が向かい合った状態では、それぞれに見えている射影平面は互いに裏返しの関係になっているのが予想されるよね。つまり、射影の方向が正反対なので向かい合う自他がそれぞれに形作っている視野空間のカタチは射影平面のオモテとウラという言い方ができるわけだ。
藤本 確かにそうですね。こうして今、僕と半田さんが向かい合っているとして、僕が見ている視野面は半田さんの背後側で構成されており、同様におそらく半田さんの視野面は僕の背後側で構成されている。。これが半田さんのおっしゃる「自己と他者では人間の外面と内面が逆に構成されている」ということの意味ですよね。
半田 うん、その通り。下にイメージ図を添えておくね。
藤本 でも、だからなんだというのでしょう?当たり前のことのように聞こえますが。
半田 確かに当たり前だ。でもね、実は現在僕らが一般に受け入れている時空概念ではこの当たり前のことがうまく説明できないんだよ。
藤本 えっ?どうしてですか?
半田 時空というのは3次元の空間+1次元の時間で4次元時空としているわけだけど、空間だけ取ってみればあくまでも3次元だよね。実は射影空間を裏返しにできるのは4次元空間においてであって、3次元空間じゃ1つ次元が足りないんだ。
藤本 えっ?それってどういうことですか?
半田 たとえば、3次元空間の中に僕と藤本さんがいる、とする。普通は、僕と藤本さんの身体が位置している場所を3次元空間の中で互いに入れ替えれば僕の視野空間と藤本さんの視野空間を入れ換えることができるように思っているでしょ。
藤本 ええ。半田さんの場所に僕が移動すれば、今、半田さんが見ている風景を今度は僕が見るようになるってことですよね。
半田 うん。でも、時空という枠組の中に僕と藤本さんの身体をモノのように位置させてしまうとそうはならないんだ。つまり、藤本さんがどのように移動しようと僕の見ている風景を藤本さんは絶対に見ることができないし、逆もまたしかり。。
藤本 ええ〜?どうして?
半田 僕と藤本さんの物質的身体の位置を互いに入れ替えるというのは、幾何学的に言えば単なる2次元の球面上での回転での位置の入れ替えであって、このような回転移動では視野空間を構成している射影平面を入れ換えることはできないんだよね。というのも、射影平面というのは幾何学的に捩じれを持っているから。ちょうどメビウスの帯みたいにね。だから、この入れ替えを可能にするような回転を起こすには3次元じゃ空間の次元が一つ足りないんだ。4次元空間じゃないと無理。
藤本 だとすると、それは一大事ですね。時空の中では誰も外界を共通のものとして見ることはできない、客観世界なんてものはどこにもない、ってことになってしまう。
半田 そう、見えている世界は常に主観であって、そこに客体などはないってことさ。
藤本 ということは見えている世界自体を自分と呼んでも何も矛盾はないことになりますね。
半田 ああ、そうだよ。世界は4次元時空として構成されていて、それを見る機能を持った物質的身体がその時空内部に存在させられていて、そこから人間は世界を観察している——これが科学を始めとする一般的な世界知覚に対するイメージだと思うんだけど、単に目の前の空間を射影空間と解釈しただけで、現在の僕らのモノの考え方には赤信号が点滅してしまう。科学が意識に対してメスを入れることができないのも、外界と内界という認識が拠って立つ位置の取り方が極めて曖昧というか、事実とはほど遠い概念の中でステレオタイプ化されているからなんだ。その曖昧さが、意識や精神といった概念に対するイマジネーションをより貧困なものにしている。
藤本 つまり、時空の中に物質があって、その物質が複雑に構成された結果として人間の肉体があって、その複雑さの度合いから意識というものが発生し、その意識によって人間は肉体から外部の世界を眺め、自省的意識を持つことができるようになったというような話は人間が勝手にデッチ上げた作り話だということですか。
半田 まぁ、そこまでは言わないけど、どうも真実を指し示してはいないということだね。まず時空があって人間がそこに生まれて来たのではなくて、まず最初に人間がいてその後で時空が概念として生まれて来たとする方が正しいと思うよ。
藤本 時空が概念として。。
半田 そう、時空というのは実在じゃないってことだ。あくまでも概念によって構成されているものにすぎない。数学では(非)ユークリッド空間よりも射影空間の方がより原型的なものだと考えられているんだ。つまり、射影空間からユークリッド空間が構成されてくるということ。このことが何を言っているかわかるかい?
藤本 ………?
半田 つまり、射影空間がまず先に与えられないとユークリッド的な空間は生まれてこないということ。このことを人間の現実に当てはめれば、幼児期は人間は空間を射影空間として経験している。そして、その空間をもとにして自分中心の空間を作り出して行く。この中心は言うなれば無限遠平面なんだけど、そこに他者が介入し、自分の身体性や言葉を獲得していくことによって、この無限遠平面が排除されてしまう。数学的にはこの排除によって計量が可能となりユークリッド空間が成立してくる。何が言いたいかというと時空は「世界を観察している自分」を消滅させるという脱中心化によって初めて生じてくる世界だということなんだ。
藤本 つまり、自分という中心をしっかりと持っている赤ちゃんや幼児にとっては時空は存在していないということですか?
半田 うん、存在していない、というか実際に認識として成立させてはいないよね。少なくとも僕は覚えていない(笑)。時空というものは人間の意識発達によって後天的に構成された概念の一つにすぎないということだよ。その概念に合わせて僕らがすべての事象を整理しているだけ。カントという哲学者は時間・空間はアプリオリ(経験に先立った)な直観形式だと言って、世界を何とか主観の方向にもってこようとしたのだけど、実はこれではまだデカルトが論じた客観としての延長概念の抗力を消し去るには中途半端で、時間や空間はあくまでもアプリオリというよりもむしろアポステリオリ(経験に準ずる)な直観の形式なんだよね。問題の本質は、どうしてアポステリオリにそうした直観が人間の意識に芽生えてくるのかというところにあるのであって、そこで暗躍している無意識の仕組みこそがアプリオリなものなんだよね。だから、ヌーソロジーはその無意識の中にあるより原型的な空間に立ち返って、時空の発生の契機について考え、かつ、そこを足場として精神と物質の関係性についても考え直そうとしているんだ。
藤本 その原型的空間の立ち上がりとして、人間の内面と外面という概念がどうしても必要になるということなんですね。
半田 そう。絶対に必要不可欠なものだと思う。
藤本 そしてそれが身体の「前」と「後」だと。
半田 うん。
藤本 シンプルですよね。
半田 と思うんだけどねぇ〜(笑)。
藤本 でも何で「後」が女で、「前」が男なんでしょ?
つづく。
7月 1 2009
空間を哲学する——対話編その2
●「前」と「後」が意味すること
半田 その理由付けを話す前に僕が「前」と「後」と呼んでいる身体が持った方向についてその意味合いを正確に把握してもらう必要があるんだよね。その把握が不十分だと何を言ってるか分からなくなる恐れがあるから。
藤本 そうですよね。半田さんが言ってる「前」とか「後」というのは、体を外部から見たときの前や後のことではなくて、あくまでも身体の内部において自分が感じている「前」と「後」という方向性のことですよね。
半田 そう、身体を不動のものとして見たときの言わば「絶対的前」や「絶対的後」のことを言ってる。だから、後だろうが上だろうが空間のどの方向を向いてもそこは「前」ということになるね。
藤本 ということは、自分の周囲をグルリと見渡せば、そこは全部「前」ってことになって、見えているものが存在しているのはすべて「前」ってことになりますよね。とすると、前以外の後とか、左右とか、上下とかってのは一体どこにあるんでしょう?
半田 それが意識の中ってことじゃないかな。意識の中で重なって存在させられている。意識の中で空間が多重に重なり合って存在していると考えるといいんじゃないかな。その畳み込みの構造がヌーソロジーが無意識の構造と呼んでいるものなんだ。
藤本 つまり、普段、僕らは自分の身体を包んでいる球体状の空間というのは3次元だと考えているけど、ほんとうのところは前だけで構成された球体や、後、左、右、上、下といった各方向それぞれの集合が形作る全く別の球空間が、それこそ身体の回りに重なり合って存在させられているということですか?
半田 実際に今、確認してみるといいよ。そうなっているでしょ。
藤本 確かにそうですね。
半田 今、藤本さんが感覚化している空間は身体空間と呼ぶにふさわしいものだよね。そして、ヌーソロジーではその空間こそが高次元空間の正体ではないかと考えているんだ。
藤本 なるほど。僕らは普通、身体というと、いつも自分の身体を外から見て物質的な肉体として解釈しがちだけど、そうすると身体は単にモノの塊と違いがなくなってしまいますね。でも、身体を今、自分自身がいる場所そのものとして考えると身体は物質的存在というよりも空間の中に溶け込んだ境界のない存在のように感じてきます。そして、その空間はモノが存在しているような空間とは全く違う種類の空間のように感覚化されてこないこともない。。。
半田 うん。ヌーソロジーはそうした未知の空間にアクセスしようとしてると思えばいいよ。それを知性に引っ張り上げてくるとでもいうのかな。そして、それらの空間と自分の意識との関係を明確にすることをとりあえずの目標としている。。
藤本 身体空間ってエヴァでいうATフィールドみたいなやつですかね。その空間に入っちゃうと物理的攻撃がまったく意味を為さないというか(笑)。
半田 物理的攻撃というよりも物理的な思考によって形作られた様々な概念の攻撃は一切通用しないよ、ってことだろうね。身体空間そのものにおいて現象を見つめれるようになった意識はもう3次元世界にはいないってことになるだろうから。
藤本 人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの遷移。つまりヌース的幽体離脱ですね?
半田 そうした空間認識の中では少なくとも自分が物質的肉体の中にいるという観念は消滅してしまうだろうから、その意味では魂が肉体を離れたという言い方ができるね。
藤本 身体空間に前-後、左-右、上-下という三つの軸があるとして、半田さんはいつも前-後軸から話を始められるのですが、それは意識にとって前-後という方向が最も基本的な方向だからなのですか?
半田 うん。少なくとも「見える」という視覚に関して言えば、被造物のすべては身体に対してつねに「前」に存在しているよね。だから、そこからじゃないと話自体が始まらない。世界は光とともにありきってことだ。というのも、ヌーソロジーでは古代の伝統的な秘教と同じく光そのものが精神だと考えているからね。その意味で言えば、「後」というのは決して光が入り込むことのできない闇の世界のことでもあり、実のところいかなる存在物も存在していない「無」の場所だということになる。ヌーソロジーではそれを「付帯質」って呼んでいるんだけど
。
藤本 ははぁん、付帯質というのは無の意味だったんですか。
半田 精神としての力が存在していないという意味でね。
藤本 ということは、精神が男で、付帯質が女ってことですかね。光とともに精神のすべてがある場所が男で、何もない無の場所が女。こりゃぁ、ますます女性群からブーイングが起こりそうだ。
半田 いや、卑下する意味で無のことを女と言ってるわけじゃない。むしろその逆だよ。無とは言い換えれば創造の原初の場とも言っていいし、そこからすべての精神が生み出され、かつ、それらの精神がそこで物質として表現されるという意味では創造自体を創造をする本源力と言えないこともない。つまり、無は神を創造する場でもあるという考え方もできるということだよ。意識空間全体から見れば、万物が存在者として存在する状態である「有」とは、創造を終えた精神の全体性が創造の始まり以前である無の中に首を突っ込んで、その精神の履歴を物質として見せている状態なんだよね。
藤本 本にも書いてあった「物質世界はタカヒマラ(宇宙精神)の射影である」という内容ですね。
半田 うん。そして、そこから次なる精神への進化の方向性として精神が光を立ち上げていると考えてほしいんだ。われわれ人間が世界を「見る」ということの本質的意味はそこにあるんじゃないかと思ってる。
藤本 人間の女が男を生むように、この女(無)もまた創造者としての新しい精神を生む可能性を人間という存在の中に孕んでいるということですね。
半田 そうだね。より正確に言えば、女が男と女を子供として生むように、この無なる女もまた創造者としての新しい精神と創造を受け取るものとしての新しい無を生み出す可能性の両方を持っているということだね。
藤本 やがて起こる進化が人間の意識を定質と性質の二つに分けるというヌーソロジーの審判の体制!!ですね。
半田 はは、意地が悪いね、藤本さんは。ヌーソロジーはそれほどユダヤ思想的ではないよ。分かれるのはあくまでも自分であって、個体が選別されるわけじゃない。もともと「わたし」というものが二つの意識の流れからできていて、人間には一つの流れしか意識できていない。しかし、もうじきもう一つの意識が目覚て、自分自身を二つに分離するということなんだね。これは裁きでも何でもない。単に一つのものが二つに分離を起こすということさ。
藤本 いゃ、いまだにそうした終末の裁きを信じたがる人たちが大勢いますからね。ヌーソロジーはそうした思想とはきっちりと一線を画したものであることを半田さんに表明してもらうためにも、ここは一発、突っ込みを入れてみました。
半田 おお、さすが藤本さん。僕の分身みたいだね。
藤本 のつもりです(笑)。
半田 さて、さっきから言ってる創造というのは、物質のもととなっている精神の創造のことを言ってるんだけど、「前」というのは文字通り現象世界(phenomenon)が現前(present)する場だよね。理由は分からないけれどもとにかく世界が現象化し、光とともに無数の存在物が僕らの身体の「前」に存在させられている。もちろん僕らはこの由来を露ほども知らない。これらは創造者からの純粋なる贈与として送り出されてきているわけだ。
藤本 ふむふむ。前は神からの贈与だと。
半田 そう。そして、その受取人が実は身体の後だということだ。後が前を受け取っている――つまり、世界がこうして存在しているということは男(神=万有)が女(人間=無)にプレゼントを渡しているようなものとしてイメージしてみようというわけさ。
藤本 ものすごいプレゼントですね。世界そのものを君にあげるよって――か。神ってカッコいいなぁ。で、そのブレゼントの目的は何なのですか?男が女に贈り物をするとすればそこには必ず下心があるはずですよね(笑)。無償の愛なんて言わせませんよ。
半田 そう、ある。やっぱりセックスだと思うよ。存在論的レベルでのね(笑)。
藤本 へっ?存在論的レベルでのセックス?何かすごいエクスタシー感じちゃいますね。
半田 いいかい。後には何もない。おそらく、そこは無底としての深淵だよ。この無の深淵を宇宙的な女性器だと考えてみよう。
藤本 夜は昼よりも深い。そして、女は男よりも深い。ってわけですね。
半田 そう。遥かに深い。遥かにね。たとえ神でもこの深淵には理解が及ばない。
藤本 だからこそ、男はその深淵に首を突っ込みたがる。いったいアソコはどうなってるんだと。。
半田 その通りだね(笑)。この無は「前」である神から彼のイチモツを奥深く挿入されている。神はその無底とも言える場の中に自らの性器を挿入し、そのまぐわいを快楽と感じながら精子をバラまいているんだ。それによって存在と存在者、すなわち現象世界が生まれている。
藤本 現象がこうしてある、ということ自体が存在論的セックス………?
半田 うん。そして、このときバラまかれている精子が実は僕らが言葉と呼んでいるものだと考えてみるのさ。
藤本 言葉が精子?
半田 うん。一般には言葉はコミュニケーションのための記号体系とされているよね。そして、この体系はサルから人間に進化する過程で人間の精神が自然に獲得してきたものだと考えられている。しかしヌーソロジーではそういう考え方は御法度だ。あり得ない。それは人間という存在を物質進化の結果の生成物としてしか見ることのできない科学信仰が作り上げた言語観であって、言葉というものはそんな底の浅いものじゃない。もっと存在全体に根を張った宇宙的な霊力と考えるべきだと思う。宇宙を創造した精神が事実としてどこかに存在している。それがヌーソロジーにおける仮定的前提だ。言葉といものはその精神が歩んだ足跡をあたかも遺伝子のようにして自身の体系のうちに内蔵させている。そして、それは光となって「無底」という名の女の腹の中に流れ込んでいる。そこに生まれているのが言葉ではないかとダイナミックに仮定してみようというわけだ。古代のアレキサンドリア人たちがよく言ってたロゴススペルマティコス(種子としての言葉)というやつさ。初めに言葉ありき。言葉の命は光であった――ていうね。
藤本 ………つまり、前が言葉を精子として後に流し込んでいるということですか?そこに人間が生まれている。。
半田 だね。たとえば生まれたての赤ん坊を想像してみよう。彼、彼女の意識には「前」しかなく、そこにはたぶん後はない。つまり、赤ん坊には無という観念はないんだ。赤ん坊にとってはただあるものだけが見えるものとしてただある。ここでいう「前」というのは純粋知覚の世界だ。その意味で言えば赤ん坊の意識は「前」である宇宙精神と一体化していると言っていい。つまりウロボロス的状態だ。しかし、赤ん坊はそのうち言葉を覚え始める。言葉というものは知っての通り赤ん坊の中に自然発生的に生み出されてくるものじゃないよね。それは親とか兄弟とか近しい他者によって言い伝えられ、教授されていくものだ。そして、当然、彼らは赤ん坊の背後からそれらの言葉を伝えるのではなくて、前から笑顔を以て伝える。ちゅばちゅば、とか、ぶーぶーとかいいながら、哺乳瓶や自動車のオモチャなどのモノを使ってね。つまり、赤ん坊は他者から投げかけられるモノへの眼差しや指差しによって言葉を習得していくんだ。
藤本 そうですね。赤ん坊が母親の視線や指差した方向を辿ってモノを眼差すというのは言葉の獲得にとても大切な条件だと心理学の本で読んだことがあります。でも、どうしてそれが赤ん坊自身の「後」と関係しているのでしょう?母親が指差して名指すものは赤ん坊にとってはやはり前にあるのではないですか?でないと見えないし。
半田 いや、赤ん坊にとっては「母親が名指しているモノは決して見えない」という意味でやはり赤ん坊の後にあると考えなくちゃいけない。
藤本 ?
半田 丁寧に説明するね。こうして僕と藤本さんが向かい合っている。今、真ん中にちょうど灰皿があるよね。僕が藤本さんに向かって「ここに灰皿があるよね。」と言ったとしよう。当然、藤本さんはそれを即座に了解する。しかし、ここで大事なことは僕と藤本さんは決して同じ灰皿を見ているわけじゃないということなんだ。僕が見ている灰皿の面は藤本さんには見えないし、逆もまたしかり。つまり、モノの前と後もまた身体の前と後と同じで、対峙し合う自他の関係においては、見える部分と見えない部分とか反転した関係にあるということなんだ。
藤本 でも、灰皿を回せば、僕が今見ている灰皿の部分は半田さんに見えるようになりますよね。
半田 そうだね。でも、藤本さんに見えていたその灰皿の当の部分は僕の方に回そうとした瞬間に見えなくなってしまう。結局のところ灰皿の全体像を僕と藤本さんが同じものとして同時に見ることは決してできない。たとえグルっと一回転させて互いがそれぞれに灰皿の全体像の記憶をとりまとめたとしてもそれらの全体像は決して3次元世界の中では重なり合うことはできないんだ。
藤本 なぜですか?
半田 さっき言ったように、二人が見ている空間が射影空間のオモテとウラの関係になっているからさ。
藤本 ということは、つまり。。他者によって名指されたものにおいては空間が反転しているってこと?。。
半田 そういうことになるね。射影空間として視像を見た場合、やはり向かい合う自他が見ているモノもそれ自体が反転しているってことだよ。そして、言葉や光ってのはその表裏を自在に反復して行き来している力のようなものなんだ。ということは、僕らが世界を言葉で構成し、その契機が他者からの言葉に依拠しているとすると、赤ん坊が最初に会得した言葉によって構築されていく世界は、他者の前世界が自己の後の空間にコピーされていっている世界ってことになる。つまり、言葉で認識が組み立てられている場所には実際には何もない。。。。
藤本 げっ、何もない無の場所に言葉が次々に投げ込まれていって、そこにある種ヴァーチャルな世界が、目の前に見えている世界を模写するようにして作り出されていっているということですね………ん?でも、それなら僕らはどうして言葉でモノの存在を相互に了解できるんでしょう?
半田 いい点をついてきたね。そのことについてはまた後で納得のいくように説明することになるよ。とにかく、今、考えてほしいのは、言葉の力はないものをあたかもあるもののように錯覚させる力を持っているということなんだ。そして、僕らが言葉によってモノの世界を認識しているということは、この言葉によって構成された世界の方を客体世界、つまり、外の世界だと思い込んでしまっているということなんだ。
藤本 ん~と、今、目の前にモノが見えている。しかし、これが灰皿だ。とか心の中でつぶやいて確認している灰皿自体は、その目の前に見えている灰皿ではなくて、もともとは他者に見えている灰皿で、それは自己にとっては前ではなく後の空間、つまり反転した空間に存在しているってこと。。。。あ~ん、頭がこんがらがってきました。。僕らが外の世界と呼んでいるものは他者にとっての「前」がわたしの「後」へとコピペされたもので、それはすでにわたしの「前」ではなくなっているということですね。じゃあ、「わたし」が今前に見ているものとは、それは外の世界ではないとすれば一体何だというのですか?
半田 俗にいう内側の世界さ。藤本さん自身だよ。いつも言ってるよね。「前」が本当の主体なんだって。つまり、「わたし」という精神自体が息づいているところ、それが「前」の正体なんだよね。
藤本 う~ん。。外の世界というのが言葉によって作り出された空間で、それが後の空間であるというのは何となくですが分かりかけてきました。だけど、前がなんで本当のわたしなんでしょう?泣いたり笑ったり、苦しんだりしているこの「わたし」自身のこころは前に存在しているということになるのですか?
半田 うん。たぶんそうだ。前にある。。。
藤本 どうしてそう言えるのですか?
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: タカヒマラ, ユダヤ, ロゴス, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 対談, 言葉