7月 8 2009
空間を哲学する——対話編その4
●男と男、女と女、そして男と女
藤本 なるほど、つまり感性=前が感じている時間というのは別に過去から現在というようにしっかりと秩序立てられて並んでいるわけじゃなく、今・現在の中にアーティストが作り出すコラージュのように順不同で一緒に重なり合っているようなもので、それを一週間前だとか一年前だとかを目盛りがついた物差しのようなイメージに沿って判断しているのは悟性=後が作り出している時間だということなんですね。
半田 後そのものが悟性というわけじゃないけど、ベルクソンが言うような「空間化した時間の場所」はおそらく後にあると言えるだろうね。その意味で感性の時間における「今」と悟性の時間における「今」というのは全く別な意味を帯びてくるんだよね。つまり、両者には絶対的な差異があるってことなんだけど。感性の時間における「今」というのはすべての過去を含んだ生きる現在そのもののことを言い、それは極端な話、ニューエイジがいう永遠の今と言い換えてもいいような今なんだよね。でも、悟性における「今」というのはそれこそ物理学でいう点時刻のように一瞬に過ぎ去ってしまう「今この瞬間」のことで、それは数量化されている時間の素のようなものでもあるよね。時間はこの二つの「今」があるからこそ時間として成り立っているのであって、物理的な視点だけで時間のことを考えてもほとんど意味をなさないと考えた方がいいんじゃないかな。
藤本 それら二つの時間もまた、身体における「前」と「後」の関係にある考えていいのですか?
半田 うん。ヌーソロジーの観点では互いに反転した4次元の関係にあるものと見なせるからそういうことになるね。「時間と別れるための50の方法」にも書いたように、4次元空間と4次元時空の関係にある。哲学的には持続と延長、内在と外在という言い方ができると思うよ。
藤本 4次元空間が持続で、4次元時空が延長ということですね。
半田 そうだね。ベルクソンと表現は逆になっちゃうけど考え方は同じだ。
藤本 う~ん、なるほど、「前」が4次元空間で僕らが内在と呼んでいるところ、つまり主体の世界。「後」が4次元時空で僕らが外在と呼んでいるところ、つまり客体の世界ということですね。
半田 まとめて言うとそういうことだね。
藤本 ヌーソロジーが身体の前と後をどう見るかということは何となく分かってきたんですが、となると、自己と他者の間ではこれら両者の関係も相互に反転した関係になっているということですか?
半田 そうだね。恐ろしいくらいに見事にひっくり返されていると言えるんじゃなかろうか。
藤本 でも、それだと話が少しおかしくなりはしませんか?
半田 どうして?
藤本 さっきの続きになりますが、たとえばここにある灰皿は、今、半田さんと僕の間で互いに共通して外在世界にある客体と見なされていますよね。
半田 そうだね。僕も藤本さんも外の世界にあるものとして見ているね。
藤本 ということは僕の外在認識が別に半田さんの内在認識にはなっているわけではないですよね。
半田 うん、なっていないね。
藤本 それはなぜなんでしょ?
半田 いいところをついてきたね。これでようやく例のアリストファネスの寓話に隠されている意味についてヌーソロジーの視点から話すことができるかな。。再度、おさらいしておくよ。あの寓話の中では、人間は太古の昔、背中同士がくっつき合った生き物だったとあったよね。これはあくまでもヌーソロジーからの解釈になるけど、この話は決して人間の物質的肉体がシャム双生児のようにくっつき合っていたという意味じゃないんだ。霊的な身体の問題を言ってると思ってほしい。
藤本 霊的な身体?
半田 うん。さっきから僕が身体空間と言っている身体における前後、左右、上下という空間のことさ。背中同士のくっ付き合いということは、特に自他の身体空間における前後を問題としていると思ってほしい。
藤本 太陽が男・男の背中合わせ、地球が女・女の背中合わせ、月は男・女の背中合わせというやつですね。
半田 うん。とにかく話を分かり易くするために図を書いて説明してみよう。
藤本 お願いします。
半田 まず、今、僕と藤本さんがモノを挟んでこうして向かい合っているとしよう。青い矢印が僕の「前」と藤本さんの「前*」を表し、赤い矢印が僕の「後」と藤本さんの「後*」を表している。僕と藤本さん、それぞれの前と後はこの図のように互いに重なり合って存在させられていることが分かるよね。
藤本 はい、確かにこの図のような関係になっていますね。
半田 さて、さっきも言ったように前は現実として”見えている”ものであり、そして、その奥行き方向は完全に潰されているので、視野空間上においては長さ無限小にまで縮められてモノの中心点と重なって同じものに見えているはずだよね。
藤本 視野空間は面としてしか見えていないからそういうことになりますね。
半田 そして、このとき気をつけなくちゃならないのは、この無限小にまで縮められた「前」はもう3次元空間(x,y,z)の中のz方向としての奥行きではなく、それは時間でもあるのだから4次元としての方向を持っているということなんだ。
藤本 分かります。モノだけの世界ならばモノからの空間の広がりは3次元と見ていいけど、そこに観測者、つまり見ることが関与していると、その見るという出来事が起こっている空間は4次元になっているということですね。
半田 おお、優秀!!ヌーソロジーの言ってることが呑み込めてきたね。
藤本 半田さんの分身ですから(笑)。
半田 するとどうなる?この4次元方向は3次元空間の中で見るとモノの中心である0点付近にごくごく短い4次元の矢印として入り込んでいるということにならないかい。
藤本 3次元の中に映し出されるのであればそういうことになりますね。
半田 だろ。で、ちょっと信じ難いかもしれないけど、さっきも言ったようにこの潰れた奥行きの中には一秒前のモノ、一時間前のモノ、一週間前のモノというように、それこそモノの認識を支えている記憶の連なりがイマージュとして入り込んでいる。つまり持続の場所になっているわけだ。
藤本 モノの背景にある空間の方向のすべてが縮まって全部入り込んでいるということですね。。。
半田 うん、奥行きが射影として潰れているということだから、アバウトに言えばそうだ。ヌーソロジーのいう精神の位置だよ。そして、こうした精神が僕側だけではなく、当然、藤本さんの前である前*側にも存在している。だから、藤本さんの精神*も今度は、僕の精神が入り込んでいる方向とは逆方向から同じく極めて短い矢印としてモノの中に入り込んでいるってことになる。
藤本 モノの中心点を中央にして、長さがほとんどゼロに等しいお互い逆方向の矢印として入り込んでいるというわけですね。
半田 だね。これら二つの矢印を図として表すとこんな感じになる。
藤本 あれぇ〜、僕と半田さんそれぞれの前が身体ではなくモノの中心から始まってます。これはどうしてですか?
半田 「前」が主体であるということが分かるとモノの手前に存在していると思っていた身体の位置がモノの中心点にあるように感じてくるからだよ。
藤本 身体がモノの中心点にあるように感じてくる………?
半田 うん。普通、僕らは自分の身体が見えているモノの手前側にあると思っているよね。でも、これは人間の内面の意識によって把握されている身体の位置だと考えるといい。つまり、いついつの何時何分には身体はどこどこの位置にありました、っていうときの物質としての身体の位置だ。これはあたかもモノのようにして捉えられている身体だから、他者から見た自分の身体、つまり、鏡像空間に存在している鏡像的身体だってことになるよね。いつも言ってるよね。自分の顔、もしくは目玉は自分じゃ決して見ることができない。なのに僕らは他者の目に映っている自分の顔や目を想像して、それらをあたかも見えるものとして認識してしまっている。そのようにして認識された身体の位置がモノの手前にいると感じられている自分だってことなんだ。でもほんとうの主体(実像)は今までずっと説明してきたように「前」そのもののとして存在している。前はモノの中心と重なっているだろ。だから、生きられる空間に位置しているほんとうの身体というのはモノの中心に位置していると考えるべきなんだ。
藤本 それってもう肉体ではないってことですよね。
半田 うん、物質的な肉体じゃない。そこに記憶が入り込んでいるならば精神そのものと考えるべきだ。
藤本 ということは、ヌーソロジーのいう精神とはモノの中にあるってことなんですか?
半田 3次元的な表現ではそうなるね。モノの中に微小な4次元となって息づいている。つまり、僕の精神と藤本さんの精神*は背中合わせでくっつきあっていて、モノの中でこの図に示したような二本の青い矢印として存在しているってことなんだ。青い矢印は精神=男なるものを表しているから、この様子がつまり、男・男が背中合わせになっている状態だということになる。
藤本 それが太陽の子ってことですか?
半田 そうだね。モノの中に入り込んでいる精神の対化が等化されている状態だ。物質を作っている本質的な力のことさ。具体的な説明はここではできないけど、この男・男の一体化(等化)はいずれヌーソロジーの中では太陽の中で起こっている核融合の本質力として語られて行くことになるんだ。
藤本 核融合。。
半田 OCOTも言ってたろ。なぜ、太陽は燃えているのか?って。
藤本 『人神』の内容ですね。
半田 うん。太陽が燃えている理由を一言でいうと、それは創造の精神が人間に物質という概念を与えるため、と言えるだろうね。客観的世界に物質が存在する。。そうした概念はどうやら太陽の核融合が原因になっているようなんだ。いや、逆かな?人間が客観的物質概念を意識に形作っていることが太陽の核融合を起こしていると言っていいのかもしれない。。
藤本 それって、つまり、人間型ゲシュタルトそのものの力ってことじゃないですか。何でですか?理由が知りたいなぁ。。
半田 一言じゃ語り尽くせない。興味があるなら、これから先もじっくりとヌーソロジーを追っかけるといいよ。詳細に説明していくことになると思うから。
藤本 ん〜、楽しみだなぁ。分かりました。じゃあっと話を戻しますね。。反対に僕の後*と半田さんの後が結合しているものは何になるんですか?
半田 赤い矢印同士の結合かい?それが僕と藤本さんが共通認識として持っている時空のことだね。つまり、物理的客観世界の広がりのこと。これが女・女が背中合わせになった地球の子って意味だろうね。とりあえずこれも分かり易くするために図で示しておくことにするね。
藤本 あれっ、この図でも後がモノの中心点から始まってるなぁ。
半田 そうだね。人間の外面が見えてくると、モノの手前側と認識されている方向はすべて人間の内面、つまり後と見なされてくるようになるってことだよ。
藤本 ははぁ〜ん、それってつまり、モノ側から自分の方向に向かってくる矢印の方向だから、自分にとっては背後方向として見なされるってことですね。
半田 うん、しょうゆうこと。方向性が問題なんだね。
藤本 ということは、僕と半田さんの前同士がくっついたものは物質になっていて、後ろ同士がくっついたものが時空になっているってことですかね。
半田 正確に言うとちょっと違うんだけど、今はそう考えていいよ。男・男*結合と女・女*結合が物質と空間という二元性として現れているってことだね。
藤本 そうか。。二元性というのは男と女のことをいうのではなくて、男・男と女・女のことを言うんだ。
半田 うん、初めにもいったよね。宇宙を流動している力の性関係はよく言われているように陰と陽の二種類だけじゃないって。それらは「わたし」と「あなた」の関係と同じように互いに反照し合っていて、陰と陽、陽*と陰*という四値的な関係でできているんだ。つまり、陰陽が互いに捻れの関係にあるってことだね。だから、意識の構造について考えるときは必ずこの捻れを念頭において考えなくちゃいけない。
藤本 二元論という考え方そのものが二元論からは決して抜け出せない構造になっているということなんですね。
半田 二元論的な思考や弁証法的な思考の中には他者がいないということさ。だから、二元論者たちは自他さえも「二元」の関係で捉えてしまうことになる。自他は二元ではなくて、四元でしか語れないはずなのにね。
藤本 じゃあ、男・男*、女・女*ときたわけだから、男・女にも男・女、男*・女*というような二つの種類があるということですよね?
半田 そうだね。その働きを持ったところが月だと考えるといいよ。アンドロギュノス的存在の意味だね。この月の力が女・女である時空(=地球)と男・男である精神(太陽)の間を天使的な力として行き交っている。OCOT情報にもあったよね。「月は自己と他者の間を行った来たりしています。」って。つまり、月というのは人間が精神の方向を持たされている状態の象徴なんだ。これが無意識と呼ばれているものだ。だから、人間の外面と内面を持ち合わせている。言い換えれば、肉体そのもののことだね。精神が宿った物質。。
藤本 ということは、太陽が精神、地球が時空。その地球に太陽が映し出されると物質になっていて、地球から太陽、太陽から地球の往復路に月が働いているってことなんですね。
半田 キリスト教的に父と子と聖霊の三位一体と言いたいところだけど、これでは女なるものが抹殺されている。正確には父と母と子の三位一体とすべきなのにね。ここにキリスト教の欺瞞があると思うよ。イエスは単なる子ではなく聖霊としての子だと考えると、処女懐胎なんて話には絶対ならないからね。でも、人間世界が母になってしまうと、神にとっては非常に都合が悪い。なぜなら、神を生んだのは実は人間ってことになるからね。だから、隠蔽のために子を産める万能の父が必要だった。「われらがすべて神の子なり」とする万能の父がね。キリスト教だけじゃなく宗教は物質世界を見下し精神主義に貫かれているという意味で、すべて父権的なんだよ。これじゃだめだ。ほんとうのことが見えてこない。ほんとうのことが見えてくるためには、精神なる父と時空なる母が対等な存在として現象の中で向かい合わなくちゃならないんだ。
藤本 物質もまた重要だということですね。
半田 そう、精神と物質を対等なものとして見れる思考が必要だということさ。それによって、物質はそこから放たれる光の中に新しい精神を宿すことができる。。
藤本 ほんとうの子としての聖霊だ。。
半田 月の目覚めだね。妊娠だ。言葉がカタチになること。。月の中に次代の太陽となるべく新しい精神の子が生み出されてくるってことさ。そのとき、僕らは大いばりで言っていいと思うよ。僕らがすべてイエスなんだって。
藤本 わあ〜、なんかすごい話になってきたなぁ。何だかヌーソロジーは宗教を哲学や科学によって証明する作業のようにも思えてきました。アリストファネスの話にしても単なる神話的なおとぎ話じゃなくて、宇宙的な摂理を分かり易く喩えたものだということかもしれないですね。太古の人たちは今、半田さんが言ったような物質と精神の関係を知ってたんだ。きっと。。
半田 ヌーソロジーの考え方で言えば、当然そういうことになるね。人間は時が経てば経つほど宇宙的な真理から疎外されていく。でも、その疎外は単なる忘却ではなく、新しい想起(アナムネーシス)のための忘却だと考えるといいよ。宇宙は忘却の果てに必ず想起に向けて方向転換する運命にある。宇宙の意思の展進がそうさせるんだ。この発進によって人間は人間の内面に張り巡らされたあらゆる価値のネットワークの転換をはかり、そこにイデアを見出し新しい宇宙の創造を始めるビジョンを持つってことなんだけどね。
藤本 ヌーソロジーが語るアセンションですね。
半田 そう。今は月の中に眠ってて見えないけど、無意識を構成する高次元の存在物を知性の対象として把握することが可能になるってくるってことだ。そういう時代が今から確実にやってくる。だって、僕みたいなパンピーがこんなことを言っているのも、その兆候だと思わないかい(笑)。
——おわり
7月 15 2009
ビートルジュース
ビートルジュースと言ってもティム・バートンが監督したお化け映画の話ではない。オリオン座の赤い星、ベテルギウスについての話だ(ベテルギウス[Betelgeuse]は英語ではビートルジュースと発音する)。先月、ナショナルジオグラフィク誌にこのベテルギウスに起こっている異変についての記事が掲載されたらしい。曰く「この15年間でベテルギウスの大きさが15%ほど収縮している。原因は不明。」ベテルギウスは赤色超巨星と呼ばれるグループに入る巨大恒星である。大きさはちょうど木星軌道と同じぐらいの大きさあると言われていた。それが何とここ15年の間に金星軌道ぐらいの大きさまでに縮んでいるというのだ(15%ほどの縮小にしてはちょっと縮み過ぎ?)。何とも不気味なニュースである。
天体物理の世界では赤色超巨星は質量が太陽の8倍以上もあるような大恒星が辿る次の進化のプロセス段階と見なされている。こうした星は中心部の核融合が鉄まで達するとその反応を停止させ、最終的には超新星爆発を起こすと言われている。で、今回のベテルギウスの突然の収縮騒ぎだが、これはベテルギウス内部の核融合が脆弱化し、今まで核融合のエネルギーによって重力との平衡を保っていた状態が星内部で崩れ出し、重力収縮が始まっている可能性を示唆している。
それにしても15年で15%の縮小とはとても天文学的な数字とは思えない早さである。おまけに研究者の話では収縮速度は年々加速しているという。天体物理の理屈から言えば、その収縮が閾値を超えれば当然のことながらベテルギウスは超新星爆発を起こすことになるのだが、そのときの明るさは最大で満月並みだという。ベテルギウスまでの距離は地球から約600光年ほどしかない。果たして衝撃波等による地球への影響は大丈夫なのだろうか?——というところまでは、あくまでも科学的見地からのお話。
実はこのベテルギウスという星、ヌーソロジーの発祥と極めて深い関係がある。1985年、僕自身、最初の超常体験を経験し、いきなり「オリオンのNOMI」と名乗る意識体からの声が聞こえてきた。その声に導かれるまま、歴史探検やら霊界探検をやらされたのだ。これは神さまのお導きだと信じて疑わなかった哀れな若造は、結果、自分自身の無意識の闇の中に潜むシャドウにボコボコにやられ、見事、発狂。しばらく廃人同様の生活を送っていた。そこで見たこと、そこで聞いたこと、それらは他の日常生活での記憶よりも遥かに鮮明に残っている。ベテルギウスの収縮のニュースを読んだとき、その記憶がはっきりと文字列として甦った。
NOMIはベテルギウスのことを「テツ」と呼んでいた。そして、この「テツ」は現在の人間の霊的な淵源であると言っていた。分かり易く言えば、ベテルギウスという天体は人間存在全体を支えている霊力の反映物だということである。廃人同様の生活を送っていた僕は、当時、冬が到来するだびに、寒空の下、オリオン座の左上隅で赤く輝くこの「テツ」を見つめ続けていた。
OCOT情報には次のようにある。
ベテルギウスとは何ですか?
垂質の等化。
OCOTと交信している当時は「垂質」というシリウス言語の意味をはっきりとつかめていなかったので、当然のことながら、この返答に含まれた意味も分からずじまいだったが、今では朧げながらもある程度の解釈はできる。垂質とは人間の個体を規定する空間のカタチが持った力のことである。ヌーソロジーに詳しい方は次元観察子ψ5のことだと考えてくれればいい。その意味で「垂質の対化」とは自己を規定する空間と他者を規定する空間の関係にある。観察子で言えば、これはψ5とψ*5の関係だ。よって「垂質の等化」とはこれら両者を相等しいものへと持っていこうとする精神の作用を意味することになるのだが、このことは精神分析的に言えば、人間の無意識の欲望を推進させている本源力と解釈できないこともない。つまり、人間の自己における無意識は他者の居所をもとめ、発芽を求め土中を徘徊する植物の茎のように、真の他者との出会いを欲して常時、盲目的な前進を余儀なくさせられているということだ。それは精神分析的に言えば、「他者の欲望を欲望する」欲望として現れる。ヌーソロジーの文脈においては、歴史や経済が見せてきた文明の発展、発達とは、すべてその無意識的欲望の展開の履歴と言い換えてもいい。
他者という存在はヌーソロジーの観点からすれば、真実の自己のことである。人間の自己はこの真実の自己へと辿り着きたいとする本能のもとに、すべての意識作用を営んでいるというわけだ。OCOT情報にいう「垂質の等化」が持ったこのような意味合いは、ベテルギウスが人間存在全体を支えているというNOMIからの情報と極めて近いニュアンスを持っている。
また、次のようなOCOT情報もある。
鉄とは何ですか。
付帯質が持った力の本質。
いつの頃からだろうか。僕はNOMIが語っていた「テツ」とは「鉄」のことでもあると思い始めていた。原子番号26番の鉄はケイブコンパス上で追って行くと、まさに、垂質の等化を行っている精神そのものの位置に当たる。
鉄の減衰——人間という時代を築いてきた自我精神の力が弱まりつつあるのではないか——それがベテルギウスの収縮と何らかの関係を持っているのかもしれない。人間の無意識が真に他者の場所へと辿り着いたとき、すべての価値はニーチェが言うように転換を始めることだろう。否定的な精神の支配は終焉を迎え、肯定的な精神のみの、すべてにおいて「然り!!」と答える全肯定の精神のみの時代が到来することだろう。そのときベテルギウスは赤い星から青い星へと生まれ変わるかもしれない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: OCOT情報, オリオン, ケイブコンパス, ニーチェ, 付帯質